歴史疲労症候群
甲斐章がその言葉を初めて口にしたのは、仕事が終わった後の雑談だった。
「歴史疲労症候群、ってどう思う?」
東峯は露骨に顔をしかめた。
「また雑な質問を……まぁ、文字通りなんじゃないか?文字通りすぎるぐらい。雑な命名だ」
「そう、実態には合ってる。みんな、歴史そのものに疲れてるんだよ。雑というにはかなり正確な命名だろう」「思いつきにしては、の話だろ」
「学問ってだいたい最初は思いつきだよ。後から面倒な脚注が付くだけで」
甲斐はホワイトボードの隅にその語を書いた。
『歴史疲労症候群』
「未来が過去の反復にしか見えなくなったとき、人間は希望を失う、って話だ。でも今の若い人たちは、単に絶望してるんじゃない。もっと嫌な感じだ。希望を信じる努力に疲れてる」
彼は心理学者だった。専門は社会心理と集団認知、そこへ文化変動や政治的感情まで無理に接続しようとしているせいで、純粋な心理学者からは少し嫌われ、政治学者からは軽んじられ、本人はそのどちらもどうでもいいと思っている。人間の心を、本当に個人の内面だけで説明できると考えるのは甘いし、逆に全部を制度や階級や経済へ還元できると思うのも馬鹿だ、と彼は思っていた。その中途半端さが、彼を学問的には微妙な場所へ置き、同時に、時代の匂いには妙に敏感な人間にしていた。
「観念的だな」
「観念を扱うのが心理学だろ」
甲斐は続けた。
「民主主義も、権威主義も、資本主義も、社会主義も、宗教も、もう全部、過去問みたいに見えるんだよ。どれも『知ってる』感じがする。結果も大体知ってる。良くも悪くも、すでに説明され尽くしてる。だから人は理念そのものにアレルギーを起こす。信じる前に、信じた末路を先に想像してしまう」
東峯は腕を組んだまま、黙って聞いていた。甲斐がこういう調子で話し始めるとき、たいてい半分は雑談で、半分は後から意外に残る。そこが厄介だった。
「過去問」
「そう。どの思想も、どの制度も、どの運動も、結果がもう先に分かってる感じがする。理想を聞いた瞬間に、ああ、そのルートで行くと途中で腐敗するやつね、とか、結局既得権益化するやつね、とか、内ゲバか官僚制か市場の勝ちで終わるやつね、とか。そういう反応が先に来る」
「要するに、理念に対する冷笑か」
「冷笑というより、先回りした疲労だな」
甲斐は自分で書いた語を眺めながら、少しだけ指先で板面を叩いた。
「信じる前に、信じた末路を想像してしまう。夢を見る前に、その夢がどの段階で腐るかを知っている気になる。だから最初から本気にならない。本気にならないけど、不満だけは消えない」
それは、たしかに時代の感触に近かった。
街には政治がある。選挙もある。論争もある。デモもある。社会運動も、NPOも、政党も、宗教団体も、自己啓発も、起業家も、インフルエンサーも、全部いる。何も存在しないわけではない。むしろ選択肢だけなら異様に多い。だが、多い選択肢は、必ずしも信頼の多さを意味しない。人間は、選べるものが増えたとき、自由になるとは限らない。選択肢が全部似た末路へ流れ込むように見えた瞬間、むしろ選ぶ気力を失う。
甲斐は、その現象を学生面談の中で何度も見ていた。
就職活動を前にして、まだ何も始まっていないのに疲れている学生。恋愛や結婚に興味がないのではなく、最初から失敗した未来像を先に知っているような顔をする若者。政治に無関心なのではなく、関心を持っても意味がないと確信しているような反応。宗教を馬鹿にするが、自分が何を拠り所に生きるのかは全く言えない者。世界を変えたいという言葉を、善意ではなく羞恥心の対象として処理する学生。
彼らは絶望しているのではない。絶望に至る前の段階で、もう疲れている。
「それで?」と東峯が言った。
「すると二つの反応が出る。一つは、徹底的な縮小。自分の生活圏だけ守る。政治も歴史も切り捨てる。もう一つは、逆に、破局を許容する」
「破局許容」
「そう。大規模災害、戦争、崩壊、虐殺。そういうニュースを見ても、『まあそうなるだろう』、『俺には関係ない』で済ませるようになる。別に驚かない。怒りもしない。疲れてるから」
東峯は無言で、研究室の窓の外を見た。キャンパスは静かだった。若者たちが歩いている。笑いながらスマートフォンを覗き込む学生、コンビニの袋を提げた院生、ベンチで缶コーヒーを飲む教員。どれも一見すると、歴史に疲れているようには見えない。だが精神の疲労というものは、顔の上に分かりやすく出るとは限らない。むしろ、よく食べ、よく笑い、予定をこなし、日常を維持している人間ほど、その底で何かを諦めている場合もある。
甲斐は少し黙ってから、低く言った。
「人は絶望したときより、疲れたときのほうが危ない」
その仮説は、時代の空気に妙に合っていた。
説明に疲れた社会。議論に飽きた大衆。改革を信じない若者。理念を聞いた瞬間に眉をひそめる人々。にもかかわらず、暴力の映像にはよく反応する群衆。
やがて甲斐は、その延長で別の語も使い始める。
『未来縮退感』
「未来が、選択ではなく予定表に見える感覚だよ。いい大学、いい会社、いい相手、いい子供、その反復。あるいは、そのレールから一度外れたら全部終わりだっていう感覚。若年層ほど顕著だ」
「それは単なる階層再生産への不満だろ」
「もちろんそれもある。でも問題は、彼らが不満と同時に、他の未来を想像する筋力も失ってることだ」
その言葉は、研究室の空気を少しだけ冷やした。
東峯は、自分の学生たちの顔を思い出していた。研究を続ける者も、民間へ行く者も、留学を考える者も、だいたい皆、表面上は忙しく動いている。だが、その動きの底に、どこか「どうせ大差ない」という諦めが沈んでいる。努力はする。競争もする。能力を磨く。だが、その先にある社会を、心から信じているわけではない。信じていないのに、そこへ自分を合わせ続ける。その捻れが、たぶん疲労になる。
「さらに厄介なのは」と甲斐は言って、今度は少し間を置いた。
「理念アレルギーだな」
彼はまた新しい語を書いた。
理念アレルギー
「民主主義、社会主義、宗教、人権、自由、平等、博愛、何でもいい。そういう“大きな物語”を聞いた瞬間に、反射的に胡散臭がる。内容を検討する前に、またそういう話か、って眉をひそめる」
「それ自体は健全な懐疑とも言える」
「限度があればね。でも限度を超えると、何も信じられないまま、不満だけが残る」
「それで破局許容へ行く?」
「あるいは、もっと悪いものへ行く」
現代人は、構造や制度の説明では満足しない。
もっと単純なものを欲する。顔のある敵。死ぬべき裏切り者。処刑されるべき悪。殉教者。炎上。公開裁判。
火だるまの象徴。
甲斐はそこで、しばらく言葉を選んだ。
「人は、構造の説明に疲れたとき、顔のある敵を欲しがるんだよ」
東峯は少しだけ顔を上げた。
「敵?」
「そう。社会が悪い、制度が悪い、歴史が悪い、っていうのは抽象的すぎるし、疲れる。だから誰か一人、あるいは一つの集団を“全部の原因”にしたくなる。敵が見えたほうが楽だから」
そして最後に、甲斐はその語を書いた。
『象徴飢餓』
「見せろ、ってことだよ」と甲斐は言った。「説明より、可視化。理屈より、儀式」
その語は、東峯にとって妙に嫌な手触りを持っていた。いかにも甲斐の造語らしい、少し雑で、だが雑なぶんだけ現実へ引っかかる言葉だった。象徴飢餓。たしかに人々は、制度の説明では満足しなくなっている。動画。炎上。公開処刑めいた謝罪。分かりやすい悪役。顔のある敵。死ぬ瞬間だけ切り取られた被害者。そういうものばかりが、異様な速度で消費される。
問題は、それが単なるメディア文化の変化では終わらないことだった。政治そのものが、その欲望に合わせて形を変えていく可能性がある。社会が長い説明を嫌い、単純な象徴だけを欲し始めたとき、最も強い力を持つのは、正しい者ではなく、分かりやすく大きな身振りをする者だ。
革命家。扇動者。独裁者。終末論者。
あるいは、破滅を語る者。
甲斐はそのことを、まだ理論としては掴みきれていなかった。だが直感としては十分すぎるほど感じ取っていた。いまの社会は、善き政治へ向かう準備ではなく、むしろ一撃で世界を塗り替えるような存在を待っている。待っているくせに、そのことを誰も認めない。自分たちは穏健で、常識的で、現実的な人間だと思い込みながら、内側ではもっと劇的で、もっと残酷で、もっと分かりやすい何かを欲している。
研究室を出て、甲斐はキャンパスの外を一人で歩いた。夕方の東京は薄く曇っていた。交差点には人が溢れている。誰も彼も、生きている。だが、生きていることと、未来を信じていることは同じではない。
彼は駅前の大型ビジョンを見上げた。政治家の失言、海外の暴動、経済指標、芸能ニュース、CM。映像は次々と切り替わる。世界の不具合は、短い尺に切り詰められ、次の話題へ流されていく。人は見ている。だが、深くは受け取らない。受け取れないのか、受け取る体力がないのか、その区別はもはや曖昧だった。
甲斐はふと思った。世界はまだ壊れていない。ただ、壊れる準備だけが進んでいる。
人は災厄そのものよりも、災厄を「まあそうなるだろう」と受け入れてしまう精神状態のほうが危ない。怒りや恐怖は、人を立ち止まらせる。だが、疲労は何も止めない。すべてを黙って通過させる。
夜、自宅へ戻ってからも、甲斐はノートにいくつかの語を書き足した。
歴史疲労症候群
未来縮退感
理念アレルギー
破局許容
象徴飢餓
どれも、まだ学問ではない。雑な仮説だ。だが雑であっても、言葉があることで初めて見えるものがある。人間は、状態に名前がないあいだ、それを個人の怠慢や性格の問題へ還元して済ませる。名づけられた瞬間、初めて「これは自分だけの不具合ではなく、れっきとした名前のある病気かもしれない」と思い始める。
社会が本当に危険なのは、過激な思想が現れたときではない。それを受け入れるための疲れきった精神状態が、すでに広く行き渡ったときだ。
その条件は、もうかなり揃っていた。




