同じ顔のふり
潜入の第一歩は、思想を学ぶことではない。疲れているふりをすることだ。
特殊作戦支援部分班の中で、最も早く最終インターの外縁へ入ったのは、三等陸佐・芹沢悠人という男だった。三十四歳。髪を少し伸ばせば、どこにでもいる都市の会社員に見える。喋り方も適度に乾いていて、怒りが生活の延長にあるように聞こえる。ヒューミント向きだった。
彼に与えられたカバーは単純だ。通信系企業を早期退職させられた契約社員崩れ。父親の介護で地元と東京を往復し、生活が壊れ、就活をやり直す気力も失い、ネットの生活相談コミュニティへ流れ着いた男。大げさではない。むしろ地味すぎるほど地味だ。だが今の都市では、そういう経歴の方が信じられる。
最終インターの入口は、いきなり思想ではなかった。
最初は住宅相談だ。家賃。更新料。保証会社。滞納した時にどこまで引っ張れるか。どの自治体窓口がまだましで、どの民間NPOが役に立たないか。芹沢は、そこで二週間、ひたすら普通に困っている人間を演じた。むしろ演じたというより、ほとんど普通に困っている人間として振る舞った。少しの事実と少しの虚構を混ぜるのが一番強い。父親の介護のくだりだけが虚構で、仕事の疲れも都市への嫌悪もかなり本物だった。
最終インター側の窓口を最初に担当したのは、二十代半ばの女だった。名前は梨花と名乗った。本名ではないだろう。だが、それもどうでもいい。彼女は革命家の顔をしていない。役所で何度も失敗した人間の顔をしていた。説明しすぎない。偉そうにしない。必要な情報だけよこす。その手つきが、逆に組織の成熟を示していた。
「急ぎですか」
彼女はチャットで聞いた。
「急ぎです」
「いま住んでるところは」
「まだ追い出されてない」
「じゃあ、まだ急がなくてもいい」
軽口のつもりなのか、本気なのか分からない返しだった。芹沢はその一文だけで、この組織が思想より生活を先に置いていることを再確認した。危険だった。
数日後、彼は新宿のファミレスで初めて対面の相談会へ出た。誰も革命家には見えない。派遣のSE、大学院中退、夜勤明けの配送、出版社勤務らしい女、そして学生。言葉は大きくない。皆、最初は生活の話をする。電気代、家賃、雇い止め、奨学金、親との関係。それが三十分ほど続いた後、ようやく志門杏里の名前が一度だけ出た。
「上の人、最近あんまり表出ないよね」
「今はその方がいい」
「見られてるから?」
「見られてないと思う方がどうかしてる」
その瞬間、芹沢はようやく内部の匂いを嗅いだ。組織は自分が組織であることを知っている。しかも、見られている可能性を織り込んでいる。その自覚がある相手に潜るには、焦りが最悪だ。彼はそこで何も踏み込まなかった。ただ、いかにも疲れた顔でコーヒーを飲み、「役所よりここがましなの、終わってるな」とだけ言った。
その一言で、場の視線が少し緩んだ。
こういう集まりでは、過激さより嫌悪の共有の方が効く。革命思想を語る人間はまだ警戒される。生活が腐っているとだけ言う人間は、案外すぐ中へ入る。
一方、別のルートでは、特殊作戦支援部分班の女性隊員・三雲沙也が、出版社筋から衛村真木の周辺を探っていた。表向きはフリーの校閲者。仕事を減らされ、政権寄りの誌面にうんざりし、でも生活のためには完全に切れず、編集者の愚痴会へ顔を出す。これもまた、都会ではありふれた顔だった。
三雲は、真木本人にすぐ近づかなかった。ヒューミントの基本は、最短距離で標的へ行かないことだ。真木に繋がる、もう少し喋る人間、もう少し寂しい人間、もう少し認められたがっている人間から入る。そうすると組織は、自分から情報を持ってくる。
二週間で、班は最初の地図を作り始めていた。
誰が生活相談の窓口か。誰が印刷物を引き受けるか。誰がアメリカ支部と接続しているか。誰がただの不満分子で、誰が本当に死ぬ覚悟があるか。
最終インターは緩い。緩いが、緩いからこそ、ところどころに濃い核がある。葛城はその報告を見て、ようやく班の任務が本物になってきたと感じた。
向こうはまだ、こちらを都市に疲れた普通の人間だと思っている。
その間だけが、最も危険で、最も甘い時間だった。




