エピデミック
四谷賢一は、韓国と台湾に対して、最初から軍事介入を考えていなかった。
それは彼が慎重だからではない。むしろ逆だ。軍事介入などという露骨な手段は、策略として下策だと見なしていたからだ。他国の政体を本当にこちら側へ引き寄せたいなら、戦車より先に、その国が自分で自分を裂く言葉を送り込まなければならない。しかも、その言葉は「外国の工作」として見えてはいけない。向こう側の若い軍人が、もともと自分の胸にあった屈辱や倦怠や敵意を、自分自身の結論だと思って口にし始める。そこまで行って初めて、感染は成功したと言える。
五月の官邸で、四谷は地図を前にしていた。
日本列島、朝鮮半島、台湾、そして中国。古国にとっては遠すぎた地図だ。古国は六月六日に官邸を押さえ、日本国家をどう保つかしか見ていなかった。四谷は違う。最初から、日本単独では意味がないと知っている。日本は橋頭堡だ。歴史へ報復するには狭すぎる。東アジアを一つの発作へ変えなければならない。その意味で、韓国と台湾は属国候補ではなく、第二の発火点だった。
「条件は揃っている」
四谷は言った。
部屋には神代嶺、榊原広太、葛城誠司、そして外務・情報系の数人だけがいる。いずれも、言葉をそのままの意味で受け取らない人間だ。
「韓国は若年層が既に壊れている。兵役、学歴競争、就職競争、住宅問題、政治不信。しかも軍の中には、民主化以後ずっと『政治へ関わるな』と去勢されながら、国家が腐っていくのだけ見せられてきた将校が掃いて捨てるほどいる」
神代は黙って聞いていた。内容自体は特に珍しくない。だが四谷はいつも、分析そのものより、その分析をどこへ使うかが嫌だった。
「台湾は別だ」
四谷は続けた。
「向こうは若者被害者意識だけではなく、中華民国という看板がある。孫中山がいる。つまり、レーニン=孫文主義を『輸入思想』としてではなく、『本来あるべき中華の改新』として言い換えられる」
そこで榊原が口を開いた。
「韓国は破壊の語で動き、台湾は改新の語で動く、と」
「そうだ」
四谷は頷いた。
「同じ病原体でも、症状は個体ごとに変わる」
工作は露骨ではなかった。
まず韓国へ流されたのは、四谷自身の名前ではない。希釈された概念だけだ。
『停滞した民主化』
『老人に食い荒らされた共和国』
『国家を守らず、ただ管理するだけの文民政治』
『先に知り、先に動く少数者の責任』
長年熟成され、最近では最終インターナショナルの活動により激化しつつある若年層の敵意と、四谷由来の前衛支配論が、雑に接続された形で翻訳され、匿名論壇、兵役経験者コミュニティ、退役軍人の小グループ、若手将校の閉じた雑談へ流れ込んでいく。破壊の思想は自生している怨念に繋がってこそ、初めて土地へ根を張る。
台湾では別の怨念が使われた。
こちらでは、露骨な報復や破壊の語は前面に出さない。代わりに、『中華民国は未完の革命国家である』、『孫中山先生の理念は議会制の皮の下で腐敗した』、『大陸中国と西洋秩序の双方に対抗しうる改新国家が必要だ』そういう言葉が先に置かれた。つまり、四谷の思想のうち、最も使い勝手のいい部分だけが抽出される。レーニンは見えない。孫文だけが見える。見えるから、政治に失望した若い将校の胸へ妙に刺さる。
四谷は、そこでも直接命じなかった。
「起こせ」とは言わない。
「条件はある」とだけ示す。
「成功した例はここにある」とだけ見せる。
「国家は弱っている」とだけ囁く。
「文民は止められない」とだけ思わせる。
あとは向こう側が、自分で自分を押す。自発的行動とは、無から湧く衝動ではない。誰かに「それはもう君の中にある」と確認された時に、急に行動へ変わるだけだ。
五月、韓国側の若手将校ネットワークは目に見えて濃くなった。
最初は酒席と暗号化チャットの往復だった。朴だの文だの尹だの、そういう固有名はもう重要ではない。誰が政権にいても、国家が若者に対して兵役と競争と失敗だけを押しつける構造が変わらない。その認識の方が先に共有される。共有されると、政治不信はやがて政治否定へ滑る。そして軍の若い方は、そこへ最も自然に落ちる。なぜなら彼らは、国家が最後に自分たちへ帳尻を押しつけることを、職業として知っているからだ。
四谷は報告を読みながら、そこで初めてわずかに満足した。
韓国の若手将校たちは、日本を尊敬しているわけではない。そこが重要だった。親日ではない。もっと醜い。『既存社会が憎いから、それを先に壊した隣国の成功例へ飛びついている』だけだ。
六月二十四日深夜、ソウルではまだ大きな音はしていなかった。
だが軍内部の一部回線は、既に通常の命令系統から半歩外れていた。若手将校が独自に握る待機員、予備の通信端末、演習名目の配置換え。どれも単独では事件にならない。単独では事件にならないことばかりを積み重ねこそが緊要。韓国の若手もまた、日本の事例からそれを学んでいた。
そして六月二十五日。朝鮮戦争開戦の日。後にユギオ動乱と呼ばれる軍事クーデターが始まる。大韓民国維新軍政府という、いかにも自分たちで考えたつもりになれる名前を掲げて。
台湾は少し遅い。
こちらは怒りだけでは動かない。韓国よりも破滅に向けたカウントダウンは進んでいない。だから四谷は、台湾に対してだけは珍しく「改新」という語を選ばせた。革命ではない。改新だ。中華民国の継承を装いながら、その実、既存秩序を切る。孫文を尊びながら、孫文を四谷の前衛国家論へ接続する。これもまた、言葉の勝利だった。
大陸中国との緊張に疲れ、同時に西洋的安全保障論にも飽きた将校。
彼らに必要なのは、ただ一つの錯覚だけだ。
『自分たちは外から染められたのではなく、本来の中華民国を奪い返すのだ』、という錯覚である。
七月末、台湾の一部軍内部ではその錯覚がほぼ完成していた。
四谷は、その報告を受けてもほとんど表情を変えなかった。予定通りだからだ。韓国には破壊の語を、台湾には継承の語を。どちらも中身は同じだ。先覚者による奪権。大衆の後追い。国家の再編。だが人は、自分の信じたいものを信じる。それが他人の出した結論の後追いであると思わず、信じ込んだ。彼らは四谷が言うところの後知後覚の人間だった。
八月一日、中華民国改新政府が成立する。
これもまた、四谷の命令で起こったのではない。そう見せかけないまま、しかし四谷の病気が最も深く入り込んだ結果として起こる。そこが肝心だった。
志門杏里は、その二つの政変を見ながら、もう自分の組織が何だったのか分からなくなり始めていた。
最終インターは、もともと日本では暴力革命が実質不可能だからこそ、SNSと悪口と緩い啓蒙へ逃げ込んだ、小心な運動だった。生活相談と敵意の輪郭、その程度で十分だと思っていた。資本主義国家では、全プロレタリアートが同じ怒りを共有できる。そう考えて、各国に根を張った。実際、資本家や経営者に対する不満は増大し、多くのプロレタリアートが真の敵に気づきつつあった。だが韓国と台湾で起きているのは、それよりはるかに本物の軍事政変である。もっと危険な主体に、自分たちの敵意や行動を素材として利用されたのだ。
ジュリアス・イーデンは逆に、それを見て笑った。
純粋かどうかはどうでもいい。誰の思想かもどうでもいい。国家が崩れ、若者が武装し、秩序が割れる。その事実だけで十分だ。
一方、四谷は官邸で、韓国と台湾のニュース映像を並べて見ていた。
ソウルの装甲車列。
台北の緊張した声明。
どちらにも、自分や日本国の名前はない。ないままでよかった。名を残すのは後でいい。今は自発的な病変に見えることの方が重要だ。
「東アジアはようやく話が通じる地形になり始めた」
四谷はそう言った。
神代は、その言葉を聞いて背筋が冷えた。隣国の人間が何人死のうが、都市がどれだけ荒れようが、それは「話が通じる」過程にすぎないのだ。
だが、寒気を覚えながらも、神代はもう否定できなかった。四谷の思想は狂っている。だが狂っているだけで終わらない。他国の若い軍人が、自分の頭で考えたつもりのまま、その狂気へ自発的に飛び込んでいく。そこまで来ると、思想はもう理論ではない。病原体だ。そして病原体の最も厄介なところは、宿主が自分で自分自身が病気であると気づかないことだった。




