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来たるべき破滅のために  作者: Barkley
第二章 権力
15/69

遅延

 どれほど綿密に準備された計画も、現実に入った瞬間から、予定は少しずつ壊れ始める。


 日月の会の中枢は、当初、もっと静かに事が運ぶと見ていた。政府の認識は遅れ、警察は法的根拠を問い続け、東部方面軍の大多数は命令の形式に従い、海自と空自は判断の遅れと曖昧な連絡に縛られて、数時間は足が止まる。そういう想定だった。想定そのものは、大きく外れてはいない。実際、夜明け前までの段階では、反乱軍側はかなり優位に立っていた。


 だが、優位と決着は違う。


 国家中枢を奪うというのは、建物を囲めば済む話ではない。誰がどの権限を持ち、どの端末が生きていて、どの通信回線がまだ通り、誰が自分を「合法の命令系統」に属していると思っているか、その錯綜した意識の束を一つずつ切り離さなければならない。つまり、国家の奪取とは、物理より先に、判断の奪取なのだ。


 そして判断というものは、遅れる。


 官邸の地下では、総理と側近たちが、ようやく事態の輪郭を掴み始めていた。


 総理大臣・白河俊明は、徹夜明けの顔をしていた。六十を越えてなお姿勢は悪くない男だったが、その朝ばかりは、背広がひどく重たそうに見えた。彼は愚鈍ではなかった。優柔不断なだけである。政治においてその二つはしばしば似て見えるが、危機の局面では決定的に違う。愚鈍な人間はそもそも理解しない。優柔不断な人間は理解してから、なお決められない。


 防衛大臣、官房長官、国家公安委員長、防衛省官僚、警察庁側の幹部、内閣情報調査室の人間、秘書官、何人もの顔が狭い会議室へ詰め込まれていた。壁面のモニターには、官庁街の空撮、警察との対峙、自衛軍車列、各局の生中継、そして古国の声明が繰り返し映っている。


「これはもう反乱です」

 官房長官が言った。

 言い方に怒気はあったが、その怒気の中にどこか安堵も混じっていた。名称が定まったからだ。人間は危機に名前を与えた瞬間に、少しだけ安心する。


 防衛大臣は首を振った。

「反乱だとしても、まだ全軍ではない。限定的蜂起だ。自衛軍全体を敵扱いするわけにはいかない」

「だがその敵に官邸が囲まれている」

「だからこそ慎重に言葉を選ばねばならないんです」


 慎重。

 その語を聞いた瞬間、白河は腹の底で、ほとんど生理的な嫌悪を覚えた。慎重であることによって、ここ数年、何か一つでも救えたものがあったか。地球防衛軍が現れたときも、十一月の群発攻撃が起きたときも、この国の政治は、結局いつも慎重だった。慎重に懸念し、慎重に検討し、慎重に協議し、慎重に責任を薄めた。その結果がこれではないのか。


 だが彼もまた、その慎重の一部だった。

 自分だけが違うと思えるほど、若くもなかった。


「他方面軍は」

 白河が尋ねた。

 防衛省の背広組幹部が答えた。

「西方、北方、中部方面の主力は現時点で動揺していますが、すべてが古国側へ同調しているわけではありません。こちらの動かせる駒も残っています」

「残っている、ではなく、動かせ」

「動かしています」

「どこまで」

「移動準備、待機、主要駐屯地の確保、官庁街周辺への増援検討、反乱側の補給線遮断……」

「検討では遅い」


 その一言だけが、妙に静かに落ちた。


 白河は自分の言葉に自分で少し驚いていた。彼は本来、こういう調子で物を言う男ではない。むしろ、会議の空気を読んで妥協点を探り、異論を「両論併記」に変換することに長けた政治家だった。だが、いまこの瞬間だけは、その技術がむしろ有害に思えた。


「遅いんだ」

 彼はもう一度言った。

「いま必要なのは、違法な武装行動に従わない部隊へ、明確に従うべき先を示すことだ。誰に従えばいいのか、その一点で迷わせるな」


 防衛大臣がようやく頷いた。

 その場にいた全員が、同じことを心のどこかでは分かっていた。末端の部隊は、思想ではなく、命令の受け皿で動く。ならば政府側がやるべきことは、法理の精緻化ではなく、命令の形式の回復だった。遅すぎる理解だったが、理解しないよりはましだった。


 他方面軍では、その頃から温度差のある動きが始まっていた。


 ある駐屯地では、方面総監部からの異例の命令に、連隊長が机を叩いて怒鳴った。

「総監の私的蜂起に付き合う義理はない」

別の駐屯地では、大隊長が顔色を変えずに言った。

「現時点で誰が正規かは俺が決める。勝手に出るな」

さらに別の場所では、若い幹部が古国の声明を聞いた瞬間、妙な納得をしてしまった。

ああ、とうとう来たのか、と。


 陸士や陸曹にとっては、なおさら分かりにくかった。

 東部方面軍で何かが起きているらしい。官邸が囲まれているらしい。古国陸将が出てきたらしい。総理も命令を出したらしい。どちらが本当の上なのか。

 誰に従えば「あとで正しかった側」へ残れるのか。


 この国の軍人たちは、クーデターを起こす訓練はもちろん受けていない。同時に、クーデターを見分ける訓練も受けていない。それが日月の会の最大の賭けであり、最大の強みでもあった。


 海自と空自は、古国側への拒否反応を見せ始めていた。


 空自が最も早く判断していた。緊急措置だと言うわりに、統合任務の正式な手続きが足りない。根回しが足りていない。しかし、古国が出てきた以上、もはや現場判断の範囲ではない。そう認識した空自の幹部たちは、露骨に古国側の要求を保留し始めた。積極的な交戦姿勢というより、従わないことそれ自体が抵抗になった。


 海自はもっと鈍かったが、そのぶん、一度腹を決めると厄介だった。

 横須賀の指揮官の一人は、古国の声明を見終わったあと、短く言った。

「陸が政治を始めた」

その一言で十分だった。

 海自にとって、組織文化としての本能的な拒絶だった。陸は地面を取りに行く。だから政治を欲しがる。そういう冷笑は平時から存在する。


 つまり、日月の会が最初に期待したほどには、海空は痺れなかった。


 そのことは、地下会議室の空気を少しずつ悪くした。


「空自が応じません」

 通信担当の幹部が言った。

「どういう意味だ」

 牧野が聞く。

「露骨な拒否ではありませんが、飛行運用上の安全確認を理由に、陸側要請を後回しにしています」

「海自は」

「主要基地は自律判断を優先。警備上の理由で、陸側の人員受け入れも拒否」

 榊原が吐き捨てるように言った。

「彼らも最初から信用するほど馬鹿ではない」


 古国は何も言わなかった。

 沈黙が長くなると、人はその沈黙に意味を読みたがる。四谷は、古国がいま何を計算しているかより、何を失いつつあるかを見ていた。余裕だ。老人はまだ、自分が国家を代行していると思いたがっている。だが国家代行を名乗る以上、全軍がそれを国家代行だと認めてくれなければ困る。陸の一部だけで官邸を囲んでいても、法理上はともかく、政治的にはじわじわ苦しくなる。


 つまり、時間が敵になり始めていた。


 官邸包囲部隊の現場でも、その焦りは伝わっていた。

 山縣一尉は、補給の遅れと交代要員の不足に頭を抱えていた。隊員は寝ていない。水も食料もあるが、摂取する時間が十分ではない。警戒線は長い。道路規制は混乱し、民間車両も報道もじわじわ増える。警察側も、最初の困惑を越えつつあった。このまま何時間も立たせれば、若い陸士や陸曹の神経が先に擦り切れる。


「交代の部隊はまだか」

 山縣が指揮下の小隊長に問う。

「方面から調整中です」

 小隊長は答える。しかしもともと交代の計画などない。本来、すでにもう権力の奪取は終わっているはずだった。

「調整中で持つか」

「持たせるしか」


 その答えに怒鳴る気力も残っていなかった。

 国家を奪う側の作戦というのは、えてして「国家を動かす側」の都合で組まれる。だが、実際に立ち続けるのは現場の足であり、冷えた手であり、睡眠不足の目である。日月の会の将官や一佐級がどれだけ壮大な理屈を語っても、若い二士が喉の渇きで苛立ち始めた瞬間に、反乱は急にみすぼらしいものへ変わる。

 川南亮はそのみすぼらしさを、最も正直に感じていた。


 最初の数時間は、緊張がむしろ彼を立たせていた。何か大きなことが起きている。間違えれば死ぬかもしれない。だから余計なことを考えずに済んだ。だが午前八時が近づくころになると、緊張はだんだん、ただの疲れへ変わる。腹が減る。尿意もある。目の前には盾を持った警察がまだいる。何も進んでいないように見える。にもかかわらず、自分だけはずっとここに立っている。


 人間は、意味のある危機には耐えやすい。

 だが、進んでいるのか止まっているのか分からない危機には弱い。


「何でこんなことになってるんだろうな」

 隣の同期が言った。

 川南は答えなかった。

 答えられなかったのではない。答えが単純すぎたからだ。上の命令だったから。その単純さが、妙に情けなかった。


 官邸の地下では、総理がついに覚悟を固めつつあった。


「機動隊は」

「再展開中です」

「他方面軍の統制派部隊は」

「向かっていますが、到着にはなお時間が」

「何時間」

「正確には……」

「何時間だ」

「二時間、三時間、地点によってはそれ以上」

 白河は笑いそうになった。

 二時間。三時間。包囲された側にとっては、永遠に等しい。


 国家公安委員長が言った。

「官邸を出る選択肢もあります」

「どこへ」

「より安全な指揮拠点へ」

「それをやった瞬間、向こうは官邸を掌握したと宣伝する」

「しかしこのままでは」

「このままでも同じだ」


 白河は初めて、自分がかなり冷えた場所へ来ていることを理解した。

 逃げれば政治的に負ける。

 残っても物理的に負けるかもしれない。

 遅すぎる。すべてが。


 彼は窓のない壁を見ながら、ぼんやりと思った。

 自分たちが十一月にもっと強く動いていれば、ここまで来なかっただろうか。

 EDFの出現時に、もっとはっきり軍の授権条件を切っていれば。

 国内攪乱と非常措置の線引きを厳格にしていれば。

 日月の会の噂を、ただの右派サークルとして笑わずに潰していれば。

 だが政治というものは、いつも「そのとき可能だった最小の対応」を選び続け、その集積として破局を迎える。


 彼は官房長官のほうを見た。

「官邸を明け渡す気はない」

「はい」

「だが篭城して英雄になるつもりもない」

「はい」

「交渉の窓口は維持しろ。時間を稼げ。動かせる部隊は全部動かせ。海空にも、これは内閣に対する武装圧迫だと明言しろ」

「明言していいのですか」

 白河は、その問いに一瞬だけ呆れた。

「いまさら言葉を惜しんでどうする」


 ようやく、その言葉が出た。

 遅かった。

 だが、遅い言葉にも重みはある。

 それが事態を変えるかどうかは別として。


 地下会議室へ戻る。


 牧野は時計を見ていた。

 午前八時を過ぎる。

 ここまで長引けば、他方面軍の統制派、警察機動隊、海自・空自の非協力が、すべて古国側に不利に働き始める。国家中枢を奪う反乱にとって、最悪なのは「中途半端な成功」だ。官邸を囲んでいるのに落としきれない。総理を孤立させたのに身柄を確保できない。そうなれば、反乱軍は政治的な主導権を失い、ただの武装占拠へ落ちる。


「閣下」

 牧野は古国を見た。

「もう待てません」

 古国は目を上げた。

「まだ他方面の動向が」

「他方面の全てがこちらへ傾くのを待っていたら終わります。国家は時間が経つほど、曖昧な正統性に帰っていく。最初の数時間だけが勝負だった。その数時間は、もう終わりつつある」


 言い方は抑えられていたが、実質は催促だった。

 神代も口を開いた。

「政治的にも同じです。官邸を押さえずに“国家非常措置”を名乗り続けるのは苦しい。総理が生きて喋っている限り、あちらが正当な政府です」

 榊原はもっと露骨だった。

「現場も持ちません。下が長時間の曖昧さに耐えられると思わないほうがいい」


 古国は、しばらく何も言わなかった。


 彼の頭の中には、たぶんまだ二つの国家があった。

 一つは、制度としての国家。

 もう一つは、自分が救おうとしているつもりの国家。

 だが今やその二つは、官邸の前で互いを否定している。

 どちらかを物理的に沈黙させない限り、決着はつかない。


 四谷賢一は、その沈黙を待っていた。

 老人が自分で最後の一歩を踏み越える瞬間を。

 誰かに押されてではなく、古国自身の責任で。


 やがて古国は立ち上がった。


「車を出せ」

 部屋の空気が変わった。

「官邸前へ行く」

 牧野がわずかに表情を動かした。

 安堵とも緊張ともつかない顔だった。

 古国は続けた。

「私が現場を見る」


 それは、将としては無謀に近い判断だった。

 だが政治としては、むしろ自然だった。この段階で必要なのは、命令の上に顔を乗せることだからだ。命令だけでは足りない。国家を名乗る者は、最後には自分の顔で責任を負わねばならない。


 古国は外へ出た。

 空はすでに完全に朝だった。東京の明るさは、彼にとって妙に残酷に思えた。これから自分がやろうとしていることは、夜の陰に紛れて済む種類のものではない。

 白昼の国家奪取。

 それをやるのだと、ようやく身体が理解し始めていた。


 車列が官邸へ向かうあいだ、古国はほとんど喋らなかった。

 同乗した幕僚も静かだった。

 遠くでサイレンが鳴る。

 一般車はほとんどいない。

 ただ、ところどころで足を止めている市民がいた。スマートフォンを向け、何が起きているのか分からないまま撮っている。国家が裏返る瞬間に立ち会っているという実感は、おそらくその場の誰にもまだない。現代人は、歴史の最中でいつも撮影者として立っている。


 官邸包囲部隊に古国到着の報が入ったとき、山縣一尉は一瞬だけ救われたような気持ちになった。

 誰かが責任を引き受けに来た。

 それが善い責任か、最悪の責任かはともかく、少なくとも現場だけが宙吊りにされる状態ではなくなる。


 川南亮は、その老人の顔を遠目に見た。

 古国良平。東部方面総監の偉い人。

 本人が来た、という事実だけで、妙な現実感が出た。つまり本当に、これは上が決めたことなのだ。

 そう理解した瞬間、彼の恐怖は逆に少し減った。末端の人間にとっては、抽象的な違法性より、「誰がこれを命じたのか」が見えることのほうが大きい。


 古国は車を降り、官邸方向を見た。

 警察の盾列。迷彩服。緊張で白くなった顔。

 数時間持ち場を守らされ、何のためにここにいるのか十分に理解していない若い隊員たち。

 彼はその光景を見て、一瞬だけ、自分が彼ら全員を裏切っているのではないかと思った。

 その一瞬だけで十分だった。

 思った上で、なお進むのが権力だからだ。


---


## 第一・十一章 九時


 官邸前の空気は、音よりも先に形を変えた。


 古国の到着は、現場の誰にも平等には作用しなかった。反乱軍側の幹部にとっては、ようやく政治が前へ出たという意味を持った。陸士や陸曹にとっては、責任の所在が可視化されたという安心になった。警察側には、逆に事態の重大さが疑いようもなくなったという絶望を与えた。官邸地下の側近たちにとっては、時間切れの気配になった。


 古国は、現場指揮車両の横で短く状況を聞いた。

 どこが押さえられ、どこが未確保か。警察の配置。官邸内通信の様子。他方面軍の接近見込み。報道の立ち上がり。

 言葉は短く、返答も簡潔だった。その簡潔さが、むしろ追い詰められていることを示していた。余裕のある軍は、もっと無駄に喋る。


「遅れています」

 牧野が言った。

「承知している」

「これ以上の停滞は危険です」

「分かっている」


 古国は二度そう言った。

 分かっている。

 それはたぶん、状況説明への返事である以上に、自分自身への確認だった。


 山縣一尉が呼ばれた。

 彼は古国の前へ出ると、自分でも驚くほど機械的に敬礼した。

 その動作の正確さが、かえって今の異常さを強調する。


「現場の状況を」

 古国が言う。

 山縣は答えた。

「警察側は持久姿勢です。発砲事案一件、死傷者はなし。隊員の疲労進行。交代は不足。官邸内との直接交渉は限定的。周辺民間人の滞留増加」

「隊員の士気は」

 山縣は一瞬だけ言葉を選んだ。

「崩れてはいません」

 古国は、その答えの裏を読んだだろう。

 高い、ではない。

 崩れてはいません。

 つまり、これ以上引き延ばせばどうなるか分からないという意味だ。


「よく持たせた」

 古国は言った。

 山縣はその一言に、妙に苦い感情を覚えた。褒められている。褒められているが、自分が何を持たせたのかはもはや言えない。国家秩序か、反乱の布陣か、それすら曖昧なまま、ただ持ち場だけを維持してきた。その曖昧さに対する褒賞ほど、嫌なものはない。


 古国はさらに何人かの幹部から報告を受け、最後に官邸の方角をもう一度見た。

 中に総理がいる。

 法的にはまだ国家権力の頂点にいる人物。

 彼を外へ出せば、あるいは保護名目で移送できれば、形式上の決着はかなりつく。

 逆に言えば、そこまでやらなければ、自分たちはいつまでも「官邸を囲んでいるだけの反乱軍」に留まる。


「交渉は」

 古国が問う。

 神代が答える。

「継続中ですが、時間稼ぎです。あちらは他方面軍と警察機動隊の再展開を待っています」

「こちらも同じだ」

 牧野が低く言った。

「ただし、こちらには待つ余裕がない」


 その通りだった。

 他方面軍の統制派が本格的に動けば、官邸周辺の包囲は逆に包囲される。

 海空が明確に政府支持を打ち出せば、古国の「国家代行」の顔は一気に薄くなる。

 警察が現場で腹を決めれば、接触線はより不安定になる。

 時間は、もはや政府だけの敵ではなかった。


 官邸地下では、白河俊明が古国からの最後通牒に近い文面を渡されていた。


 内容は表向き穏当だった。

 国民生活の混乱回避。

 流血防止。

 臨時保護下での身柄移送。

 危機収束までの限定措置。

 要するに、降りろ、ということだった。


「ふざけるな」

 国家公安委員長が吐き捨てた。

「保護下とは何だ。拉致だろう」

 官房長官は珍しく何も言わなかった。

 白河は文面を静かに見たあと、机へ置いた。

「拒否する」

「総理」

「拒否する」


 その言い方は静かだった。

 静かだが、奇妙な固さがあった。

 人間は、何かを長く決められなかったあと、突然だけ妙に明確になることがある。

 それが最善であるとは限らない。

 ただ、ようやく自分の遅れを一つだけ埋め合わせようとするような、そんな決断だった。


「交渉は続ける」

 白河は言った。

「だが、こちらから官邸を明け渡すことはない」

 側近の一人が声を震わせた。

「このままでは突入も」

「分かっている」

「でしたら」

「分かっていると言った」


 分かっている。

 その言葉が、この朝だけで何度使われたことか。

 理解は、もはや十分にある。

 足りないのは時間と、すでに失われた初動だけだった。


 古国のもとへ、拒否の報が届いた。


 彼はしばらく動かなかった。

 周囲の幹部たちは、老人がまだ交渉を続けるのではないかと一瞬思ったかもしれない。

 だが古国は、むしろその沈黙の中で、何か一つを切り捨てたように見えた。


「権力は」

 彼は小さく言った。

「空白のままにはできない」


 誰に向けた言葉でもなかった。

 自分へ向けていたのだろう。

 彼は国家を愛しているつもりで、ここまで来た。

 だが国家を愛するという自己認識だけでは、官邸の扉は開かない。

 最後には、物理で押し開けるしかない。

 それを認めた瞬間、古国の中で何かが古びた音を立てて壊れた。


 彼は顔を上げた。


「包囲部隊に通達」

 幕僚が身を固くする。

「突入準備」

 山縣の喉がひどく乾いた。

 その二文字が出たことで、曖昧さの一枚が剥がれた。

 もう、警備ではない。

 もう、持久でもない。

 もう、非常措置の演技だけでは済まない。


 古国はさらに続けた。


「可能な限り流血は避ける。警察・官邸警備側には再度投降を呼びかける。総理以下、閣僚の身柄を確保し、速やかに別室へ移送。無秩序にするな」

 それは命令としては理性的だった。

 だが理性的であることが、必ずしも倫理的であるわけではない。

 むしろ、大きな違法はしばしば、ひどく整った言葉で命じられる。


 命令は現場へ降りた。


 山縣は隊員たちを見た。若い顔ばかりだった。この中の多くは、いま自分が何に使われようとしているのか、まだ完全には理解していない。だが、理解していないままでも、人は前へ押し出される。

訓練とは、そういうときのための技術でもある。


「聞け」

 彼は言った。

「命令が出た。突入準備だ」

 隊員の顔が一斉に硬くなる。

「発砲は最終手段。警察側も官邸警備も、可能な限り負傷させるな。だが抵抗された場合、持ち場と隊列を崩すな。勝手に逃げるな。班長の号令から外れるな」


 その最後の言葉が一番重要だった。

 人間は、こういう瞬間には巨大な理念ではなく、むしろ極小の禁止事項で動く。

 勝手に逃げるな。班長の号令から外れるな。その程度で十分だ。



 川南亮は、心臓が嫌な音を立てているのを感じた。

 撃つかもしれない。撃たれるかもしれない。

 自分が今から入るのは官邸だ。日本の総理がいる場所。そんなところへ、自分のような二士が入っていいはずがない。

 いいはずがないのに、命令は来る。来た以上、身体はそれに合わせて動き始める。


 人間は、恐怖の中でも意外なほど正確に装具を直せる。

 ストラップを締める。顎紐を締める。

 同期の顔を見る。誰も何も言わない。

 言わないまま、全員が、自分だけは取り乱していない顔をしている。


 警察側にも、最後通告は届いた。

 引け。

 抵抗するな。

 国民のためだ。

 そういう美辞麗句つきの命令だった。

 現場の警部補は苦い笑いを浮かべた。

「国民のため、ね」

 誰かが答える。

「いつも最後はそれです」


 彼らもまた、もう分かっていた。

 ここを引けば、政治的には終わる。

 だが残れば、物理的に終わるかもしれない。

 同じ構図だった。

 国家の両側で、末端だけが最悪の選択肢を引かされる。


 午前八時台後半。

 東京の光は容赦なく明るい。

 テレビ各局は、もはや遠慮を捨て始めていた。

 クーデター未遂。軍事蜂起。一部で武力衝突。政権中枢包囲。

 各社の表現はばらついているが、もはや「ただの警備強化」ではない。

 そのことは反乱軍側にも伝わっている。

 つまり、時間切れだった。


 古国は、官邸の方向を見たまま、最後の命令を出した。


「突入」


 その二文字は、叫びではなかった。

 静かだった。

 静かだからこそ、逃げ道がなかった。


 あとは数分の世界だった。


 盾が前へ出る。

 制止の声。

 押し合い。

 警察側の列が歪む。

 悲鳴。

 転倒。

 怒号。

 誰かが泣いている。

 誰かが吐いている。

 だが列は進む。

 進んでしまう。


 ここで重要なのは、英雄的な突破ではない。

 むしろ逆で、誰も全体を見ていないまま、部分ごとの圧力が連鎖した結果、線が破れることだ。国家中枢の奪取とは、劇場型の勝利ではなく、こういう醜い圧力の集積で起きる。


 川南亮は、自分がどうやって敷地内へ入ったのか、あとで思い出せなかった。

 押された。

 走った。

 止まれと言われた。

 進めと言われた。

 警察官の肩が見えた。

 誰かが転んだ。

 靴音。

 ガラスの反響。

 自分の呼吸。

 それしか残っていない。


 山縣一尉は、途中で一人の警察官と目が合った。

 年齢は自分とそう変わらない。

 相手は盾を構えていた。

 こちらは小銃を持っていた。

 その構図の醜悪さを理解するには十分な一瞬だった。

 だが次の瞬間には、もう別の指示を飛ばしていた。

 理解より先に勤務が動く。

 それが組織の本性だ。


 官邸内部の混乱は長くは続かなかった。

 警備側は踏ん張ったが、全面戦闘の覚悟を持った軍事占拠部隊と、政治的正統性の保持を優先せざるをえない官邸警備とでは、最初から条件が違う。しかも相手が同じ国家機構の一部である以上、警備側には「ここで殺し合いにしてよいのか」という最後のためらいが残る。そのためらいがある側は、こういう局面では弱い。


 白河俊明は、部屋の外で怒号が近づくのを聞いていた。

 側近たちは青ざめ、何人かはもう完全に言葉を失っていた。

 誰かが退避経路を言い、誰かが拒否し、誰かが泣きそうな声で連絡を試みている。

 白河は立ち上がった。

 この数時間、自分は遅れ続けた。

 だが最後に立っていることぐらいはできると思ったのかもしれない。


 扉が開いた。

 迷彩服。

 小銃。

 鋭い声。

 そしてその後ろに、古国良平の顔が見えた。


 白河は、その顔を見た瞬間、奇妙な納得を覚えた。

 知らない若い将校に奪われるよりは、まだ国家の顔をした老人に奪われるほうが、この国らしい、とでも言うべきか。

 それは諦めに近かった。


「白河総理」

 古国が言った。

「国家非常措置のため、あなたの身柄を保護する」

 白河は笑わなかった。

「保護ではないだろう」

「必要な措置です」

「歴史はそう書かない」

「歴史を書くのは生き残った側です」


 それは古国の言葉ではなかった。

 後ろにいた四谷賢一が、ほとんど独り言のように言ったのだった。

 白河はその声の主を見た。

 若い。

 若いが、目の奥がひどく冷えている。

 ああ、こいつだ、と白河は理由もなく思った。

 老人は国家を救うつもりでここまで来たのかもしれない。

 だがその後ろには、もっと別の種類の人間がいる。

 国家そのものではなく、権力の変質を目的にしている人間が。


 白河はそれ以上何も言わなかった。

 言っても遅いと分かったからではない。

 遅いことはもっと前から分かっていた。

 ただ、いまこの部屋で交わされる言葉には、もう国家を救う力がないと理解しただけだった。


 午前九時。

 総理大臣、官房長官、防衛大臣、国家公安委員長を含む内閣中枢の主要人物は、反乱軍側の管理下へ置かれた。

 官邸は制圧された。

 テレビではまだ「身柄確保」「保護」「事実確認中」という語が混在していたが、政治の実態としては、そこで決着していた。

 国家はまだ紙の上では残っている。

 だが、紙の国家は、しばしば人質の横でしか生きられない。


 古国良平は、その瞬間、自分が実権を握ったことを知った。

 そして同時に、自分がもう後戻りできない場所へ来たことも知った。

 彼の手はわずかに震えていた。

 四谷賢一はそれを見ていた。

 老人の震えを。

 革命の第一段階が終わり、第二段階が始まったことを。


 外では、まだ警察が残り、他方面軍が動き、海自と空自は健在だ。決して戦いは終わっていない。だが、政治の朝は終わった。

 午前九時。

 日本という国は、その時刻に一度、別の命令系統へ接続されたのである。


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