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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第三章 変動
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鏡像

 韓国で軍が動いた朝、日本では、世界が変わったというより、いつもの朝の上に別の色が一枚だけ重ねられたように見えた。


 通勤電車は動いている。少し遅れているが、それはもう日常の範囲だ。コンビニは開いている。駅の売店では、いつものように無愛想な手つきで新聞が渡される。ビルの自動ドアは黙って人を飲み込み、エスカレーターは規則正しく上へ運ぶ。つまり都市は、まだ都市の顔をしている。だがその顔の上に、テレビの速報帯とスマートフォンの通知だけが、うすく、しかし決定的に別の現実を貼り付けていた。


 『ソウル市内で軍車両展開』

 『韓国政府中枢に異常』

 『維新軍政府を名乗る声明』


 最初の数分、人々はそれを本気で受け取らない。また北朝鮮絡みかもしれない。局地的な騒擾だろう。誤訳された海外ニュースの類かもしれない。

 何でもいいから、とにかく自分の知っている出来事の箱へ押し込みたがる。世界が本当に変わる時、人間は最初から「変わった」とは思わない。むしろ逆で、「まだ分かる範囲の話だ」と自分へ言い聞かせる。その言い聞かせが、じわじわ剥がされていく過程の方が、爆発音や装甲車の映像よりずっと生々しい。


 都内のあるオフィス街では、出勤した会社員たちが、始業前の数分だけ不自然に静かだった。パソコンは立ち上がる。メールも開く。社内チャットにも、いつもの挨拶が流れる。だが全員の視線が、仕事の画面ではなく、その脇に置いた私物のスマートフォンへ数秒ずつ吸われていく。上司はそのことに気づいているが、あえて注意しない。自分も見たいからだ。誰もが「自分だけは平常通りです」という顔をしている。だがそういう顔は、たいてい平常が死にかけている時にしか現れない。


 四十代の課長補佐は、画面の中のソウルを見ながら、ひどく嫌な既視感を覚えていた。軍車両。封鎖線。中年の将軍の、落ち着きすぎた顔。去年と一昨年、日本の政治が裂けた朝にも、似たような映像を別の角度で見た気がする。気がする、という程度でしかないのがまた厄介だった。本当に国家が崩れた日でさえ、人はそのすべてを一枚のはっきりした記憶としては残さない。断片だけが残る。地下鉄の遅れ。朝の湿気。誰かの「マジかよ」という声。会議の中止連絡。コンビニから水が消えた夜。国家の死は、抽象としてではなく、生活の段取りの乱れとして記憶される。だからこそ、隣国で始まった軍事政変の映像も、彼には「外交問題」より先に、「またあれが近づいてきた」という身体感覚として入ってきた。


 大学では、反応はもっと露骨で、もっと軽かった。


 三角京太郎のいる食堂では、誰もが大きいことを言わない。言わないが、その代わり、全員が必要以上に口数を増やしていた。沈黙すると画面を見てしまうからだ。


「やばくない?」

「また軍隊かよ」

「韓国って、まだこんなの起きるんだ」

「いや、日本も起きただろ」

「つうかさ、台湾もやばいってほんと?」

「そうなの?知らない」


 どれも、断定のふりをした回避だった。誰も本当には分かっていない。分かっていないのに、分かっている調子で喋る。そうしないと不安の置き場がないからだ。京太郎は、トレイの上のぬるい味噌汁を見ながら、妙に居心地が悪かった。前なら、こういうニュースはもっと簡単に遠かった。戦争、政変、テロ、そういうものは自分の生活の外壁を叩く音でしかなく、こちらから壁越しに覗くことはあっても、内側へ入ってくるとは思っていなかった。いまは違う。違うと認めたくはないが、違う。韓国が裂ける映像を見ながら、日本の六月と十二月の記憶が半ば勝手に蘇る。つまり、もう他人事の箱へ戻せない。


「なんか、どんどん終わってくな」

 向かいの学生がそう言った。 終わっていく。 それは嘆きというより、確認に近かった。 誰も「どうすれば防げたか」から話を始めない。 最初に来るのは、もう終わり始めているのだな、という妙な納得である。

 その納得は、甲斐章が言っていた歴史疲労症候群や破局許容の気分そのものだった。人は大きな変動に驚く前に、まず「まあ、そうなるだろう」と思ってしまう。絶望しているからではない。希望を信じるのに疲れ果てているからだ。


 そして、彼の周囲の学生たちは平気な顔でサークルや就活の話へ戻ろうとする。戻ろうとするその努力が、かえって異常に見える。人間は本当におかしくなった時、騒ぐのではなく、先に「普段通り」をやろうとするのだと、京太郎は最近ようやく知り始めていた。食堂で笑う。講義に行く。レポートの締切を気にする。恋人への返信を後回しにする。その一つ一つが、国家の崩れやすさを知った後では、妙に薄っぺらく、しかし同時に恐ろしく必要な儀式にも見える。


 都内の住宅街では、もっと鈍い種類の反応が広がっていた。


 昼のワイドショーを見る老人たちは、まず韓国の不安定さを嗤った。

 「あの国は昔からこうだ」

 「やっぱり軍が出る」

 「民主主義が根づいていない」

 そういう安い優越。

 だが、その口調の奥には、はっきりした怯えが混じっている。日本もすでに二度やっている以上、韓国だけを未熟と笑って済ませられないからだ。


 五十代の主婦は、朝のワイドショーを見ながら、最初は韓国社会の不安定さを嘆いていた。あの国は昔から大変ね、政情が落ち着かないのね、軍なんて怖いわね、と。その言い方自体は平凡だ。だが、その平凡さの奥に、自分の国の裂け目を見ないようにするための力みがある。テレビの向こうを軽く裁くことでしか、自分の足元の不安を処理できない人間は多い。彼女もそうだった。けれど昼を過ぎ、夜になり、台湾まで同じような方向へ崩れたと知った瞬間、その優越感はきれいに死んだ。韓国は韓国、台湾は台湾、日本は日本、そうやって線を引いて安心していたものが、二つ続けて軍の側へ倒れたことで、その線が急に頼りなく見え始めたからだ。


 夫は新聞を畳みながら、「結局、最後は軍なんだな」と言った。

 それは政治学上の感想ではない。

 疲れた生活者の、ほとんど諦念に近い確認だった。

 国家がいくら議会だの法だのと言っても、崩れる時は最後に武器を持っている者が出る。

 そんな当たり前のことを、当たり前として理解してしまうと、民主主義への信頼は急には戻らない。


 地方の工場地帯では、また別の反応が出ていた。


 休憩室でテレビを見ていた非正規の男たちは、韓国の若年層が政変を支持しているという報道に、奇妙な納得を示した。納得というのは、賛成ではない。だが、分かる、という種類のうなずきだ。兵役だの学歴だの男女対立だの、国が違えば事情は違う。だが、「若い方だけが損を引き受け続けている」という感覚には国境がない。その感覚が長く蓄積すると、人は理想の革命を望むのではなく、とにかく今ある社会が壊れることを期待し始める。そこに思想の純粋さはない。もっと汚い。自分がここまで苦しんでいるのだから、せめて誰かの組み上げた秩序くらい一度は焼けてほしいという、ほとんど怨念に近い願望である。彼らはそれを「支持」とは呼ばない。呼ばないが、ニュース映像を見つめる目の奥に、その黒い了承はあった。


 若年層の反応は、さらに悪かった。


 動画配信、匿名掲示板、短文投稿。そこでは非難と嘲笑と興奮が、ほとんど同じ速度で流れていた。

 『老人政治ざまあ』

 『結局こうなる』

 『どうせ社会なんか死んでた』

 『軍政は嫌だが今のままよりマシかもしれない』

 『日本の次は韓国か?次は?』

『韓国だけじゃなくて次はどこだ』

 どれも半端だ。半端だから強い。確固たる信念より、「もう何でもいいから変われ」という雑な感情の方がネットでは増殖しやすい。甲斐章が歴史疲労症候群や破局許容と呼んだものは、まさにこういう形で日常へ現れるのだろう、と京太郎は後から思うことになる。人は大きな物語を信じない。だが、大きな破局の映像は好きだ。自分は正気のままでいたい。だが、秩序が壊れる瞬間だけは見たい。そういうねじれが、現代の若い方にはかなり広く共有されていた。


 四谷賢一は、そのすべてを、ひどく落ち着いた頭で見ていた。


 韓国が動いた時、彼は喜ばなかった。 台湾が動いた時も同じだった。 満足はしていた。だが歓喜ではない。 彼にとって重要なのは、隣国が自分の思想に賛同したことではなく、模倣が始まったという事実の方だった。

 模倣は感染の証拠だ。 誰かが「同じことをやってみよう」と思った時点で、思想はもう理論ではない。技術になっている。 国家は奪える。 若い将校は歴史の主人になれる。 大衆は遅れてついてくるだけでいい。 その危険な理解が、日本の外でも作動し始めた。 それが四谷にとっての本質だった。


 韓国の維新軍政府、中華民国改新政府、日本国内の市民反応、SNS上の分布、各年代ごとの恐怖と羨望の混ざり方、官庁内の動揺、経済紙の論調、地方紙の遅れた社説、テレビの歯切れの悪さ。彼にとって重要なのは、韓国や台湾そのものの運命ではない。むしろそれらが日本人の神経へどう刺さったか、関心があるのはその方だった。韓国が壊れた、台湾も壊れた、日本の近くで二つ続けて国家が軍の側へ倒れた、その事実を、日本人が「異常」と受け取ったのか、それとも「いずれこうなると思っていた」と受け取ったのか。その配分だけが知りたかった。


 異常だと受け取るなら、まだ旧秩序への郷愁が残っている。

 当然だと受け取るなら、もう旧秩序は心理的に死んでいる。

 四谷が欲しいのは後者だった。


 会議で彼は、淡々と言った。


「韓国も台湾も本質ではない。日本人がそれを見て何を感じたかだけが重要だ」


 神代は、その言葉に相変わらず軽い吐き気を覚えた。

 国家が裂け、人が死に、若い軍人が反乱を起こし、市民は支持と恐怖の間で揺れている。

 普通なら、その個別の悲惨さに一度は足を止める。

 四谷は止めない。

 彼にとって他国の悲劇は、つねに自国の統治条件へ変換される工程でしかない。


 だが、それがまさに四谷の強さでもあった。善悪を超越しているからではない。単に、人間への興味が薄すぎるのだ。彼は人間の幸福や苦痛へ鈍いわけではない。むしろよく見ている。ただ、それを材料以外のものとして扱わない。若年層の怨念も、老人の反発も、諸外国政府の狼狽も、全部が一つの図面の部品に見えている。人間を人間のまま見ない者は、時に驚くほど大きい計画を平然と進める。


 諸外国政府の反応は、どれも哀れなほどに「いつもの語彙」へ逃げ込んだ。


 ワシントンは緊急の国家安全保障会議を開き、東アジアの同盟線が連続して軍政へ傾いたことに本気で狼狽した。だが、その狼狽いは筋肉質ではなかった。怒りはある。焦りもある。けれど、それを世界へ押しつけるだけの信用が、すでに前政権以来の分断と失策で擦り減っている。かつてならアメリカの激怒そのものが秩序だった。いまは違う。激怒は見える。だが秩序にならない。だから声明は強いのに、効力の匂いが薄い。世界もそれを知っている。知っているから、アメリカの言葉は形式だけ重く、現実には軽くなっていく。もはや、アメリカが怒れば世界が従うというような時代ではない。


 北京は、別種の狼狽え方をした。


 台湾政変が親中でないことが、彼らにとって最悪だった。もし単純な親中軍政なら、まだ分類が楽だ。だが現実に立ち上がったのは「改新」を名乗り、孫文と中華民国の正統を自分たちへ引き寄せ、大陸中国をむしろ堕落した側として見返しかねない種類の軍事国家だった。中国にとって本当に危険なのは軍事的脅威だけではない。自分たちが長く独占してきた「革命」と「中華」の語を、別の勢力に横取りされることの方が、しばしば深く効く。政権中枢の人間はそれを理解していた。だからこそ、初動は非難より先に困惑だった。どう名付ければいいのか分からない相手は、戦略上ひどく嫌な相手である。


 欧州は、もっと古びた仕方でこれに反応した。


 ベルリン、パリ、ロンドン。どこも政府声明は似ている。民主主義への重大な挑戦。文民統制の破壊。国際法秩序への懸念。強い非難。緊密な連携。どれも正しい。正しいが、正しさがすでに世界の重しではなくなっている。ヨーロッパの人民もそのことを知っている。だからニュース番組では理性的な顔をして非難しつつ、その裏では、東アジアが自分たちよりずっと速い速度で二十世紀の悪夢を更新していることに、奇妙な見物根性すら抱いている。遠くの戦争やクーデターは、道徳の問題であると同時に、終末的な見世物でもある。そういう汚い両義性は、先進国の市民ほど抱えやすい。


 ロンドンやパリやベルリンの若い方では、また別の反応が起きていた。

 嫌悪。 だが同時に、黒い好奇心。 日本の次に韓国、台湾。 先進工業社会が、選挙と議会ではなく、軍と思想感染で裂け始める。 それはヨーロッパの急進派、国家嫌悪者、あるいは単なる終末趣味の若者にとって、妙に見応えのある映像だった。


 東南アジア諸国では、もっと直接的な恐怖が先に立った。


 日本、韓国、台湾。この三者は本来、相互不信や歴史問題や対中・対米の立ち位置の違いで、簡単には一体化しないはずの地域だった。そこが、異なる言葉を使いながらも、同じ病原体のような思想で連続して裂け始めている。そして明らかに、その思想の背後には日本の四谷政権がいる。そんなものは、地政学の教科書ではなく悪夢の脚本に出てくる構図だ。各国政府は難民、物流、海上交通、通貨市場、対中関係など、ありとあらゆる計算を始める。一般市民の側ではもっと単純だった。近い。巻き込まれる。恐ろしい。十分だった。世界情勢の精密な分析などなくても、人は自分の生活圏へ地震が近づいてくる感じだけはよく分かる。


 日本国内に戻れば、その「近い」という感覚は日ごとに濃くなっていた。


 駅の売店で電池が少しだけ売れる。

 水の箱が週末に目立って減る。

 大学の講演会で「東アジアの安全保障」が急に満席になる。

 地方の自治体が避難訓練や通信障害対応を前より真面目に呼びかける。

 会社の雑談で、「韓国も台湾もこうなったら、日本も次どうなるんだ」という言い方が、半ば冗談、半ば本気で出る。次ではなく、最初だったのだが。

 社会が壊れる時、人は最初に思想を変えるのではない。買う物が変わり、話題の手つきが変わり、沈黙の意味が変わる。京太郎はそうした微細な変化の総和として、はじめて「東アジア全体がもう前の地図ではない」と理解し始めた。


 四谷は、そこに充分以上の価値を見ていた。


 彼が欲しいのは、安定した帝国ではない。

 まずは、人々が以前の地図に戻れないと諦めることだ。

 テレビを消した後の部屋の静けさ。

 電車の窓に映る自分の顔。

 家族との食卓で一瞬止まる箸。

 講義のあと、誰も本気では笑っていないのに笑っている大学生たち。

 居酒屋で「もう最後なんじゃないの」と半分冗談で言う会社員。

 そういう小さい場面の中にこそ、時代の底が見えていた。


 国家はまだ公式には統合されていない。

 だが、人々の頭の中では、もう東アジアは一つの連鎖として理解され始めている。

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