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墨染櫻花の怪異事件簿 ――開化東京妖怪譚  作者: 真魚
第二話 新宿狐火騒動
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六 水辺の大捕り物 ③

「狐だって?」

 お延が呆れたような声をあげる。

「あんたも物の怪話にビクビクする性質(たち)なのかい?」


「いや、しかしお延、兎ども本当に――」

 櫻花の腕の中の白兎も含めて、本堂にいる四匹の兎たちがみな憑かれたように足を踏み鳴らしている。

 大柄な男がしなだれかかるお延の腕を解いて腰を浮かせたとき、外からクォーンと一声獣の吠え声が聞こえた。


「お、女将さん――」

 若旦那風の男が震える声で呼ぶ。「外に、何かいるようだが」


「き、狐だろう、単なる。兎の匂いを嗅ぎつけて、本当の狐がうろついているんだよ」

 お延の代わりのように大男が答え、戸板のほうへと歩み寄ると、腰をかがめて細い隙間から外を覗き込んだ。


 沈黙のなか兎たちの癇性な足音が響く。


 数秒おいて、大男が「ヒイイっ」と声を漏らしながら後ずさった。


「何だい? 何が見えたっていうんだい?」

 お延が焦れた声で訊ねる。


 大男はすっかりと蒼褪めた表情で振り返り、

「ひ、ひ、火だ」

 と、掠れた声で応えた。


「ヒヒヒ?」

 お延が眉をよせる。

「ああ火か。火ってどういうことだい」


「狐火だ。境内に白いばかでかい狐がいた。尻尾の先に火が見えた」


 してやったり――と、櫻花は内心でほくそ笑んだ。

 外の大きな白狐とはもちろん疾風である。

 疾風も真葛に命じられれば尻尾の先に狐火を燈せるらしい。


「それがな」と、大男が怯えに眸を見開いたまま続ける。「その白きつねが、俺のほうを見るなりニーっと笑ったかと思うと、その場でぱっと消えちまったんだっ……!」


「馬鹿、大声出すんじゃないよ!」

 お延が拳で大男の頭を遠慮容赦なく殴る。「狐火だぁ? 馬鹿ぁいうんじゃない。そんなもん人間に決まっているだろうが! 人間が犬でも連れて――」

 そこまで口にしたところでハッとしたように虚空を睨み、ぎこちない笑顔を取り繕って車座の一同を見回す。


「お客さんがた、チーっと邪魔が入ったみたいです。今夜はこれでお開きということで、裏からお帰りくださいな」

 悪党ながら大した女だと櫻花は感心した。

 ともかくも矢鱈と肝は太い。


「う、裏? 裏ってなんだ」

 こちらは悪事を働くにはあまりに肝の細そうな若旦那風の男が早くも立ち上がりながら詰め寄る。「この寺の入り口は一か所だろう? そっちに犬がいるんだろう? どこから逃げるっていうんだ?」


「若旦那、ご案じなさらず」

 お延の落ち着きに励まされたのか、大男が笑って宥める。

「こういうこともあろうかと、ちゃーんと逃げ道の支度がしてあります。ちょいとお待ちくださいね、裏の板戸を外しますから」

 言い置いて火明かりの届かない暗がりへと向かい、ガタガタと音を立てて戸板を外す。

 そして自ら先頭に立って提灯を持ち、雑木に覆われた斜面を下り始めた。



 

 斜面の突き当りは玉川上水だ。


 その水面に、櫻花の思った通り、一艘の櫨舟が係留されていた。

 舳先に編笠を深くかぶった漕ぎ手が立って櫨にもたれている。


「若旦那、お乗りくだせえ。姐さん、足元に気をつけろよ」

 大男が皆に乗船を促す。

 やはり予想通りだった――と、櫻花は内心で密かな満足感を覚えた。


 全員がどうにか乗り組んだところで、大男とお延がそれぞれ持っていた提灯に黒い布を被せてしまう。

 月の細い夜である。

 視界がたちまち真っ暗に沈む。


「やっておくれ」

 お延が低く促す。

「へえ女将さん」

 漕ぎ手も低く答え、殆ど何も見えない暗がりのなか、器用に櫂を押して舟を右手へと漕ぎ進め始めた。




 その頃になるとさすがにもう兎たちも落ち着いていた。

 ギイ、ギイと低く軋む櫨の音と微かな水音だけが闇の底に響く。


「若旦那、もうじきでござんすよ」

 お延が甘ったるい小声で囁く。「高札場の手前の橋のところで舟を止めますから、添地の芸者の家にでも行って朝までお休みくださいな」

「車屋は俺が面倒を見てやる。大事の黒更紗もな」

 大男が舌なめずりしそうな声で言う。

 気の毒な車夫の若者は返事をしなかった。

 このまま面倒を見て貰ったら、翌朝には自分が死体となって玉川上水に浮かんでいる様子でも想像しているのだろう。


 案ずるな若者――と、櫻花は内心で励ました。

 お前の明日は水死体ではなく監獄だ。



 やがて舟が停まった。

 暗くてよく見えないが、高札場の手前の橋の橋脚がすぐ先に並んでいるのだろう。

「ささ、若旦那降りてくだせえ」

 大男が促したときだった。


 不意に頭上から三筋の眩い火明かりがさしたかと思うと、櫻花の耳にはなじみのある若々しく張りのある声が響いた。


「みな動くな! 邏卒(ポリス)隊だ!」



「――!」

 船尾近くでお延がハッと息を呑むのが分かった。


 火明かりの源は橋の上に並ぶ提灯だった。

 みな今しがたまで覆いをかけてあったのだろう。

 持ち手はみな紺サージの詰襟服姿の邏卒たちだ。

 真ん中に藤七郎がいる。

 暗がりの中でもはっきりと分かるほど目をキラキラさせている。


「……これは旦那衆、遅くまでご苦労さんでござんすねえ」

 お延が異様に落ち着き払った様子で自らの提灯の覆いを外しながら答える。


「うむ! 不埒の者どもが重宝院に密かに集っているという報せがあったからな!」

 藤七郎がハキハキ答える。


「不埒の者?」

 お延が呆れたように小首を傾げて嗤う。「わっちらはそこのお堂をちいっと借りて夜の兎会と洒落こんでいただけでござんすよ? 上方のほうでは兎会はこの頃取り締まられていると聞きますが――東京府で兎会が罪になるとはとんと知りませんでしたわい」

 お延がいけしゃあしゃあという。

 盗品の兎を扱っている証拠はあがっていないと踏んでいるのだろう。


「そうだな」

 藤七郎が頷く。「兎会は罪ではない」

「そいじゃ、旦那衆はなんだってわっちらをお縄にしようと?」


「決まってんだろうが牝狐めが!」

 藤七郎はそれが素の町人風の巻き舌で痺れを切らしたように怒鳴った。「手前(てめえ)らの罪は今ここにあらあ! 玉川上水に舟を出すことそのものが先月から御法度なんだよ! 常識で考えりゃ分かんだろ? 毎日櫂でかき回してたら、江戸っ子が代々産湯にしてきた大事な水が濁るじゃねえか!」

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