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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第二章 権力
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命令受領

 二○二八年六月五日。

 その夜、関東一円の駐屯地では、どこも同じような蛍光灯が光っていた。白すぎる光だった。食堂の床は磨かれ、廊下にはワックスの匂いが残り、当直室では古い給湯器がくぐもった音を立てている。テレビは消されていたが、誰かのスマートフォンから漏れたニュース動画の音だけが、ときどき小さく聞こえた。南から来た地球防衛軍の名は、すでに誰もが知っている。最初の出現から時間は経っていたが、十一月の群発攻撃以来、その名は遠い外国の話ではなくなった。


 若い隊員たちは、国家の危機を哲学的に理解していたわけではない。そんなことを考える暇は、平時ですら大してない。彼らは日々、装備の手入れをし、上官に怒鳴られ、点検に怯え、訓練で泥にまみれ、休日は寝て潰し、金が足りず、彼女ができず、家族との関係に疲れ、同期の転職話を聞きながら、自分はこのままでいいのかとぼんやり思っている。国家というものは、その程度の疲れた生活の背後に、たまたま置かれているにすぎない。


 だから、非常呼集がかかったときも、最初に彼らが抱くのは愛国心ではない。率直に言って面倒だな、という気持ちである。


 練馬駐屯地で、二等陸士の川南亮は、営内のベッドから叩き起こされた。まだ二十歳だった。入隊して何年も経っていない。高卒で、家は千葉の外れにある工業団地の近く、父親は配送、母親はスーパーのレジ係、妹は看護学校に通っていた。思想らしい思想はない。政治も詳しくない。幹部は行けとは言うが、選挙に行ったこともない。EDFの攻撃映像を見たとき、正直に言えば怖かった。物流拠点が焼け、送電施設が壊され、首都高が寸断されたとき、真っ先に思ったのは、この国がどうなるか、ではない。実家の冷蔵庫が止まったら困る、だった。


「起きろ、起きろ、装具一式だ、フル装具」

 営内班の先任陸士長がカーテンを乱暴に開けた。

「何ですか」

「いいから動け。警備強化だってさ、こんな夜中に」


 警備強化、という言葉に、川南は半分だけ納得した。最近、そういうことは多かった。EDFの攻撃以後、重要施設防護だの、特別営外巡察だの、治安出動準備だの、普段は聞かない種類の用語が、訓練ではなく現実の勤務に混ざるようになっていた。幹部たちはあまり詳しいことを言わない。だが末端から見れば、上が何か深刻そうな顔をしている、というだけで十分現実味が出る。


 隊員たちは黙って装具を着けた。誰も「何が起きたんですか」としつこくは聞かなかった。聞いてもどうせ教えられないし、『保全上教えられない』と、教えられないこと自体が異常ではなくなって久しい。上官が口を濁し、末端がそれを織り込んで動く。組織とは、要するにそういうものだった。


 武器庫前の空気は冷えていた。班ごとに呼ばれ、受領し、署名し、確認する。金属音がする。箱を見ると、それは実弾入りだった。


 その瞬間だけ、空気が少し変わった。


「おい」

 隣にいた同期が小声で言った。

「ただの訓練じゃないんか」

「知らん」

「実弾って、警備だけでこんな出るか?」

「知らんて」


 川南はそう答えたが、内心では同じことを思っていた。だが、だからといってそこで足が止まるわけではない。人間は、自分のいる状況が分からないときほど、かえって手続きを忠実にこなす。弾倉を取り、弾数を数えながら弾を込めていく。異常事態の中では、普段と同じ動作が精神の避難所になる。そもそも軍隊は、非常時にも落ち着いて実施できるように、身体に基本動作をしみこませているということもある。


 連れていかれたモータープールでは、すでに何台もエンジンがかかっていた。先任陸曹や幹部が短く指示を出し、夜気の中に排気ガスが滞留している。誰も大声では喋らなかった。夜間行動というだけではない。おそらく、幹部の側も、何をどこまで口にしてよいのか測りかねていた。


 三等陸曹の尾崎修平は、その混乱の匂いをもっと敏感に感じていた。二十七歳。普通科で、災害派遣も訓練も一通りやった。頭の回転は速いほうではないが、現場の空気は読める。読めるからこそ、嫌な予感も早かった。


 中隊本部で下された説明は、曖昧に整いすぎていた。

 首都圏警備態勢の増強。東部方面軍系統からの重要施設防護命令。EDF関連内通者および国内攪乱分子の活動兆候。一部行政機関との連携不全。命令系統の一時的集中化。


 単語だけ見れば筋は通る。実際、EDF以後の世界なら、こういう非常措置があってもおかしくない。だが尾崎は、逆にその「おかしくなさ」が嫌だった。危険な命令ほど、表現は整っている。違法命令が最も違法に見えないのは、平時の官僚文書に似せてあるときだ。


「どう思います」

 若い陸士が小声で聞いた。

「何がだ」

「いや……これ、どこまで本当なんですか」

「さあな」


 尾崎は答えた。答えながら、自分が卑怯だとも思った。さあな、ではない。たぶん上は何か隠している。下手をすれば、かなり危ないことが起きている。だが、ここで「おかしい」と言ったところで、何が変わる。若いのを無駄に怯えさせるだけだ。しかも、自分だって確証はない。現場で一番人を縛るのは、確信ではなく半端な疑念である。完全に合法だと信じていれば気楽だし、完全に違法だと分かれば逆に腹が決まる。半端に怪しい状況だけが、一番長く人を黙らせる。


 車列は、夜のうちに外へ出た。


 首都高方面へ向かう途中、車内では誰もろくに喋らなかった。ときどき無線が鳴り、位置確認と短い命令が飛ぶ。尾崎は窓の外の暗い住宅地を見ながら、ひどく現実感の薄い気分になっていた。街は普通に眠っている。信号は規則通りに変わり、コンビニにはまだ客がいて、自販機の明かりが路肩を照らしている。その中を迷彩の車列が進んでいく。戦争というのは、もっと遠くで起きるものだと思っていた。だが実際には、日常の隙間をそのまま通ってくる。


 別の地点では、警視庁の若い警察官が、妙な違和感を覚えていた。

 巡査部長の新倉は、通信越しに飛んでくる断片的な報告を聞きながら、頭の中で状況をまとめようとしていた。自衛軍車両の展開。重要施設周辺の警備増強。所管外の進出。説明のつかない道路封鎖。だが、どれも一つずつ見れば非常措置の範囲に見えなくもない。EDF以後、彼自身も似た警備出動を何度か経験していた。官庁街や変電施設まわりで、制服の違う公務員がいっしょくたに動くことは、以前より珍しくなくなっている。


 だから判断が遅れる。警察だけではない。官僚も、政治家も、そして軍の末端も、みな同じ理由で遅れる。平時と非常時の境界が、すでに削られていたからだ。


 車列が最初の持ち場へ着いたとき、川南はまだ、自分が反乱側に立っているとは思っていなかった。


 目の前にあったのは、政府機関でも官邸でもない。関連施設の外周だった。周囲を固め、立哨し、通行を制限し、車両を誘導し、上からの続報を待つ。やっていることだけ見れば、災害派遣や重要施設警備の延長にすぎない。撃てとも言われない。誰かを捕まえろとも言われない。せいぜい、不審者がいたら止めろ、警察などとの接触は上に情報を上げろ。それぐらいだ。


 彼は、自分がすでに危険な場所へ足を突っ込んでいることを、まだ理解していなかった。理解していなかったからこそ、動けた。


 その頃、中隊長の山縣一尉は、もっとはっきりと異常を感じていた。三十代後半。叩き上げの部内幹部で、野心家ではないが、現場で部下を死なせたくないという程度の良心はある。彼のところへ来た命令は、形式上は整っていた。経路も一応通っている。だが、細部が妙だった。命令の言い回しが、いつもの師団司令部より少しだけ違う。普通の人間なら気づかない。だが、日常的に文書を見ている幹部ほど、こういう僅かな癖に反応する。


 とはいえ、そこで止まれるわけではなかった。部下はもう動いている。別系統の部隊も出ている。連隊本部は実施前提で話をしている。何より、もし本当に地球防衛軍が絡んでいるなら、ここで自分が命令を止めることのほうが危険ですらある。


 彼は無線の前で短く目を閉じ、結局、こう言った。

「各小隊、持ち場を維持しろ。なお、許可のない発砲は厳禁とする」


 それは良心の残りだった。そして同時に、組織への服従でもあった。


 反乱というものは、最初から血で始まるとは限らない。むしろ最初は、多くの人間が「まだ引き返せる」と思いながら、持ち場を維持している。現場を維持する。警戒線を維持する。無線を維持する。秩序を維持する。その維持の総和が、気づけば反乱側の秩序になっている。


 尾崎が決定的に嫌なものを感じたのは、夜明け前だった。無線の向こうで、別系統の部隊と警察の接触が報告された。本物か、地球防衛軍の変装か。まだ分からない。だが声の調子が普通と違う。警察は展開した自衛軍を「連携先」ではなく「接触対象」と呼んでいる。その僅かな言葉の変化だけで、世界はかなり違って見える。


「……ああ、そういうことか」

 尾崎は小さく言った。


 隣にいた隊員が聞き返した。

「何です」

「何でもない」


 何でもないはずがなかった。

 だが、ここで「俺たちは反乱に加担させられたかもしれない」と言って何になる。若いのは動揺する。班は乱れる。もし誤解なら自分が終わる。もし誤解でなくても、自分一人の判断でひっくり返せる段階ではもうない。


 彼は自分の情けなさを噛み潰しながら、持ち場へ戻った。


 川南の班では、その時間になっても、なお認識は割れていた。


「何かやばくないか」

 同期が言った。

「何が」

「いや、警察止めてるって……おかしいだろ、いくら警察の中にEDFがおるかもしれんとは言っても」

「上の命令だろ。そうするしかない」

「でもさ」

「でもじゃねえよ。お前が決めることじゃないだろ」


 そう言ったのは、班の陸士長だった。別に熱烈な愛国者ではない。どちらかといえば、休みの日にはパチンコへ行き、上を腐してばかりいる種類の男だ。だが、こういうとき、人はかえって組織的な言葉を使う。自分が信じているからではなく、信じていないと足元が抜けるからだ。


「上の命令だろ」

 その言葉は、忠誠の表明ではない。

 思考停止の宣言でもない。

 もっと実務的な、自己保存の言葉だ。


 誰が責任を取るか。

 誰が決めたのか。

 自分が勝手に判断していない、という証拠をどう残すか。


 末端にとって一番大事なのは、そこだった。


 もし後で正しかったとなれば従ったほうが生き残る。もし後で間違っていたとなっても、系統に従ったと言える。逆に、ここで一人だけ抜け駆けして間違えれば、それこそ自分だけが終わる。


 国家への忠誠より先に、組織の中で孤立しないことが優先される。それは卑小だが、非常に現実的な動機だった。


 山縣一尉のところへ、ついに直接問い合わせが来た。相手は警察側の幹部だった。声は怒りを抑えていたが、抑えているからこそ緊張が濃い。


「そちらの行動の法的根拠を確認したい」

 山縣は一拍置いた。

「上級部隊の命令による重要施設警備です」

「どこの部隊ですか」

「第1連隊です」

「あなた、自分が何をしているか分かっていますか」

「現下の情勢下における警備任務を遂行していると認識していますが……」

「それで通ると思っているんですか」

「こちらもあくまで命令に従っているんですが、何も調整とか来ていないんですか。緊急の命令で、先ほど非常呼集をかけたぐらいなのでこっちもなんとも……」


 電話を切ったあと、山縣はしばらく動かなかった。いま、自分は嘘をついたのか。それとも、形式上は本当のことを言っただけなのか。

 この種の問いは、非常時にはしばしば無意味になる。無意味になるが、無意味になったこと自体が、人間を確実に損なう。


 夜が少しずつ薄くなる。


 川南は立哨位置から東の空を見た。明るくなり始めている。嫌な朝だった。世界は、何も壊れていないように見える。鳥まで鳴いている。自分はいつも通り小銃を持って立っているだけだ。なのに胸の奥がざわつく。異常なのは風景ではない。自分がこの風景の中にいる意味のほうだった。


 そのとき、施設の向こうで小さな怒号が聞こえた。


 走る足音。制止の声。誰かが「止まれ」と叫ぶ。別の誰かが「撃つな」と怒鳴る。

 安全装置の乾いた音。


 発砲はなかった。

 だが、その数秒で十分だった。


 人間は、一度でも「撃つかもしれない場面」をくぐると、その前の自分へは戻りにくくなる。

 まだ何もしていない、では済まなくなるからだ。


 川南はその瞬間、ようやく本能的に理解した。

 これはただの警備ではない。だが理解したあとも、彼の足はその場を離れなかった。離れられなかった。

 自分一人がいま小銃を置いて何になる。班はどうなる。先輩はどうする。逃げたら何と言われる。もし本当に敵がいたら。もしここで自分が持ち場を空けたせいで誰かが死んだら。


 人間をその場へ縫い付けるのは、壮大な思想ではない。もっと情けない計算である。


 尾崎は、若い連中の顔を順に見た。みな青かった。だが崩れてはいない。崩れていないのは勇敢だからではない。状況をまだ飲み込み切れていないからだ。飲み込み切れる前に、次の命令が来る。命令は思考より速い。その速度差が組織を成り立たせる。


「班、警戒維持」

 彼は言った。自分の声がひどく平板なのが分かった。


 その命令は、部下を守るためでもあったし、同時に、自分自身を逃がさないためでもあった。

 ここで曖昧にすれば、もっと悪い形で崩れる。

 そう信じたかった。


 朝の最初のニュースが流れ始める頃には、東京のいくつかの地点で、誰もまだ正式な名前を与えていない事態が進行していた。政府は全体像を掴めていない。警察は自衛軍の意図を断定できない。自衛軍の末端は、自分たちが何に加担しつつあるのか、まだ言葉にできない。だが、言葉にできないということ自体が、事態を前へ進めていた。


 反乱とは、まず認識の遅延として始まる。

 それが日月の会の狙いであったかどうかは、この段階では末端には関係がない。

 関係がないまま、人はその中で配置につく。

 そして配置についた事実が、後からその人間を反乱の側へ固定していく。


 夜明けとともに、国家はまだ名乗っていない何かへ侵食され始めていた。


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