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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第二章 権力
24/68

平熱

 国家が変わった、と人はすぐには感じない。

 正確には、感じたとしても、その感じ方は政治的ではない。法律が変わったからでも、演説が過激になったからでもない。駅の広告が変わる。学校で配られる紙の語彙が変わる。テレビ報道で急に「使命」だの「共同体」だのという語が増える。テレビのコメンテーターの顔ぶれが少し変わる。そういう、言ってしまえばどうでもいい程度の変化の総和として、人はようやく「ああ、何かが前とは違う」と気づく。


 十二月半ばの東京は、その「どうでもいい程度の変化」で満ち始めていた。


 駅の柱には、新しい政府広報が貼られている。災害対策や節電の啓発に似た地味な配色で、だが文言だけが妙に固い。


 『危機時代の国民責任』

 『先覚者と共に、再建を支えよう』

 『東アジアの未来は日本の規律から始まる』


 どれも、ぱっと見ではそれほど過激ではない。むしろ、災害後の公共広告に近い。近いからこそ嫌だった。露骨な独裁のスローガンなら、人はまだ身構える。だが、こういう半端にまともな顔をした言葉は、朝の通勤の中で、だんだん景色へ溶け込んでいく。


 三角京太郎は、大学へ向かう駅の改札でそれを見上げ、少しだけ足を止めた。


 大学生になってから、彼は以前ほど無邪気ではなくなっていた。別に急に賢くなったわけではない。勉強自体はもともと出来る方であり、難関私大に入学している。ただ、自分の周囲にいる人間の輪郭が、高校の頃より少しだけ不揃いになったのだ。金のある家の子、奨学金を背負っている子、推薦で滑り込んだ子、二浪してようやく来た子、政治にやたら熱い子、全部を冷笑で処理する子。昔は「だいたい同じ」だと思っていた同年代が、実はかなり違う場所からここへ来ているらしいと、ようやく分かり始めている。


 とはいえ、その程度だ。彼はまだ、自分が幸福な側にいることを、本当の意味では理解していない。根本的に難関大学、それも私大にいる時点で恵まれている方なのだ。


 駅の広告を見上げたのも、別に危機感からではない。単に、言葉の感じが妙だと思ったからだ。


 先覚者。


 そんな語を、この国の公共広告で見る日が来るとは思わなかった。宗教団体の冊子か、どこかの古い思想書の中にでも出てきそうな語であって、駅の柱に貼られるものではない。だが、それが今は自然な顔でそこにある。京太郎は、自分が何に引っかかったのかをうまく言語化できなかった。ただ、嫌な感じだけが残った。


 大学へ着くと、キャンパスの空気も少し違った。


 学生課の前に、掲示が増えている。防災訓練の強化。危機対応週間。社会貢献登録制度。学内討論会のお知らせ。題名は『危機の時代と若者の責任』。以前なら、こういう題のイベントは意識の高い学生だけが行く類のものだった。今は、大学の側が先にそういう言葉を配り始めている。


 講義室では、隣の席の男が言った。


「出る? あれ」


「何に」


「討論会。なんか単位扱いになるらしい」


 京太郎は顔をしかめた。


「そういうの、前からあったっけ」


「なかったと思う。でも最近こういうの増えてない?」


 男はスマートフォンを見ながら言う。


「国家再建だの東アジア秩序だの、妙にでかい話」


「興味あるの?」


「別に。でも、就活で使えるかもって」


 その答えに、京太郎は少し笑いそうになり、笑えなかった。何でも就活へ繋げるのは、この社会の悪い癖だ。だが、同時に、その反応の方がよほど普通でもある。国家が変わろうが革命が起きようが、若い人間にとって最初の現実は、結局、自分の将来にどう響くかだ。


 前方の席では、別の女子学生が友人に言っていた。


「うちの父親、あれ支持してるよ。強い政府が必要だって」

「へえ」

「なんか最近、ずっとテレビ見ながら嬉しそうにしてる」

「うち逆。母親が怖がってる。戦前みたいって」

「戦前知らないくせに」

「知らないから怖いんじゃないの」


 京太郎は、ノートを開きながら、それを聞いていた。昔なら、こういう会話はただの雑談だった。今は違う。誰の家でも、少しずつ政治が食卓へ入り始めている。それが一番嫌だった。政治はテレビの中か、どこかの広場でやっていればいい。自分の家や大学へ入ってきてほしくない。そう思う時点で、自分がどれほど政治に甘やかされてきたかを認めるようで、また少し腹が立った。


 昼休み、学食の端で、彼はふと昔もらった一枚の紙を思い出した。


 予定された人生を拒否せよ。


 駅前で会った、あの感じの悪い女。高校の頃は、ただ鬱陶しい活動家だと思った。今も基本的にはそう思っている。だが、あの時より少しだけ、あの言葉の不気味さは分かるようになっていた。予定表。進路。就活。幸福の順序。そういうものへ違和感を持った瞬間に、ああいう言葉は妙によく刺さる。刺さるからこそ、彼は意識的に考えないようにした。


 考えてしまうと、変な方向へ引っ張られそうだった。


 衛村真木は、その日、出版社で来年春の特集企画を潰していた。


 正確には、自分で潰したわけではない。編集会議で、より「時勢に即した」内容へ差し替えることが決まり、その作業をやらされている。元の企画は、都市で疲れた人のための生活改善特集だった。睡眠、食事、対話、散歩、呼吸法、そういう無害で正しいものだ。新しい企画案は、もっと嫌だった。


 『危機時代を生きるための規律』

 『共同体の再建と個人の責任』

 『いま読むべき国家論』


 誌面の雰囲気まで少し変わっていた。柔らかい書体が減り、直線が増え、余白が詰まり、見出しが硬くなる。たったそれだけのことで、雑誌というものは簡単に空気を変える。真木はその変化を、職業柄よく知っていた。知っているからこそ嫌だった。


「このタイトル、露骨すぎませんか」


 彼女は会議で言った。


 編集長は肩をすくめた。


「露骨かな。世の中そういう感じだろ、今」

「だからって、合わせるんですか」

「合わせないで売れるならそうするよ」


 商売としては正しい。正しすぎる。真木はそれ以上言わなかった。出版というものが、思想より先に売上へ従うことはよく知っている。だが、売上へ従うことと、時代の空気を増幅することのあいだに、どれほど大きな差があるのかも、最近ではもうあまり自信が持てなくなっていた。


 午後、原稿に赤を入れながら、彼女は一文の前でまた手を止めた。


 『いま必要なのは、自由の再定義ではなく、責任の再確認である。』


 よくできた悪文だった。中身は薄いのに、響きだけは強い。しかも、誰かが本気で読めば、いかようにも危険な意味へ伸びる。こういう文が一番困る。完全に狂っている文章なら、まだ拒絶できる。半分だけ正しくて、半分だけ空虚で、その空虚さに時代の欲望が入り込める文章は、修正しにくい。


 彼女はペン先を紙へ当てたまま、スマートフォンを見た。最終インターのサーバーで、志門が珍しく長文を書いている。


 『国家は言葉の秩序を取りに来ている。』

 『なら、こちらは生活の回路を太くするしかない。』

 『正面衝突より、まず受け皿だ。』


 真木はその文を読み、少しだけ目を細めた。志門は相変わらず過激で、相変わらず危ない。だが最近の彼女は、以前より実務に傾いている。思想ではなく、生活。檄文ではなく、受け皿。そこがむしろ怖かった。現代において本当に強い運動は、だいたいそういう顔をする。


 夕方、真木は教会へ寄った。


 小さな礼拝堂は、以前より少し人が増えていた。信仰が深まったのではない。世の中が悪くなると、人はとりあえず静かな場所へ来るからだ。祈るというより、座りに来る。黙っていたいから来る。その種類の来訪者が増えていた。


 若い母親が一人、子どもの手を握って座っている。年配の男が目を閉じている。大学生らしい女の子が、聖書を開かずにただ前を見ている。真木はそれを眺めながら、自分がこの場所をまだ好きでいることに、少し安心し、同時に苛立った。好きだ。だが、ここは国家に対してあまりに無力だ。祈りは体制を遅らせない。遅らせないどころか、人を静かに耐えさせる方向へも働きうる。そのことを彼女は最近、前よりずっと強く意識していた。


 礼拝の後、教会の知り合いが彼女に言った。


「顔色がよくないですね」


「仕事です」


「時代でしょう」


 真木は少し笑った。


「便利な言葉ですね、それ」


「便利ですよ。自分のせいだと全部思わずに済みますから」


 その言い方が、少しだけ嫌だった。時代。構造。仕方がない。そういう言葉は、責任を軽くする。軽くするから助かる時もある。だが今は、その軽さ自体が腹立たしかった。誰も彼も、自分が何かに加担していることを、少しずつ軽くしすぎているのではないか。


 甲斐章は、その頃、大学の相談室で学生の話を聞いていた。


 十二月に入ってから、相談件数が増えている。露骨な政治不安というより、もっと散漫な症状の形で。眠れない。何となく焦る。ニュースを見ると胸がざわつく。就活のことを考えると吐き気がする。親と話したくない。将来を決めろと言われるのが苦しい。国家がどうとか革命がどうとか、そういう大きな言葉で訴えてくる学生はほとんどいない。皆、もっと個人的な形で具合が悪くなっている。


 甲斐は、そのことが逆に重要だと思っていた。


 大きな政治は、たいてい最初、個人症状として現れる。時代が変わった時、人はまず世界観を更新するのではない。睡眠が乱れ、言葉が荒れ、焦燥の向きが変わる。そこから遅れて、ようやく思想が入る。


 午後に来た男子学生は、椅子へ座るなり言った。


「別に政治の話をしたいわけじゃないんです」


「そうでしょうね」


 甲斐は頷いた。


「でも、なんか最近、周りの会話が全部変なんです」


「変、というと」


「みんな、急に『責任』とか『役割』とか『共同体』とか言い始めてて。別に前からそういうこと考えてたわけじゃない奴まで。なんか、正しいこと言ってる感じで」


 甲斐は手元のメモに小さく線を引いた。


「嫌なんですか」


「嫌というか……気持ち悪いです」


 学生は言葉を探しながら続けた。


「本気で信じてる感じじゃないんです。けど、便利だから使ってる感じがして」


 甲斐は、その表現に軽く感心した。かなり正確だ。本気で信じていない。だが便利だから使う。思想が社会へ広がる時、最初はたいていそういう顔をする。信仰ではなく利便。熱狂ではなく空気。だからこそ抜きにくい。


「それで、あなたはどうしたいんです」


 甲斐が問うと、学生は少し黙ってから言った。


「分からないです。でも、分からないまま周りに合わせるのも嫌です」


 甲斐はその答えに、むしろ少し安堵した。まだ壊れていない。壊れ始めた人間は、分からないことより、すぐに答えのある言葉へ寄っていく。先覚者、責任、再建、東亜。そういう、大きくて固くて、意味がありそうな語へ。


 相談が終わった後、甲斐は研究室へ戻り、短いメモを書いた。


 『人々は狂信しているのではない。疲れている。』

 『疲れている者は、複雑な自由より、単純な方向へ従いやすい。』

 『四谷体制の危険は、熱狂ではなく簡略化にある。』


 書き終えてから、自分がまた雑な概念化を始めていることに苦笑した。だが、こういう雑な概念が、後から案外残ることもある。


 夜、京太郎は家で夕食を食べながら、父親が珍しくニュースへ文句を言っているのを聞いていた。


「何が秩序再建だ。どうせまたお偉方の言葉遊びだろう」

「でも、必要なこともあるんじゃない」


 母親はそう言う。必要。便利な語だ。父親はそれに苛立つ。


「必要必要って、何でもそう言えば通ると思うなよ」


 京太郎は黙っていた。高校の頃なら、こういう会話は退屈だった。今は少し違う。退屈ではなく、居心地が悪い。家の中で政治が話されると、自分の生活が無菌ではいられないと分かってしまうからだ。


 食後、自室でスマートフォンを開くと、大学のグループチャットに一件の連絡が来ていた。


 『明日の討論会、参加推奨→任意です。ただし欠席者には後日提出課題あり。』


 任意だが欠席すると面倒、というやつだ。京太郎はそれを見て、思わず舌打ちした。結局、自由というものはいつもそういう形で削られる。禁止ではない。強制でもない。ただ、従わないと少し面倒になる。それを積み重ねて、人はだんだん従う。


 彼はベッドへ倒れ込み、目を閉じた。


 駅の広告。大学の掲示。家の会話。任意の強制。何も劇的ではない。だが、その劇的でなさが嫌だった。もし本当に恐ろしい体制なら、もっと分かりやすく怖くあってほしい。そうすれば嫌うこともできる。今起きていることは違う。少しだけ固い言葉、少しだけ増えた責任、少しだけ面倒になった自由、その程度の形で生活へ混ざってくる。だから処理に困る。


 そして、そういう困り方こそが、多分いちばん危ないのだと、彼はうまく言葉にできないまま感じていた。


 十二月の東京は、まだ普通の顔をしていた。


 電車は走る。

 書店は開く。

 大学は講義をする。

 教会には人が座る。

 相談室には学生が来る。

 夕食の食卓ではニュースに文句が出る。


 国家改造は、まだ戦車の音ではなく、こうした平熱の中へ入ってきていた。

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