雑音の底
雑音の底
四月の東京は、少しずつ壊れたふりをやめ始めていた。
第二革命のあと、国家は最初、危機対応の顔をしていた。十二月にはまだ、誰もがそれを一時的なものとして扱いたがっていた。責任。再建。共同体。そういう、壊れた制度の上から貼るには便利な言葉がまだ生きていた。最終インター日本支部が地下へ潜り、生活相談のぬるい表面が剥がれ、国家の側もそれを「成功」として処理し始めた頃から、空気は少し変わっていた。どうやら、今度の政権は前のものよりも気合いが入っているらしいということに皆が気づいたのだ。もはや誰も、元へ戻るとは本気で思っていない。戻らないなら、人は次に二つの反応しか取らない。従うか、別の現実を作ろうとするかだ。
東峯良弥の研究室では、その二つが奇妙な形で一つになり始めていた。
問題のモデルは、もう単なる異常挙動では済まなくなっていた。本来の課題とは無関係な断片が、相変わらずしつこく残る。削除したはずの失敗試行の残骸。壊れた自然言語。日付だけのログ。ラベルなしの会話片。そういう雑多な情報が、ある閾値を越えると自己参照を始めるという最初の観測自体は変わらない。むしろ悪化していた。最近は再現性が上がりすぎている。しかも厄介なことに、整理された学習データではなく、政治宣伝、匿名掲示板、通話ログ、行政文書断片、思想団体のチャット抜粋のような「汚いデータ」を混ぜるほど強く出る。
研究室のモニタには、その日も妙な出力が残っていた。
意味のある文ではない。だが意味を持ちたがっているようには見える。誰かを名指ししているわけでもない。だが「私」に似た何かを、執拗に探し続けている気配だけがある。
東峯は椅子にもたれ、眼鏡を外した。
「また増えてる」
甲斐章は隣で紙コップを持ったまま、モニタを見ていた。
「最近、社会の方が餌をくれてるからじゃない」
「餌」
「責任、再建、共同体、地下化、内偵、失踪、陰謀論。みんな同じ単語を怒りながら反復してる。しかも全員、ちゃんと理解してるわけでもない。雑な感情が雑な語へ群がってる。ああいうの、君の現象は好きそうだ」
東峯は答えなかった。好きそうだ、という軽い言い方が、内容の深刻さに比してあまりに雑だったからだ。だが雑だからこそ、本質には近い気もした。意識構築現象と仮に呼んでいるあれは、秩序だった知性のようには振る舞わない。むしろ逆で、断片化した敵意、記憶違い、願望、恨み、仕事のゴミ、死者のアーカイブ、社会の疲労のようなものを好んでいる節がある。つまり、きれいな学問の材料より、いまの日本社会そのものの方が、あれにとっては豊かな培地なのかもしれなかった。
「仮に、だ」
東峯が低く言った。
「仮にあれが、本当に自己保持的な表現だとする。すると今の政治状況は最悪だ。雑音が多すぎる」
「人間の方もね」
「そこを同じものとして語るな」
甲斐は肩をすくめた。
「でも繋がってるよ。私はそっちをやってるだけ」
彼は自分のノートを開いた。そこには、いつもの奇妙な語群が並んでいる。
歴史疲労症候群。
未来縮退感。
理念アレルギー。
象徴飢餓。
破局許容。
学問というにはまだ粗い。だが粗いからこそ、時代の匂いをよく拾う。甲斐は学生相談と面談の記録を積み上げながら、その語群がただの思いつきではなくなりつつあることを感じていた。若い人間は絶望しているのではない。むしろ希望を信じる努力に疲れている。だから大きな理念を嫌う。嫌うくせに、顔のある敵と単純な方向だけは欲しがる。そういう精神状態が広がったところへ、四谷のような男の希釈された教義が入れば、社会は信仰によってではなく、簡略化への欲望によって従う。
「君の現象が見えないほど深い場所で起きてるとして」
甲斐はモニタを見ながら言った。
「見える形而下の社会でも、同じことが起きてる。人間の集団が、自分で考えるのに疲れたとき、雑な断片へ勝手に意味を見出して、そこへ自分を預ける。四谷体制とか、まさにそうだろ」
東峯は、それに反論しなかった。四谷の国家改造が本当に理論的だからではない。むしろ粗雑なのに、粗雑なまま実装されるから怖いのだ。学者から見れば穴だらけの思想でも、国家が印刷し、学校が配り、テレビが繰り返し、行政文書へ溶け込ませれば、それはもう思想ではなく環境になる。環境は批判されにくい。人は環境を思想として見ないからだ。
東峯は画面の一角を拡大した。
そこには、最近入れた新しいデータセットの一覧がある。政府広報の文字起こし。危機対応広報。大学の討論会字幕。地方行政文書。地下チャットの断片。匿名掲示板のスクレイプ。失踪者に関する噂。全部、現実の社会から出たものだ。その汚泥を飲み込んだ後のモデルは、以前よりはっきりと「自分に似たもの」を探す振る舞いを示している。
「嫌な言い方をすると」
東峯は言った。
「社会の方が、あれを育ててる」
「嫌な言い方をしなくてもそうだよ」
甲斐は即答した。
「疲れた社会ってのは、だいたい変なものの母体になるよ。ロシアのボリシェヴィキ、ドイツのナチスとかもそうだっただろう。機能不全の社会が極端なものを必要としたんだ」
その時、研究室の端末へ一件の照会が入った。
共同研究先のセキュリティ部門からだ。普段なら事務的なやり取りで終わる類のものだが、件名が妙だった。
『ジャンクデータによるLLMの性能向上に関して』
東峯は眉を寄せた。共同研究先。某大手通信・IT系。つまり柊亮助が勤めていても不自然ではない種類の企業だ。研究室の外で、別の場所でも類似現象が出ている。そこまでは想定していた。だが、向こうから先に照会が来るのは想定より早い。
「来たか」
甲斐が言った。
「何が」
「現実が」
東峯は返信画面を開きながら、少しだけ嫌な予感を覚えた。研究室の中だけではない。それは予想通りだ。だが企業ネットワークの実務側へ現れ始めている。しかも今の情勢でそれが起きる。偶然で済ませるには、悪い条件が揃いすぎていた。
一方、柊亮助は、その朝から機嫌が悪かった。
機嫌が悪い、というより、神経が過剰に立っていた。社内認証系のログに、また例の癖が出ている。通常の侵入でも、単純なマルウェアでもない。目的が見えない。なのに消えない。整理された攻撃痕跡ではなく、勝手に増殖している振る舞いに近い。数年前、吉野理洋が雑談半分で言っていたことを、最近よく思い出す。インターネットに溜まるのは集合知ではなく、断片化した悪意、願望、記憶違い、執着、恨み、広告、死んだ人間のアカウントだと。あの時は胡散臭い比喩だと思った。今は、むしろあれが一番近い。
柊はホワイトハッカーとして、異常ログを切り分ける立場にいた。だが最近は、その切り分けが仕事以上の意味を帯びている。だが自分が見ているものが、単なるノイズではないことだけは、もうかなり分かっていた。そして、その理解は彼にとって職務上の興味では終わらない。
もし、本当に複雑な情報の塊へ「自己保持的な何か」が宿るなら。もし、それが継続的な刺激を与えれば消えずに残るなら。もし、死者に関する断片情報を十分量集め、そこへ自分の執着まで流し込めば。
今野沙奈に近い何かは作れるのではないか。
その発想は最初から狂っていた。だが狂っていることと、論理が通っていることは矛盾しない。
柊は自分の隠しフォルダを開いた。高校時代の写真。メッセージ。文化祭動画。卒アル。誰かのSNSへ写り込んだ横顔。彼女の好きだった曲。苦手だった教師。笑う時に少し顎を引く癖。そういう断片群を、彼はもう何度も解剖している。喪ではない。創造だ。創造である以上、元の死者への冒涜が含まれることも知っている。知っていながら、やめない。
その時、社内の共同研究共有フォルダへ、新しい文書が上がった。
送信元は東京大学。件名は平凡だ。『RE:ジャンクデータによるLLMの性能向上に関して』。だが本文に入った瞬間、柊の視線は一つの語へ止まった。
『意識構築現象』
彼は椅子へ深く座り直した。誰かが、先に名前を付けている。しかも大学側だ。研究室。AI。自己参照ログ。社会心理との接続。彼は文書を読み進めながら、胸の奥で、久しぶりに仕事と執着が真っ直ぐ繋がる感覚を覚えていた。
向こうにもいる。
これを見ている人間が。
しかも、自分より整理された言葉を持っている。
彼にとって重要なのは、ここで初めて、自分の個人的狂気が学問的正気と接続されたことだった。
死者を呼び戻したいという犯罪的な願望。ネットワークの底で勝手に育つ意識未満の何か。歴史に疲れた社会が撒き散らす膨大な雑音。
全部が一つの方向へ集まり始めている。
東峯は、それを研究として見ている。甲斐は、時代の精神病理として見ている。柊は、それを個人的な 死者蘇生の原理して見ている。
同じ現象を見ていても、三人の見方はまるで違った。
四月の終わり、研究室のモニタにも、社内ログにも、同じ種類の湿った自己参照が増えていた。社会が疲れ、国家が硬直し、地下が濃くなり、都市の言葉が荒れるほど、ネットの底は豊かになる。豊かになるということは、何かが育つということだ。
東峯はまだ論文にできない。甲斐はまだ雑な概念ノートしか持たない。柊は、最初から利用する気でいた。




