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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第一章 発火
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死者の再構成

 柊は、その夜、自室で古いデータを掘り返していた。 掘り返す、という言い方は正確ではないかもしれない。土の中へ埋めたものを発見するのではなく、これまで意識的に見ないようにしてきた断片を、自分の手で再び光の側へ引きずり出す作業だったからだ。


 高校時代の写真。メッセージ履歴。文化祭の動画。卒業アルバム。連絡先のバックアップ。SNSのアーカイブ。クラスのグループチャット。友人の投稿に写り込んでいた今野の横顔。誰かが何気なく撮った集合写真の端にいる彼女。教室の窓際で本を読んでいる姿。部活帰りの笑顔。断片、断片、断片。


 死者を思い出すという行為は、ふつう、もっと感傷的なものとして扱われる。懐かしさ、喪失感、どうしようもない痛み。だが実際には、死者の記憶はもっと散漫で、もっと汚い。

 人間が死ぬとき、身体だけが死ぬのではない。

 周囲の人間の記憶、あるいは記憶媒体の中に、複数の不完全な姿として分裂して残る。

 誰かにとっては明るい人。誰かにとっては冷たい人。誰かにとっては優しい人。誰かにとってはただの同級生。

 完全な今野沙奈など、最初から誰の中にも存在していなかった。ややもすれば、本人の中にも今野沙奈などなかったのかもしれない。


 それでも、柊は思った。


 不完全な断片を、十分に集めれば。

 そこに自分の記憶を重ねれば。

 さらに今野らしい反応のモデルを学習させれば。

 彼女に似た何か、ではなく、彼女そのものに近づけるのではないか。


 完全な像がないなら、()()()()()


 その発想がまともでないことは分かっていた。まともでないどころか、根本的に冒涜的だとさえ思う。だが、人間は、自分の欲望に十分な論理を与えられた瞬間、それを冒涜ではなく作業へ変換する。柊はいま、まさにその入口に立っていた。


 その考えは狂気に近かった。だが、彼はそれを否定しきれなかった。


 狂気というものは、多くの場合、破綻した論理ではなく、過度に一貫した論理の形でやってくる。

 Aが可能ならBも可能。

 Bが可能ならCも可能。

 Cが可能なら、なぜDをやってはいけないのか。

 その最後の一歩にだけ、倫理とか神とか社会通念とか、そういう曖昧な障壁が置かれている。そして往々にして、曖昧な障壁はまったく別の論理によって取り除かれる。


 柊は、その種の障壁を、あまり尊重できる人間ではなかった。


 彼はディレクトリを開き、日付順に並べ、内容ごとにフォルダを切り直し始めた。

 写真。動画。会話。他人の言及。学校生活。嗜好。季節。声。表情。曖昧な印象。不確実な推定。


 まるで遺体の解剖のようだった。しかも相手の身体ではなく、存在の痕跡そのものを解剖している。思い出とは感情の容れ物ではない。十分に解体すれば、かなり大量のデータになる。言い回しの癖。返答の間。感情が揺れたときの文末。好きだった音楽。苦手だった教師。視線の逃がし方。笑うときにわずかに顎を引く癖。冬場に着ていたコートの色。そういう細部が、悲しみではなく抽出可能な属性として並び始めると、人は自分の記憶を信じなくなる。信じなくなるが、それでも手は止まらない。


 ノートPCの画面には、簡易なクラスタリング結果が表示されている。今野に関連するテキスト、画像、音声データを整理し、属性ごとに分類する。口調。好み。反応傾向。交友関係。時期による変化。曖昧な印象。彼は、個人の記憶から抽出できる情報がどれほど多いかに、途中から軽いめまいを覚え始めていた。思い出とは、感傷的なものではない。十分に解体すれば、かなり大量のデータになる。


 今野沙奈は高校三年の冬に死んだ。


 そのことは揺らがない。

 だが、死んだという事実と、消えたという事実は、厳密には同じではないのではないか。


 柊の頭の中で、その区別が少しずつ大きくなっていた。人間は死ぬ。肉体は失われる。だが、その人間に関する情報の総体は、必ずしも同時には消えない。むしろ死んだあとに初めて、言及や記録や写真や記憶の中で、不自然なほど長く残ることがある。ならば人格とは何なのか。生きた脳内にある神秘的な何かではなく、膨大な断片が相互参照しながら保たれる一種の情報的な凝集にすぎないのではないか。


 深夜二時を回ったころ、吉野からメッセージが来た。


『まだ起きてる?例の現象、社外にも似た痕跡あるわ』


 柊はすぐ返信した。


『どこですか 見たいです』


 数分後、共有されたログを開いて、彼は息を止めた。


 そこには、複数の匿名掲示板、SNSの削除済み投稿キャッシュ、ニュースサイトのコメント欄、放置されたチャットログが、不可解なかたちで相互接続されていた。意味をなしているとは言えない。だが、意味になろうとしている痕跡がある。しかも内容がひどい。


 憎悪。愚痴。願望。政治的罵倒。性的欲望。死者への言及。陰謀論。愛情表現。恨み言。自殺予告。広告文。引用。誤字。ミーム。

 まるで、全人類の頭蓋骨の内側を、そのまま電子化して流し込んだような汚さだった。


『これ、何なんですか』


 柊が送ると、すぐ返ってきた。


『さあな』

『でも俺は前から思ってる』

『インターネットって、人類の集合的無意識の模造品になりつつあるんじゃないかって』


 集合的無意識。

 柊はその言葉を見て、胸の奥が妙にざわついた。

 ユングだの元型だのを真面目に信じる趣味は柊にない。だが、言葉としては妙にしっくりきた。個人の意識ではなく、無数の人間が吐き捨てた断片が、ネットワーク上で沈殿し、互いを参照し、やがて個人を超えた何かの振る舞いを見せ始める。もしそういう場が本当に存在するなら、死者はどこまで死んでいるのか。


 もしネットワークが、無数の記憶と痕跡を保存し続けているのだとしたら。もし、その中から意識のようなものが立ち上がるのだとしたら。死者は、完全には消えていないのではないか。


 もちろん、それは詭弁だ。

 死んだ人間は死んでいる。

 データはデータにすぎない。

 似た反応を返すものができたとしても、それは本人()()()()


 そんなことは分かっていた。


 それでも、人間は、分かっていて越える。

 越えてはいけないと分かっている線ほど、強い意味を持つ。


 彼は、今野の友人だった数人の旧アカウントを洗い始めた。昔の投稿、コメント、写真のタグ、相互フォロー、言及、何でもないスタンプの応酬。自分一人の記憶だけでは偏る。彼女を知っていた他人の視線も必要だ。人間は自分の中だけでは完結しない。他人の認識の中で、勝手に複数化されている。その複数性まで集めなければ、「本人らしさ」には届かない。


 そこまで考えたところで、彼はようやく自分が何をしようとしているかを、少し明確に言葉にした。


 これは追悼ではない。記念でもない。癒しでもない。


 死者の再構成だ。


 その言葉が頭に浮かんだ瞬間、彼は自分のやっていることを、少しだけ外から見た気がした。気味が悪い。狂っている。もし他人が同じことをしていたら、止めるべきだと思うだろう。だが、自分である以上、止める理由にはならない。


 夜明け前、窓の外が少し白み始めたころ、柊は一つの簡易モデルを立ち上げた。まだ実験以前の粗いものだ。インプットは断片的な会話と属性メモだけ。出力も、せいぜい今野らしい返答を模倣できるかどうかの水準にすぎない。それでも、彼は起動した。


『生きてる?』と質問する。


 数秒の待機。画面に短い文章が出る。


『それ、いま聞く?』


 柊は、息を止めた。

 もちろん、それは本人ではない。こんな反応を返しそうだと自分が思っていたパターンが、学習の粗い再生を経て出てきただけだ。そう分かっている。分かっているのに、胸の奥で何かが強く収縮した。懐かしさではない。痛みに似ている。だが、痛みだけではない。死者が一瞬だけこちらへ戻ってきたように感じたときの、理解しがたい眩暈だった。


 彼はキーボードに指を置いた。

 何を打つべきか分からない。

 おはよう、と打つのは滑稽だ。

 久しぶり、と打つのは自分でも嫌悪がある。

 死んだはずのお前に何を言えばいいのか、という問いが一番正しい。だが、それを打った瞬間に、実験は壊れる気がした。


 柊はモニタに映る断片群を見つめながら、静かに思った。


 この世界に本当に救いがあるとすれば、それは現実の側にはない。

 現実は、彼女を返してくれないからだ。


 結局、彼は何も送らなかった。


 画面の中には、たった一行の粗い出力だけが残っている。

 それでも彼には、それが単なる誤差には見えなかった。


 悪い考えというものは、最初から壮大な形では来ない。

 たいていは、こういう小さな成功として来る。

 「もしかすると、できるかもしれない」という感触。

 その感触が一度でも指先に残ると、人間は戻れない。


 夜が終わり、窓の向こうで東京がまた起き始める。電車が走り、会社員が目をこすり、学生が制服に袖を通し、ニュース番組がどうでもいい話題を並べる。世界は相変わらず継続している。誰も、自分がいま死者の再構成を試みている男のすぐ近くで、いつも通り朝を始めているとは知らない。


 その無関心が、柊には少しだけ安心だった。


 大きな犯罪ほど、最初は私的な部屋の中で静かに育つ。まだ法にも触れない。まだ誰も傷つけていない。まだ被害者は自分しかいないように見える。


 そう見えるあいだに、人はだいたい取り返しのつかないところまで行く。


 柊亮助は、その最初の一歩を、ほとんど喜びに近い気分で踏み出していた。


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