反対者たち
国家がまだ存在しない段階で、その国家に最初に反応するのは、熱狂する者ではない。
嫌悪する者たちである。
六月の三カ国会議が終わって一週間もすると、日本、韓国、中華民国の内部では、それぞれ別の理由で、同じ種類のざわめきが起こり始めていた。まだ新国家はない。条約もない。憲法もない。だが、だからこそ人は嗅ぎつける。はっきり言われていないことの方が、かえって本気なのではないか、と。四谷が最初から狙っていたのもそこだった。人間は完成した制度には遅れて反応するが、制度の臭いには早く反応する。
日本で最初に動いたのは、旧政党人でも、街頭の運動家でもなかった。
内側で干されかけていた官僚たちだった。
彼らは必ずしも民主主義の純粋な守護者ではない。そんな綺麗なものではなかった。むしろ多くは、長いあいだ権限の切れ端を守ることに慣れた、神経質で、優秀で、執念深い人間たちだった。だからこそ危険だった。彼らは国家のどこに本当の権限があり、どの通達のどの一文が後から巨大な意味を持つかを知っている。政治家の演説には鈍感でも、行政文書の語尾には敏感である。
ある夜、霞が関の外れにある古びた料亭で、経産、財務、国交、外務、総務の中堅から上の人間が、私的な会合を持っていた。名目は情報交換。実際には、四谷政権の次の一手を探るための観測会だった。
「これ、もう単なる安保連携じゃありませんよ」
国交省の局長級が、盃を置いて言った。
「港湾優先使用の覚書だけじゃない。保険、検疫、海上警備、貨物仕分け、全部が非常時を口実に共通化へ寄っている。非常時を口実にした常態化です」
「防衛の連中が突っ走っているだけでは」と外務省の男が言った。
「外務はそう言える。だが現場は違う」と財務官僚が吐き捨てた。「共同備蓄と相互代替生産が始まった時点で、予算と徴税と配分がついてくる。金をどう回すかが決まれば、次は統治です」
「つまり」
総務の女官僚が静かに言った。
「国号だけがまだない」
誰も笑わなかった。
彼らは反四谷ではあったが、馬鹿ではなかった。何が起きているかを、一番よく理解していたのは、むしろその種の人間だった。だから彼らは、正面から反対する代わりに、遅らせようとした。法解釈の再検討。関係省庁間協議の追加。予算執行の留保。地方自治体への照会。安全保障と経済政策の分離要求。連携の必要性自体は認めつつ、統合へ飛躍する議論だけを慎重論で包む。官僚制が本気で反抗するとき、叫びはしない。処理速度が落ちるだけだ。
街の側では、もっと分かりやすい反対が起きた。
都内の大学街では、「三カ国連合反対」「軍政による東アジア再編粉砕」と書かれた小集会が開かれた。参加者は多くない。かつての学生運動のような熱もない。だが、数が少ないことと、意味がないことは違う。最終インターの残党も、旧来の左派も、自由主義者も、ただ四谷が嫌いなだけの人間も、奇妙に混ざり合っていた。そこにはまだ統一綱領もない。あるのは、四谷が何か大きなものを作ろうとしている、その予感への本能的な拒絶だけだった。
一方で、旧右派の側からの反対もあった。
彼らは国際主義が嫌いだった。しかも四谷のそれは、普通の保守が好む同盟や提携ではない。国境の上へ、より大きな軍事国家を被せる発想だった。日本民族、日本国家、日本の主権。その語を神聖視する古い右派にとって、韓国や台湾との構造的一体化は、たとえ反米・反中・反共の文脈があっても、どこか汚らわしく見えた。彼らは街宣車を出し、「四谷は国を売るな」と叫び始めた。四谷にとって、その手合いは使える時期もあった。だが国家再編の段階へ入ると、純粋な民族右翼はむしろ邪魔になり始める。狭い祖国愛は、広い軍事国家の建設には向かない。
韓国では、反対はもっと危険な形を取った。
維新軍政府の基盤は若い将校と既存社会に絶望した若年層だったが、その両方が必ずしも日本接近を歓迎していたわけではない。受験地獄と就職難と住宅価格の高騰と兵役に押し潰された世代は、たしかに旧社会を憎んでいた。だが、その憎悪がそのまま日本との連合へ流れるとは限らない。むしろ、旧来の反日感情や民族的屈辱の記憶は、そういう極限状況でこそ、逆に先鋭化することがある。
ソウルでは、六月末から、奇妙な二種類のデモが並立した。
片方は、維新軍政府をさらに押し進め、東アジア統合へ突き進めと叫ぶ若者たち。彼らは日韓台の新秩序建設を、世界史の大転換として夢想した。
もう片方は、日本との接近を売国と呼び、維新軍政府は韓国革命を外国へ売り渡すなと非難する若者たち。こちらもまた過激だった。
同じ世代が、同じような怒りを抱えながら、正反対の方向へ走る。そういう光景は、革命後の社会にしばしば現れる。敵が外にいる時はまとまる。敵が曖昧になると、今度は同じ激情が内側へ向き直る。
維新軍政府は、表では冷静を装いながら、裏ではかなり神経質になっていた。日本接近は必要だ。だが必要だとあまり露骨に言えば、民族主義的な反発が噴き上がる。そこで彼らは、広報の軸を「統合」ではなく「共同主導」に置いた。日本へ近づくのではない。韓国もまた新秩序の共同創設者である。繰り返しそう言った。自尊心に手当てをしながら、実態としては依存を深めていく。みっともないが、それが政治だった。
台湾では、反対はさらにねじれていた。
中華民国改新政府にとって、日本接近は生存のための現実策であると同時に、中国の正統を自称する自分たちの歴史的物語を傷つける毒でもあった。台湾の旧国民党系官僚の一部は、四谷構想を公然とは批判しなかったが、内心では強い嫌悪を抱いていた。中華民国は中国である。連合の一角へ組み込まれる第三の国ではない。そういう古い意地が残っていた。逆に独立色の強い層は、もっと単純に警戒した。日本との構造的一体化は、結局また外部秩序への従属なのではないか、と。
台北の論壇には、六月会議後から妙な表現が増えた。
「戦略的一体化は必要だが政治的一体化は論外」
「技術・海運・防衛の共有は避けられないが、国家意思の融合は危険」
「中華民国は参加者であって部品ではない」
こういう言い方は、反対しているようでいて、実のところ半分は前提を認めている。共有は避けられない。そこまではもう飲み込んでいるのだ。争っているのは、その先を何と呼ぶかだけになり始めていた。
四谷は、その全てを報告で読んでいた。
彼は反対者を軽視しなかった。軽視するほど愚かでも、若くもなかった。むしろ国家形成の初期において、反対者たちは貴重な情報源である。何を恐れているかを見れば、どこが進んでいるかが分かる。官僚が処理を遅らせるなら、実務が本丸へ近づいている証拠だ。民族主義者が怒るなら、国境の意味が本当に薄まり始めている証拠だ。論壇が「政治的一体化はまだ早い」と言い始めたなら、それは防衛・産業・海運の一体化がもう始まっている証拠だった。
だから彼は、反対の熱を消すより、反対の対象を曖昧にし続けた。
連合とは言わない。
統一とも言わない。
ただ、共同参謀研究、共同防空計画、共同海運統制、共同備蓄、共同工業再配置。
言葉を分散させれば、人はどこへ反対していいのか分からなくなる。




