名前の変わった軍隊
古国良平が最初にモスクワの戦車を見たのは、官舎の居間だった。
八月の終わりで、まだ蒸し暑かった。
当時の彼は二十代で、まだ「東部方面総監」ではなく、ただのよく働く初級幹部にすぎなかった。制服を脱いで、薄いシャツ一枚で冷たい麦茶を飲みながら、テレビを見ていた。画面の中では、モスクワの街路に戦車が出ていた。人々が集まり、旗が揺れ、どちらが国家でどちらが国家を奪おうとしているのか、一見しただけではよく分からない。そのよく分からなさが、古国にはひどく嫌なものとして映った。
ソ連は、当時の日本人にとってまだ巨大だった。
嫌いな者は多かったし、崩れていく予感を語る人間もいた。
だが、巨大であるという事実そのものは、別の種類の安心でもあった。
あれほど大きい国家なら、最後の最後には自分で立て直すだろう。
多くの人間はそういう鈍い前提を、口に出さないまま共有していた。
古国も、その頃はまだ完全に捨てていなかった。
だが、その後の数年で、その前提は死んだ。
ソ連はきれいに崩れなかった。
そこが一番悪かった。
旗が下り、新しい旗が上がり、それで「終わり」となるなら、まだ物語として理解できる。
現実は違った。
ヤゾフが権力を握る。
軍が国家を支える顔をする。
それでも国家は保たれず、むしろ崩壊そのものが武装していく。
共和国、軍区、党残党、民族勢力、地方ボス。
国家の死体から武装した破片がいくつも這い出し、それぞれが「自分こそが正統だ」と名乗り始める。
ニュース映像はその全貌を伝えなかった。
だが、それでも十分だった。
列車。
戦車。
燃える庁舎。
略奪された倉庫。
冬に凍った補給線。
昨日まで同じ国家だった人間どうしが、別の旗の下で銃を向け合う。
その光景を、自衛官たちは政治家よりずっと嫌な気持ちで見ていた。
なぜなら彼らは、あれを単なる外国の混乱としてではなく、国家の最後に何が起こるかの教材として見てしまうからだ。
古国は、その頃から考え始めた。
国家が最後に壊れる時、誰がそれを支えるのか。議会か。官僚か。警察か。企業か。
違う。
最後に道路を押さえ、燃料を守り、橋を塞ぎ、庁舎へ入るのは、どうしたって武装した者だ。
ならば、その者たちを最後まで「命令を受けるだけの機構」として扱う国家は、結局、自分の死に方を自分で誤るのではないか。
その問いが、最初はただの苦い思いつきとして彼の中へ残った。
日本では、その種の問いはしばらく露骨には語られなかった。
だが、九〇年代の終わりから二〇〇〇年代にかけて、空気だけは確実に変わっていった。
名前が変わる。任務が増える。権限が少しだけ前へ出る。
法解釈が、昨日までは「できない」と言っていたことを、今日は「状況によっては可能」と言い始める。
国家はたいてい、ある日突然姿を変えるのではない。
まず言葉が変わる。
それから予算が付き、部署が増え、慣行ができ、人々がその変化に慣れたころ、初めて「前からこうだった」顔をし始める。
自衛隊が自衛軍になったのも、そういう変化の積み重ねだった。
正式な改組は制度の話として処理された。
周辺情勢の不安定化。大規模災害への対応。国際テロ。大国崩壊の余波。海上交通路防衛。弾道ミサイル。
どれも、それだけ見ればもっともだった。
もっともだからこそ、人々は警戒し損ねた。
名称の変更も、当初は「実態に合わせた整理」としか言われなかった。
自衛隊ではなく自衛軍。
隊ではなく軍。
古国たちの世代にとって、その違いは巨大だった。
だが国民の多くにとっては、最初は新聞の見出しが少し硬くなった程度のことにしか見えない。
古国は、その過程をずっと内側から見ていた。
制度改編の文書。指揮系統の一本化。共同対処規程。警察・消防・自治体との連接。治安支援の名目。物流、燃料、防空、空港、港湾、首都機能保全。
国家が自衛軍へ要求する仕事は、明らかに広がっていた。
しかも広がる速度より早く、政治の側は「最終責任は文民が持つ」という言葉だけを唱え続ける。
そこが古国にはだんだん耐えがたくなっていった。
軍隊は、法律の中でだけ存在しているわけではない。
道路に車列を出し、庁舎の前に兵を立たせ、物流拠点を守り、非常時に都市へ入るたび、人々の頭の中にも少しずつ棲みつく。
制服の男たちが街にいること。
装甲車が首都圏を走ること。
銃を持った兵士が「国民保護」と「重要施設防護」の名目で民間の生活動線に立つこと。
それは最初、非日常だ。
だが災害、テロ、サイバー障害、港湾警備、インフラ防護、そういう事態が繰り返されるうち、人々は次第にそれを「まあ、こういうこともある」と思い始める。
軍事政変が容易になるというのは、軍の火力が増すことだけではない。
軍が国内に出てくる光景が、国民にとって心理的に珍しくなくなることである。
古国は、その変化を見ながら、時に奇妙な安堵すら覚えた。
ようやく国家が現実へ近づいたのではないか、と。
最後に呼ばれる者が、最初から少しだけ前に出る。
最後に責任を押しつけられる機構が、平時から少しだけ国家の骨に近づく。
それは危険だ。
だが危険だからといって、現実の危機が減るわけではない。
むしろ世界は、あの九〇年代以後、ますます神経質になっていた。
もちろん、自衛軍化それ自体が直ちにクーデターの準備だったわけではない。そんなに単純なら、もっと多くの人間が早く気づいたはずだ。
問題は別のところにあった。
自衛軍化によって、軍人たちが国家の最後の責任者であるという自己像を持ちやすくなったことだ。
災害派遣で瓦礫の下から死体を掘り出す。
物流が止まればトラックの代わりに動く。
テロが起これば警察の後ろではなく前へ出る。サイバー障害でも空港閉鎖でも、最後は「自衛軍に警備出動命令」が飛ぶ。
政治家は会見する。官僚は文言を整える。メディアは煽る。
だが最後に現場へ立つのはいつも同じ制服だ。
それが二十年三十年積み上がれば、ある種の軍人が「国家の最後の責任者は我々だ」と思い始めるのは、ほとんど自然だった。
自然だからこそ危険だった。
二〇二七年四月、地球防衛軍が南半球へ現れた時、日本政府は最初、それを遠い外国の異常として処理しようとした。
国際協調。在留邦人保護。強い懸念。情報収集。
そういう平時の言葉が、いつものように並ぶ。
古国はその頃には、もうその手の言葉へほとんど信頼を持っていなかった。
分類をしているあいだに国家は死ぬ。ソ連がそれを証明した。
なのに日本の政治は、まだ何が起きたかに名前を与えることへ時間を使っている。
国家の終わり方を、どこまでも行政用語で遅らせようとしている。
そこに彼は嫌悪を覚えた。
嫌悪だけならまだ危険ではない。危険なのは、その嫌悪がやがて義務感へ変わったことだ。
十一月の群発攻撃は、その義務感を決定的にした。
停電。物流の乱れ。燃料不安。通信障害。首都高爆破。買い占め。陰謀論。自治体の狼狽。中央の会議。そして最後に、警護出動命令。政治はまた後ろにいる。
軍だけが前へ出る。だが前へ出る軍には、決定権がない。
古国はその構図を、もはや「制度上の問題」としてではなく、「国家が自分の死に方を選び損ねている証拠」として見た。
そこから先は速かった。
日月の会は飲み会から変質する。
「いざという時、誰が本当に動けるか」を確認する場になる。
首都圏インフラ攻撃への初動。大規模停電時の治安維持。警察・公安と自衛軍の境界。通信・放送・電力・交通の押さえ方。国家非常措置の法的根拠。
会議の言葉は穏当だったが、中身は既にクーデターの準備教育に近かった。
それでもなお、六月六日があそこまで容易に成功したのは、単に日月の会の計画が巧妙だったからではない。
同じ制服を撃つことを、統制派の側も恐れたからだ。
自衛軍化は、軍を強くした。
だが同時に、軍というものを国家の中であまりに大きくしすぎた。
大きくなりすぎた軍は、単なる一省庁ではなくなる。
国家そのものの一部になる。
そうなると、軍内戦はもはや「反乱軍対政府軍」という単純な図ではなくなる。
国家が国家の自分の片腕を撃つことになる。
その気味悪さが、現場の将校や兵の足を止める。
結果として誰も決定的に撃てず、装備に劣る警察や公安だけが圧倒的火力の前に削られていく。
日本国内で軍事政変が「ありうること」になったのは、その火力差だけではない。
**軍が国家へ近づきすぎたせいで、国家自身が軍を敵として処理しきれなくなった**からでもある。
古国は、そこまで来てもなお、自分を反逆者だと思っていなかった。
そこがこの世界の最悪なところだった。
彼にとって三矢作戦は野望ではない。
国家保全の代行だった。
政治が最後の責任を取れないなら、自衛軍が取るしかない。
自衛隊が自衛軍へ変わり、二十世紀末から二十一世紀初頭にかけて「最後に出るだけの機構」から「最後の責任も負わされる機構」へ変質していった、その長い積み重ねが、彼にそう信じさせた。
狂っている。
だが一度整えば、その論理は内部で妙に美しく見える。
危険な思想ほど、内部では責任感の顔をしているものだ。
四谷だけは最初から違っていた。
古国が国家を救うために自衛軍化の帰結を使うのに対し、四谷はそれを歴史の乗っ取りの足場と見ていた。
だが四谷の狂気が成立するのも、まず古国の種類の軍人が「軍人は国家の最後の責任者である」と本気で信じられる制度と空気が、日本にできあがっていたからだ。
ロシアの長い崩壊。世界の過激化。自衛隊の自衛軍化。危機のたびに前へ出されることへの慣れ。
そこへ地球防衛軍の群発攻撃。
六月六日は、その全部が長く積み重なった末の、ほとんど予定された爆発だった。
国家の表面が剥がれ、下から軍服が出てきた日。
人々はそれを、一日のうちに起きた事件として記憶する。
だが本当は違う。
国家はその日、急に軍に奪われたのではない。
ずっと前から、少しずつ、自分で軍へ寄りかかりすぎていた。
六月六日は、その寄りかかり方に、ようやく名前が付いただけだった。




