不可視化
志門杏里が異常を最初に感じたのは、四月三日の午前九時だった。
返信が遅い、ではない。返信の遅れはよくある。夜勤、睡眠、鬱、単なる無視。最終インターの人間は皆どこか壊れているから、即答しないこと自体は珍しくない。違和感があったのは、それがやけに重なったことだ。
志門は、その時点ではまだ「何か起きた」としか思っていなかった。だが正午までには考えを変えた。
これは偶然ではない。事故でも失踪でもない。見られていた。
その認識が立った瞬間、彼女の身体から余計な熱が消えた。恐怖が消えたのではない。恐怖が、冷えた作業へ変わったのだ。やることは一つしかない。地上を捨てる。
彼女は、残った中核へ短い連絡を回した。
『日本支部、全線地下移行』
『生活相談・表看板・公開回線、全部切断』
『今日の17時でサーバー消去。連絡線再編。会うな。喋るな』
数分後、真木から返信が来た。
『貸し倉庫の一つが誰かにやられた。自衛軍かも。ヤバいかもしれない』
志門はその一文を見て、一瞬だけ目を閉じた。衛村真木の線が死ぬ。つまり、受け皿の中でも最も人間らしい線が一本切れるということだ。地下化とは、組織が強くなることではない。むしろ逆で、生活へ戻るための柔らかい線が切れ、より冷たい過激派だけが残ることだ。
午後、志門はジュリアス・イーデンと通話した。
映像なし。音声だけ。向こうは夜だろう。相変わらず、抑揚の少ない声だった。
「やられた」
志門は言った。
「何人」
「五。たぶん、意図的に数を抑えてる」
「英雄的だな」
「嫌味?」
「違う。ようやく本物の政治に入ったって意味だ」
志門は、そこで初めて本気で腹が立った。こちらは人を失い、回線を失い、寝床を失い、生活相談の看板を畳み、地下組織へ落ちるというのに、向こうはそれを「本物の政治」と言う。だが、その腹立ちの半分は、自分でもその通りだと分かっているせいだった。
「日本支部はしばらく姿を隠さないと」
志門は言った。
「表はもう無理」
「当然だ」
ジュリアスは即答した。
「問題はその後だ。表を失った集団は、その情熱を維持できなければやがつ自然消滅するからだ。日本支部にその能力はあるか?」
志門は答えなかった。答えが苦いからだ。ない。少なくとも十分ではない。日本支部はこれまで、生活相談と緩い連帯と、ギリギリの公開性に依存してきた。完全地下へ移れば、その半分は死ぬ。
「こっちで受ける」
ジュリアスが言った。
「最終インターの『本国』が、日本政府から打撃を受けた。今やアメリカの方が政治的に自由な国だ」
「主導権を寄越せってこと?」
「違う。生き残りたいなら、もう実務に従えってことだ」
志門はそこで黙った。あまりに腹立たしい。だが、その腹立たしさの中にしか、今の自分たちの延命はない。日本支部は地下化する。その瞬間から、理念や機会主義や生活相談の柔らかさは削られ、より国際的で、より過激で、より実践主義的なものが上へ来る。
理解していても、他に道がない。
夕方、真木は教会の小部屋で最後の荷物をまとめていた。寝具、現金、端末、ノート、聖書。神の家を避難所に変えたことを、もう言い訳する気はなかった。終わったのだ。ここはもう使えない。彼女はその事実に、奇妙な喪失感を覚えていた。革命のために失われたというより、自分の中で最後まで残っていた「まだどこかで普通へ戻れる気がする感じ」が、ここで完全に死んだ気がした。
「ごめんなさい」
誰に向けてか分からないまま、彼女は小さく言った。
神にか。教会にか。自分にか。
それとも、ここへ一度でも逃げてきた名もない若者たちにか。
答えはない。
四月三日の夜、日本支部は地上からほとんど消えた。
サーバーは分解。
窓口は切断。
生活相談は中止。
受け皿は畳まれ、連絡は細り、顔の見える関係は恐怖へ置き換わる。
表から見れば、ただ静かになっただけだ。
だが内部では、決定的な変質が起きていた。
志門の最終インターは終わり始め、
ジュリアスの最終インターが始まり始めた。
四谷政権の側では、それを成功と呼んだ。
葛城は報告書の最後に、ただ短く書いた。
『目標達成。対象組織は自発的地下化へ移行。今後、国外支部の影響増大が予想される』
四谷はその文を読み、特に笑いもしなかった。予定通りだからだ。敵を潰すより、敵を変質させる方が長く効く。そうなれば最終インターは、生活相談のぬるい集まりではなく、より明瞭な敵になる。明瞭な敵は、国家改造のために使いやすい。
その夜、東京は静かだった。
爆発もない。
デモもない。
検問も目立たない。
最終インターは敗北したのではない。
まだ敗北の形すら与えられていない。所望の効果を得るための条件を作為されただけだ。




