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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第三章 変動
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長城の内側

 北京の秋は、晴れている日の方がかえって息苦しい。


 空が澄むからではない。澄んだ空ほど、この都市がどれほど多くのものを上へ逃がさずに抱え込んでいるかが見えるからだ。広い道路、一定の間隔で並ぶ樹木、旗、監視カメラ、検問めいた警備の動線、低く抑えられた色の建物、どれもが国家の側から整えられている。整っているということは、見方を変えれば、乱れへの恐怖がそれだけ強いということでもある。


 国家安全部の庁舎へ入る時、梁子辰はいつも少しだけ胃のあたりが冷える。


 三十七歳。分析官。家族は内陸の省都にいる。父は地方銀行を定年で辞め、母は中学教師だった。二人とも穏やかで、国家へ忠実で、息子が北京で働いていることを誇らしく思っている。梁は、その誇らしさが嫌いではなかった。嫌いではないが、最近では、その穏やかさそのものが古い世界の遺物に見える時がある。中国はまだ強い。少なくとも、表では強い。だが強い国家ほど、内側でひびが走っている時の音をよく隠す。梁の仕事は、その隠れた音を聞き分けることだった。


 八月一日の台湾政変は、彼の部署にとって、軍事だけの問題ではなかった。


 もちろん軍事はある。海峡。防空識別圏。南西諸島。日米韓の反応。日本の四谷政権がどう動くか。韓国維新軍政府が台湾をどう扱うか。そこまではいつもの仕事だ。だが今回、本当に気味が悪かったのは、報告書の後半だった。

 改新政府。中華民国。国父。未完の革命。少数の先覚者。議会制の麻痺。再編。


 単語だけ見れば、中国人にとって珍しいものではない。むしろあまりに見慣れている。革命、再編、人民、先鋒、歴史的使命。中国の政治言語は、百年単位でそういう語を食ってきた。だが今回の嫌悪は、見慣れているからこそ深かった。台湾の改新政府は、それらの語を北京の側からではなく、中華民国の側から奪い返す顔で使っていた。つまり中国共産党の革命語彙と、中華民国の国父神話の両方を、一度に横取りしようとしている。国家安全部にとってそれは、単なる隣国の軍事政変よりずっと厄介な種類の敵意だった。


 会議室では、将官も文官も、みな口数が少なかった。


 主席の前で長く喋る人間は大抵信用されない。だから皆、必要なことだけを言う。

 台湾軍内部の若手将校層における思想的変化。

 日本から流入したと見られる文書断片。

 「改新」という語の浸透。

 孫文の再解釈。

 対米依存への嫌悪。

 そして、もっと嫌なものとして、中国本土の若年層の一部が、台湾の政変を「本物の歴史の起動」として見始めている兆候。


 梁は、その最後の報告を読み上げる役だった。


「北京、上海、成都、広州、武漢、南京の一部学内SNSおよび閉鎖チャット群で、台湾政変に対する異常な関心が観測されています。明確な支持表明は少ないですが、“少数の先覚者”、"議会と資本の麻痺”、"未完の革命”“形式だけの安定はもう要らない”といった語が反復されています。若年層で蔓延する最終インター、地球防衛軍の思想、それに日本の四谷政権に似た言説の混在が確認されます」


 部屋の空気が少しだけ重くなった。


 中国では、異端思想そのものは珍しくない。

 珍しくないが、異端思想どうしが互いに雑種化し始める時は危ない。

 マルクス主義の言い回し。孫文の国民革命。西洋近代への嫌悪。資本主義社会への憎悪。未来に対する諦め。AIや仮想空間への逃避。

 そういうものが、ネットの奥で勝手に混ざり、しかも誰の思想か分からない顔で広がる。

 国家にとって最悪なのは、外国の宣伝ではない。

 国産の絶望が、輸入された語彙を勝手に自分のものへ変えてしまうことだった。


 梁は、自分の報告を読みながら、告を読みながら、頭の片隅で一人の学生の顔を思い出していた。


 先月、補助調査で拾った映像の中にいた、北京の理工系大学院生だ。

 二十四か五。

 痩せている。

 目つきが悪い。

 声は静かで、怒鳴らない。

 ただ言った。

 「安定って、誰の安定ですか」

 その一言が、妙に残っていた。

 安定。

 中国は長くその語で自分を正当化分を正当化してきた。

 貧困からの脱出。

 高速鉄道。

 インフラ。

 監視。

 秩序。

 雇用。

 成長。

 国家がそれらを与える限り、多くの人間は自由や表現の窒息を飲み込んできた。

 だが最近の若者は、その交換条件に前ほど納得していない。

 なぜなら成長が鈍り、住宅が負債に見え、地方財政は痩せ、大学を出ても就職は狭く、努力がほとんど宗教みたいな形でしか報われないからだ。

 安定はまだある。

 だが、その安定の中身が、自分たちの将来ではなく、上の世代と国家の保身だけでできているのではないかという疑いも、同時に強くなっている。


 中国の問題は、外から見ればひどく分かりやすい。


 不動産。地方政府債務。若年失業。教育競争。都市戸籍と農村戸籍の歪み。高齢化。民営企業への締め付けと依存のねじれ。監視の肥大化。台湾有事をめぐる動員と日常の乖離。


 だが内側にいる者にとって、それらは一つずつ別の種類の窒息として感じられる。

 就職できない。しても人生が開けない。親は家を買えと言う。家は負債にしか見えない。結婚しろと言われる。したところで将来に自信が持てない。国家は偉大だと言われる。だが自分の人生はちっとも偉大にならない。

 中国の若者には、そういう種類の薄い怒りが広く沈んでいた。

 それは韓国のような露骨な「ヘル」の言語にはなりにくい。中国では、言語そのものが先に管理されるからだ。

 代わりに、それは皮肉とミームと、閉鎖チャットの暗い冗談と、夜中の動画コメント欄の妙に乾いた一言として出る。

 そして、その方がかえって危ない。

 検閲を通り抜ける形へ怒りが最初から適応しているからだ。


 最終インターナショナルは、その空気によく馴染んだ。


 中国支部というほど整った組織は、まだない。

 少なくとも公式には。

 だが、それに近いものは確実に広がっていた。

 就活と院試に疲れた学生。

 配車アプリの運転手。

 「寝そべり」からさらに一歩だけ過激な方へ滑り出した若者。

 地方都市の公務員試験浪人。

 工場から配信へ逃げたが、結局どちらにも居場所がない男。

 彼らの間で、最終インター主義の日本版はそのままでは刺さらない。

 SNSで社会を憎悪しながら、本気の革命はしない小心な遠回り。

 それは中国にもある。

 だが、中国ではそこへもっと別の層が乗る。

 国家そのものが共産党国家である以上、「社会主義」という語に逃げても、それはすぐ国家の言葉に食われる。

 だから中国の若い急進派は、最終インター主義をそのままでは使わない。

 社会主義の正しさより、国家がその正しさを使い果たした後の空洞に惹かれる。

 そこへ破滅加速主義が入る。

 今の世界は全部間違っている。

 資本主義も、社会主義も、民主主義も、権威主義も、祖国も、敵国も、進歩も恋愛も労働も、全部。

 ならいっそ早く壊せ。

 若い世代の生きるうちに破局を起こせ。

 廃墟の上でやり直せ。

 それは中国の若い方にとって、驚くほど素直な感情の言い換えになる。

 なぜなら彼らの多くが、いまの中国を偉大だと思うより先に、自分の人生がここで真面目にやっても大して報われないと思っているからだ。


 そして四谷が流し込むレーニン=孫文主義は、さらに別の場所へ刺さる。


 党内の若い理論屋。地方政府の幹部候補生。軍の政治工作系。大学の歴史・政治学の院生。

 こういう人間たちは、表向きには党の言語で喋りながら、内側では別のことを考えている。

 レーニン。先鋒。武装蜂起。少数者による実権奪取。

 そこへ孫文が接続される。

 革命はまだ未完で、共和国もまた未完であり、知る者が先に行い、遅れて民衆が理解する。

 中国人にとって、この接続は危険なほど自然だ。

 なぜなら百年中国革命史そのものが、すでにそういう語彙の上に立っているからだ。だから四谷の思想は、中国では外国思想としてではなく、捨てたはずの近代革命の幽霊として流行る。

 ここが北京にとって一番嫌なところだった。


 台湾有事の問題も、政権中枢でじわじわ形を変え始めていた。


 以前なら、台湾への圧力は中国の時間で管理できるはずだった。

 演習。経済圧力。浸透。選挙介入。軍事威嚇。

 どこまで上げて、どこで止めるか。

 北京の側がテンポを持っていた。

 だが台湾政変で、そのテンポが崩れる。

 改新政府は親中ではない。

 むしろ、孫文と中華民国の正統を掲げながら、中国共産党を「本来の革命を堕落させたもの」として見返しかねない。

 その上、背後には日本と韓国の軍政がいる。

 もしここで台湾へ動けば、日本と韓国が自動的に火を噴く可能性がある。

 つまり中国は、長く準備してきた「台湾問題の時間」を、自分の手から奪われ始めている。

 そこが、党中枢にとって戦略上の屈辱だった。


 梁が最も嫌ったのは、上層部の一部がそこで「なら急いで叩くべきだ」と考え始めていることだった。


 急げ。

 台湾が完全に別の国家へ変質する前に。福岡で何か決まる前に。東アジアが一つの軍事塊へ化ける前に。

 その焦りは理解できる。

 理解できるが、焦りの中で始まる戦争ほど悪いものはない。しかもアメリカはもう前ほど信用も統率もない。ロシアは自国の傷を優先している。

中国だけが「主導しているつもり」で、実際には他人の崩壊へ反応させられている。

 梁には、その構図がひどく危うく見えた。


 夜、彼は北京の北東部にある研究園区へ非公式の視察に出た。

 理由は簡単だ。

 学生と若い技術者の空気を、自分の目で見たかった。


 カフェはまだ開いている。

 ノートパソコン。

 論文。

 見た目だけなら、国家はまだ未来を持っているように見える。

 だが耳を澄ませば、別の音がする。

 「上が詰まってる」

 「家なんて買えるわけない」

 「国家は偉大だけど、俺の人生は別に偉大じゃない」

 「台湾、あれ本当に親米の話か?」

 「改新って、あの感じちょっと分かる」

 「分かるって言うなよ」

 「言ってない」


 その「言ってない」の温度が、中国だった。

 誰も露骨には言わない。

 だが、全員の胸の中に半分だけ別の言葉がある。

 そしてその半分の言葉こそが、最終インターや破滅加速主義やレーニン=孫文主義にとって、一番よく育つ土になる。


 帰りの車で、梁は窓の外の高層ビル群を見ていた。

 光っている。

 豊かに見える。

 速く、強く、大きい国に見える。

 だが、その全部の下で、若い方はかなり静かに壊れ始めている。

 中国の強さは本物だ。

 だからこそ、その強さが若い方の生の手触りと一致しなくなった時の反動も大きい。


 翌日の報告書で、梁は珍しく自分の言葉を少し混ぜた。


 『現在の主要脅威は台湾島内の改新政府そのものではなく、国内若年層がそれを“自分たちの別解”として読んでいることにある』

 『最終インターナショナルは反国家的実務回路として、破滅加速主義は将来否定の形で、日本四谷主義は党と革命の言語を逆用する理論として、それぞれ別の層へ浸透している』

 『この三つは相互に矛盾しながらも、現行秩序の正統性を徐々に侵食する点では一致している』


 書いてから、彼は少しだけ後悔した。

 言い過ぎたかもしれない。

 だが言わなければ、上はまた台湾海峡の地図だけを見て、足元の病気を見落とす。

 それはこの国にとって一番まずい。


 その夜、北京ではいつも通り検閲が働き、アカウントが消え、動画が落ち、チャットが閉じた。

 だが全部は消えない。

 むしろ消されるたびに、別の暗号と別の比喩で蘇る。

 「寝そべり」は別の語になる。

 「改新」は別の冗談になる。

 「革命」は引用の中へ隠れる。

 そうやって人間は、検閲のある社会では最初から地下向きに進化する。


 中国はまだ、壊れていない。

 少なくとも表では。

 だが壊れていない国家ほど、自分が壊れうるという想像を最も嫌う。

 そして東アジアでいま起きていることは、その最悪の想像を、北京の壁の内側へ静かに流し込み始めていた。

 台湾だけの問題ではない。

 若者だけの問題でもない。

 革命語彙と国家語彙を独占してきた中国自身の、言葉の支配権が揺らいでいる。

 そこに梁は、本土の指導部がまだ半分しか自覚していない深い危険を見ていた。


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