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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第二章 権力
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接触線

 まだ夜明け前。


 官庁街の空は、晴れているのに妙に低く見えた。雲が垂れ込めているわけではない。むしろ薄く明るい。にもかかわらず、地面の側に圧力がかかっているような感じがあった。人間が大勢、同じ時間に息を潜めると、空気はそれだけで重くなる。


 都内のある庁舎の前で、警察官たちは盾を持ったまま足を止めていた。機動隊の列はまだ整っている。整ってはいるが、普段の雑踏警備やデモ対応のときとは立ち方が違った。相手が群衆ではなく、自衛軍だからである。群衆なら押し返せる。酔っ払いなら取り押さえられる。だが、向こうにいるのは小銃を持った迷彩服だ。しかも、その迷彩服は外国軍ではない。同じ日本語を喋り、同じニュースを見てきたはずの人間たちだった。


 警視庁の新倉巡査部長は、無線を耳へ押し当てながら、目の前の車列を見ていた。装甲車両が数台。普通科の隊員。後方に通信系らしい車両。誰も騒いでいない。誰も勝ち誇っていない。だからかえって不気味だった。クーデターというものに、彼はどこかもっと演劇的なものを想像していた。叫ぶ将校、突撃する戦車、燃える国会、そういう図だ。現実は違う。警備強化と区別のつかない顔をして、異常は配置につく。


「法的根拠を示せ」

 現場の警部が前へ出て言った。

 山縣一尉が応じる。

「現在、上級部隊の命令により警備態勢へ移行中です」

「そんな連絡は受けていない」

「こちらとしても急な話でしたから、そちらに伝わり切ってない可能性があります」

「未伝達で済む話じゃない」

「こちらも現場で判断する権限はありません」


 内容は会話の体裁をしていたが、実際にはどちらも同じことしか言っていなかった。知らない。決められない。責任がない。責任がないまま、しかし武装して目の前にいる。言葉は交わされる。だが前へ進まない。


 山縣一尉はそのやり取りを通して、胃の奥が冷えていくのを感じていた。ここまではまだよかった。警備強化の延長、重要施設防護の範囲内、最悪でも強権的措置。そう自分に言い聞かせられた。だが、警察と自衛軍が同じ庁舎の前で正面から法的根拠を問い合っている状況は、もはや内乱に近い。まるで二・二六事件か何かだ。


 彼は後ろを振り返った。小隊長たちは持ち場に散っている。曹たちは無駄口を叩かない。若い隊員は、緊張している顔と、まだ何も理解していない顔に分かれていた。部下たちは彼を見ている。上官というものは、分からないときでも分かった顔をしなければならない。そうでないと、その場が崩れる。だが、分かった顔を続けるうちに、自分が何を分かっていなかったのかすら曖昧になっていく。


「発砲許可はまだだ」

 山縣は繰り返した。

「何があっても俺の命令まで撃つな」

 隣にいた中隊先任が小さく言った。

「隊員の中に動揺が出ています」

「分かってる」

「下は、警察相手だと気づいてます」

「分かってると言った」


 語気が強くなったのは、先任へ怒ったからではない。自分自身へ腹が立っていたからだ。分かっている。そんなことは最初から分かっている。分かっているのに止まっていない。その事実を、部下の前でどう処理すればいいのか分からなかった。


 道路の反対側では、機動隊の若い巡査が、自衛軍の列の中に高校の同級生らしい顔を見つけていた。互いに名前は思い出せない。だが、ああ、あいつだ、という程度には記憶が残っている。地方の公立高で、進路も決まらないまま卒業し、片方は警察学校へ行き、片方は駐屯地へ入った。十代の終わりには大差なかった人生が、数年後にはこういうかたちで向かい合う。歴史とは、そういう個人史の上へ平然と線を引く。


 巡査は盾を持つ手に汗をかきながら、相手の目を見ないようにした。見れば終わる気がしたからだ。相手も見ていないようだった。見ないまま、同じ国の公務員が互いを「接触対象」として扱う。そのことの不自然さが、むしろ現実味を強くしていた。


 別の地点では、もっと悪いことが起きていた。

 その庁舎の付近で、警察と自衛軍の間に民間車両が迷い込んだ。通行止めの情報が混乱しており、迂回路の案内も十分ではなかった。配送の軽車両だった。運転していたのは四十代の男で、事態を理解していないまま、誘導に従おうとして逆に二つの警戒線の間へ入り込んだ。


「止まれ!」

 警察が叫ぶ。

「停止しろ!」

 自衛軍側も叫ぶ。

 車は半端にブレーキを踏み、半端に前へ出た。


 人間は、複数の権力から同時に命じられると、しばしば最悪の動きをする。運転手はパニックになり、ハンドルを切り、車体が斜めになった。盾が揺れた。小銃の銃口が上がる。誰かが怒鳴る。誰かがしゃがむ。誰かが「撃つな」と叫ぶ。


 発砲音は、一発だけだった。


 それがどちらから出たのか、その瞬間には誰にも分からなかった。後で検証されるのかもしれないし、されないのかもしれない。実際には、その種の一発はあとから都合よく記録され直される。重要なのは事実の順番ではなく、その一発が意味するものだった。すなわち、日本国内で、同じ国家機構に属する武装者たちが、ついに実弾の音を聞いてしまったという事実である。


 車のフロントガラスがひび割れた。運転手は悲鳴を上げ、座席の下へ頭を沈めた。警察側が一斉に身を低くし、自衛軍側でも何人かが伏せた。二発目はなかった。だが、なかったからといって取り返しがつくわけでもない。一発は、一発だけで十分に世界を変える。


 新倉巡査部長はその報告を無線で聞いたとき、背中に冷たいものが走った。まだ死者の確認はない。誤射かもしれない。威嚇かもしれない。どちらにせよ、もう「警備上の行き違い」という言い訳がかなり苦しくなった。


「本部は何を言ってる」

 彼は叫ぶように尋ねた。

 返ってきたのは、要領を得ない言葉だった。

「調整中」

「どこと」

「関係各所と」

「どこだ、その各所は」

「……詳細未定」


 未定。

 その言葉を聞いた瞬間、新倉は奇妙な怒りを覚えた。現場の人間は、いま目の前で小銃にさらされている。車両は道路に詰まり、群衆が集まり始め、記者も来るだろう。にもかかわらず、本部の側ではまだ「関係各所」なのだ。国家は責任を名指しにされることを何より嫌う。だから壊れる瞬間ほど、言葉が曖昧になる。


 山縣は、自分の部下の中に実際に震えている者がいるのを見た。二十歳そこそこの陸士だった。顔面が青く、唇が白くなっている。怒鳴りつければ動くだろう。だがそれでは後に残る。だから彼は少しだけ声を落として言った。


「大丈夫だ。持ち場を見ろ」

 大丈夫なはずがなかった。だが、上官の言葉とはそういうものだ。事実ではなく、形を与えるために発せられる。

「発砲は事故だ。命令が出るまで持ち場を維持しろ」


 事故。

 その言い換えを口にした瞬間、山縣は自分が一線を越えたことを理解した。いまのは、現実の説明ではない。現場を保たせるための処理だった。処理を始めた人間は、もはや見物人ではいられない。


 尾崎三曹はその場にいなかったが、伝わってくる断片だけで十分だった。どこかで発砲があった。誰が撃ったかは分からない。警察が伏せた。こちらも伏せた。死傷者は未確認。だがそれは問題の本質ではない。末端は、そういう伝聞を聞いた瞬間に二つへ分かれる。青ざめる者と、妙に冷静になる者である。後者の冷静さは勇気ではない。むしろ、いまさら騒いでも遅いと分かった人間の諦めに近い。


 尾崎は班の若い陸士たちを集め、必要以上に平静な声で言った。


「聞け。余計な憶測を流すな。持ち場から離れるな。勝手な判断をするな」

 一人がたまらず口を開いた。

「尾崎三曹、これ……」

「俺も全部は知らん」

「じゃあ」

「知らんが、いま一番まずいのはお前らが勝手に動くことだ」


 その言い方は、半分は本音だった。もう半分は、自分自身への命令でもあった。勝手に動くな。勝手に判断するな。そうしないと、あとで責任の置き場所がなくなる。組織の中で生きてきた人間ほど、そのことを本能的に知っている。違法行為に加担した人間がまずやるのは、善悪の再検討ではない。責任の所在の再配置である。


 だからこそ、末端は止まりにくい。

 止まることは、勇気の問題ではない。

 むしろ、止まった瞬間に自分が単独で責任を負う側へ押し出されるという恐怖の問題だ。


 警察側にも、似た構図はあった。

 現場の警部補は怒っていた。怒っていたが、怒鳴り散らせば事態が解決するわけではない。目の前の自衛軍は、明確に敵軍を名乗っていない。命令系統の上位に問い合わせれば、はっきりした言葉を避けている。警察も、自衛軍との全面衝突など想定していない。現場だけが、先に最悪の場所へ押し出される。


 午前五時前、ようやくテレビが追いつき始めた。


 最初は「都内各所で自衛軍による大規模警備展開」という表現だった。次に「政府中枢・官庁街周辺で緊張」。その次に、「一部で警察との対峙」。どの局も言葉を選んでいた。クーデター、と言うには早い。非常措置、と言うには苦しい。その宙吊りの数十分が、結果的には反乱軍側を助けることになる。名前のない異常に対して、国家は驚くほど弱い。


 その頃、日月の会の中枢にいる連中は、すでに別の段階へ入っていた。

 だが、その上層の意志がどうであれ、現場の兵にとっては関係が薄い。川南が考えていたのは、いま撃たれたらどうなるか、自分が撃ったらどうなるか、実家に連絡は取れるか、それだけだった。国家の奪取も、東方総監も、古国良平も、彼の頭には入っていない。そこにあるのはただ、目の前の持ち場と、隣にいる先輩と、遠くで鳴る無線の音だけだ。


 しかしその狭い認識こそが、反乱を可能にする。

 大きな犯罪は、しばしば巨大な理念ではなく、現場の狭さによって前へ進む。

 全体を知らないから、部分に忠実でいられる。

 部分に忠実でいた結果、全体としては反乱が成立する。


 朝の光は少しずつ強くなっていた。

 だが、その明るさは事態を澄ませるどころか、逆に日本という国の輪郭を曖昧にしていった。

 同じ制服の色。

 同じ言語。

 同じ道路。

 同じ建物。

 そこへようやく、異なる命令が重なっていることが、少しずつ見え始めていた。

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