四谷賢一
四谷賢一は、他人から見れば誠実な軍人だった。
酒に溺れず、女にだらしなくなく、上官に媚びすぎず、部下を乱暴に扱いすぎない。作戦立案能力も現場感覚もあり、言葉は簡潔で、会議では余計なことを喋らない。訓練では冷静で、非常時には判断が早い。軍という組織は、こういう男を好む。少なくとも表向きには。
だが彼の本質は、誠実さではなく貯蔵にあった。
怒りを貯める。
軽蔑を貯める。
構想を貯める。
人間を貯める。
失敗さえも、いつか使うために保管しておく。
そういう種類の人間だった。
西部方面軍を原隊としながら、彼は珍しく東部方面軍にも北部方面軍にも顔が利いた。勤務経歴上の偶然もある。だが偶然だけではない。彼は意識的に人脈を作った。作るといっても、阿るわけではない。相手に気に入られようともしない。そうではなく、その人間が何に不満を持ち、どこで屈辱を覚え、どの思想に酔いやすく、どの場面で自分を正義だと思い込みやすいかを見抜き、その情報だけを残す。榊原が人事の観点から人を読むなら、四谷は運命の観点から人を読んだ。
彼の思想は、既に内部で十分に熟していた。
レーニン=孫文主義。
史的報復主義。
少数の先覚者による武装蜂起。
衆愚を導くエリート支配。
東洋が西洋へ歴史的報復を加えるべきだという確信。
世界征服ののち、「歴史的大審判法廷」を開くという妄執。
普通の人間なら、そんなものは頭の中で自家中毒を起こして終わる。
だが四谷は違った。
彼は妄想を現実へ載せるための手順を考えることができた。
彼は孫文を、革命家としてではなく、国家奪取の工程管理者として読んでいた。レーニンを、思想家としてではなく、権力移行の設計者として読んでいた。マルクスを、哲学者としてではなく、歴史を敵認定する技術者として読んでいた。三島由紀夫でさえ、彼にとっては美学に酔って失敗した先例でしかなかった。
美しいが、敗れた。
純粋だが、甘い。
正しさを叫んで死ぬ人間は、権力を握る人間ではない。
四谷はそう結論していた。
彼の読書は、敬意のために行われるものではない。分解のために行われる。過去の革命家や独裁者や思想家を、崇拝するためではなく、どこで判断を誤ったか、どの瞬間に演説が作戦に負けたか、どの構図で純粋さが権力運用を阻害したか、その故障箇所を特定するために読む。彼にとって歴史とは教養ではない。失敗事例集だった。
ある夜、四谷は自宅の書斎で、壁一面に貼られた地図を見ていた。日本列島。台湾。朝鮮半島。沿海州。東南アジア。太平洋。いずれも今すぐ戦域になる場所ではない。だが、未来において敵味方を塗り替えうる場所だった。海峡、港湾、空路、補給線、工業地帯、島嶼、防空圏。国家の境界線より、物の流れと兵の流れのほうが彼には重要だった。
机上には、日月の会の作戦資料と並んで、別のノートが開いていた。
そこには、古国失脚後の権力構造が記されている。
古国は使う。
だが長くは持たせない。
軍政は必ず正統性の問題に突き当たる。古国のような道徳主義者は、いずれ「正常化」へ向かう。選挙だの暫定措置だの、国民への説明責任だの、そういう甘い言葉を口にし始める。だが革命とは、奪取した権力を安定化させる過程においてこそ本番がある。最初に撃つことより、その後どこまで撃ち続けられるかのほうが重要だ。古国には、その血の臭いに耐える覚悟がない。
ならば、必要なのは継承である。
裏切りではなく、継承。
簒奪ではなく、徹底。
義務の横取りではなく、義務の純化。
そう名付ければよい。
歴史はしばしば、行為の内容ではなく、後から与えられた名称によって理解される。
四谷はペンを置いた。
窓の外に、都市の明かりが見える。どこにでもある地方都市の明かりだ。
この街に住む何十万という人間は、誰ひとり、自分がいま軍人の一人に未来を決められつつあるとは想像していないだろう。
それが大衆というものだ、と彼は思う。
後知後覚。いや、不知不覚。
孫文の知難行易を、四谷は自分なりに捻じ曲げて理解していた。人は知ってから行うのではない。むしろ、行う者だけが知る。動かない者に現実を決める資格はない。ゆえに、少数者が多数者に代わって現実を決定するのは当然である。
この考え方は、普通に言えば独裁思想である。
だが四谷は、それを独裁とは思っていない。
彼にとって独裁とは、能力のある少数者が、能力のない多数者の代わりに歴史の負担を引き受ける自然な形式でしかない。
衆愚に選択肢を与える必要はない。
与えるから政治が腐る。
与えるから国家が遅れる。
与えるから世界がぬるくなる。
その結論に、彼は何年も前から到達していた。
四谷が初めて「自分はこの国を握れる」と思ったのは、別に日月の会に入ってからではない。もっと以前から、彼は日本の国家構造を軽蔑していた。文民統制という言葉自体を否定していたわけではない。だが、日本の文民統制は、国家の最終決定を政治へ委ねる制度ではなく、最終責任だけを軍へ押しつけながら決定権は渡さない欺瞞として見えていた。
群発攻撃の際、その確信はさらに強まった。
政治は説明を欲し、メディアは意味づけを欲し、官僚は手続きを欲し、国民は安心を欲する。
そこへ敵が現れ、都市の神経を切る。
最後に動くのは、結局武器を持った者だけだ。
ならば最初から武器を持った者が国家を握ればよい。
論理としては、それで完結してしまう。
違うのは、古国と四谷のあいだにある最後の一段だった。
古国はそこから「ゆえに軍人が責任を取る」と進む。
四谷はそこから「ゆえに軍人が支配する」と進む。
この差は小さく見える。
だが実際には、世界を一回壊すには十分な差だった。
彼は日月の会の顔ぶれを順番に思い浮かべた。
古国良平。
軍人は国家の最後の責任者だという信念。
品位があり、義務に酔う。
使える。
だが長くは使えない。
牧野恒一。
成功する計画ならそれでいい。
政治が嫌いで、作戦だけを信じている。
危険だが扱いやすい。
勝利後には邪魔になる可能性がある。
榊原広太。
思想はいらない、従うかどうかだけだ。
こういう男は、生き残るためなら誰にでもつく。
最初から敵に回すより、利害で縛ったほうが早い。
神代嶺。
違法でも正当なら合法。
言葉に酔っているが、酔い方が実務に役立つ。
革命後の文書化には必要だ。
ただし、理屈を持つ人間は、ときどき理屈のために裏切る。
四谷は、この全員を一つの盤面として見ていた。人間を人格としてではなく、役割の束として認識する能力は、平時には冷淡さと呼ばれる。だが体制転覆の局面では、それはほとんど才能だった。革命が成功するかどうかは、理念の純度より、誰をどこで切り、誰をいつまで生かすかの判断にかかっている。四谷は、その種の判断に情緒を持ち込まない。
もっとも、彼が人間らしい感情をまったく持たないわけではなかった。
むしろ逆だ。
彼は憎悪を持っている。
ただその憎悪が、他人にすぐ見える形を取らないだけだ。
西洋文明への憎悪。
その西洋に敗北し、模倣し、媚び、なおその亜流として生きている日本への軽蔑。
戦後という時間そのものへの嫌悪。
豊かさとぬるさが結びついた社会への侮蔑。
選挙と消費と娯楽の中で、自分たちは自由だと信じている大衆への絶望。
こうした感情が、彼の思想の下にずっと沈んでいる。
彼は軍人として育った。
だがただの軍人では終わりたくなかった。
国家そのものを再設計する側へ行きたかった。
この欲望は誇大妄想に近い。
普通なら頭の中で膨らんで終わる。
だが四谷には、幸運があった。
世界が先に狂ってくれたのである。
地球防衛軍の出現。日本各地での群発攻撃。政治の腐敗。社会の疲弊。若年層の倦怠。
クーデターを「まだ必要悪の代行だ」と思い込ませる空気。
世界が十分に悪化してくれれば、最初の一歩はずっと軽くなる。
四谷は、その意味で、自分の才能と同じくらい時代の悪運を信じていた。
彼はまたノートを開いた。
そこには、日本国奪取後の長期構想が書かれている。
韓国。
台湾。
中国沿岸。
ロシア極東。
新国家。
新しい正統性。
大審判法廷。
普通のクーデター将校がこんな先まで考えることはない。
ふつうは国家を奪うところまでしか想像しない。
だが四谷にとって、日本国は最初から最終目的ではない。
橋頭堡にすぎない。
この国は弱い。
弱いが、工業基盤がある。
弱いが、軍事技術と海上交通の結節がある。
弱いが、歴史的屈辱に満ちている。
つまり、世界を壊す初手としては都合がいい。
書斎の壁にかかった時計が深夜を回る。
静かな部屋だった。
四谷は机の上に置かれた資料を閉じた。
古国が国家を守るためにクーデターを起こす。
そのあと、自分が国家を握る。
その先に、世界の再編がある。
どれも現時点では妄想に近い。
だが妄想とは、現実化のための手順が欠けている状態をいう。
手順さえ整えば、それは計画へ変わる。
すでに最初の手順は整いつつあった。
日月の会。
三矢作戦。
あとは、最初の成功だけだ。
最初の成功さえあれば、その先へ進める。
四谷は最後に一行だけ、ノートの余白へ書き足した。
革命は、最初に成功した者のものではない。
最後に継承した者のものだ。
彼はその文をしばらく見てから、ペンを置いた。
窓の外に、街の明かりがまだ残っている。
何百万という人間が眠り、起き、働き、食べ、選挙に行き、ニュースを見て、明日も今日の延長が続くと思っている。
それが四谷には、ひどく脆く見えた。
脆いものを壊したいのではない。
脆いものが支配していることが耐えがたいのだ。
彼は静かに言った。
「ここからだ」
その声には熱がなかった。
熱がないからこそ、危険だった。




