五 再び内藤新宿へ ①
王子稲荷を詣でた二日後、櫻花たちは再び内藤新宿を訪れた。
本日の目的はふたつ。
狐火出現の現場である重宝院を再び検めることと、どうも噂の震源であるように思われる飯盛り旅籠、扇屋の女将から聞き込み調査をすることである。
「時間もないことですし、今回も手分けをしましょう」
真葛の提案により、聞き込みは真葛が、現場調査には櫻花が赴くことになる。
三日ぶりに訪れる重宝院の境内は相変わらず森のなかのようだった。
稲荷の祠の石積みに、前回と変わらず王子稲荷の御札が貼ってある。
櫻花は改めて、前回の聞き込みで耳にした目撃者たちの話を思い起こした。
第一の目撃者であるあぐりが狐火を見たのは、稲荷の境内ではなく本堂の裏手で、三つばかりの燈が連なって斜面を下り、行き止まりのはずはのにスーッと消えてしまったのだという。
第二の目撃者である柏木が見たのは稲荷の境内で、こちらは一つだけで、付近をウロウロと彷徨ったかと思うとこちらも唐突に消えたらしい。
この柏木の見た狐火は、王子稲荷の神狐で間違いないだろう。
しかし、あぐりの見たほうは?
物の怪の仕業か、それとも人間の仕業なのか――
櫻花は考えこみながら本堂の裏手へ回ってみた。
行く手に向かって緩やかに傾ぐ斜面に橡や欅が生えて、下草の茂る地面に疎らな木漏れ日を落としている。
町場のただなかだとはにわかに信じられないような武蔵野の雑木林だ。
狐火はこのあたりに出て、一列に列なって斜面を下っていったらしい。
わんわんとこだまする油蝉の声を聞きながら同じ路を辿ってみる。
するとすぐ視界が開けた。
疎林が終わったのだ。
目の前に燦めく水面がよぎっている。
玉川上水だ。
向かい岸が土手になっている。
あぐりの言う通り、確かに行き止まりだ。
狐火はここで消えたらしい。
そこまで思い起こしたとき、櫻花は唐突に、三日前に水番所の前で目にした光景を思い出した。
番所の前に並んでいた二人の邏卒。
彼らは何のためにいるのだと柏木は言っていた?
「――そうか」
櫻花は思わず呟いていた。
この場所は行き止まりではない――のかもしれない。
そうと思いついた瞬間、頭のなかに散らばっていたバラバラの手がかりが、ゆっくりと結びあって輪郭を描いてゆくのを感じた。
その瞬間、櫻花はいつもの安堵を感じた。
この世にはまだ秩序がある。
因果の糸は間違いなく万象に張り巡らされている。
言葉にするならそんな類の安堵だ。
頭のなかでゆっくりと、隙なく因果の整った仮説を組みたてながら参道を戻ると、ちょうど山門を潜って歩いてくる真葛の姿が見えた。
「あら櫻花どの、ずいぶんお早いこと!」
真葛が笑いながら小走りに駆け寄ってくる。
「首尾はいかがでした?」
「まずまずだ。そちらは?」
訊ねるなり、真葛は不愉快そうに細い眉根を寄せた。
「……どうなされた?」
「あの扇屋のお延って女将、私は好きませんね」
「何を言われたのだ?」
「内々にちょっとお話をって申し出たら、ニヤニヤ笑って『売るのかい? 買うのかい?』って、開口一番こういうんですよ! そりゃ今は芸者めかした拵えですからね、『売るのかい?』は仕方ないとして、『買うのかい』って何です? 私は今まで一度だって役者買いみたいな遊びはしたことはないんです!」
参道の人気のなさをいいことにか、真葛が声を潜めずに憤る。
「ま、真葛どの、まあ落ち着け――」
櫻花は慌てて宥めかけたが、ふと違和感を覚えた。
「――櫻花どの?」
真葛が訝しそうに見上げてくる。
「どうしたんです?」
「や、役者買いみたいな遊びというのは、飯盛り旅籠で仲介するものなんだろうか?」
「さあてね、場合によってはするんじゃありません? 狐火騒ぎの顛末については、あなたがあぐりさんから訊いたのと寸分違いませんでした。先月七日の朝方、あぐりさんがひどく狼狽した様子で駆けこんできて、この重宝院の境内で狐火を見たと言ったのだそうです。お延さんはそれを聞いて、旧幕時代に狐火を見て死んだ芸者がいるという底意地悪い話をしたのだそうです」
「なるほど。――そのお延どのは、あぐりどのが『狐火を見た』と言った――と、証言したのだな?」
「ええ。それが何か?」
「先日、なぜ狐火と思ったのかとあぐりどのに訊ねたら、なぜかは分からないと答えたのだ」
「つまりどういうことです?」
「つまり、推測だが、あぐりどのは実際には『荒れ寺で不思議な火を見た』と告げただけで、それを聞いたお延どのが旧幕時代の狐火の話をしたから、あぐりどのは後から、自分が見たものは狐火だったと思い込んだのかもしれない」
「ああなるほど! それはありそうですわね。で、その話が噂になった結果、誰かが王子稲荷を詣でてこちらの社に御札を貼り、物見高い神狐さまがお出ましになった――と、こういう流れですわね?」
「おそらくは」
「じゃ、次に確かめるべきは、だれが王子稲荷を詣でたかということ?」
「ああ。それからもうひとつ」
「なんですの?」
「旧幕時代に狐火を見て死んだ芸者がいるという話、あれが本当かどうかを確かめるべきだ。昔から内藤新宿に住んでいる町人に訊くのが一番いいのだが」
「ああ、それなら門番の為助さんに訊いてみましょう。王子稲荷を詣でた誰かについては――どこのだれに訊いたらいいのかしら?」
「まずは柏木どのご本人だな」
今後の聞き込みの予定について話し合いながら山門へ向かっていたとき、櫻花はふと、あぐりから聞いた身の上話を思い出した。
「そういえば、あぐりどのは戊辰の戦で連れ合いを亡くしたのだそうだ」
ふと声に出して呟いたとき、前を歩く真葛の肩がわずかに強張るのが分かった。
櫻花はこめかみのあたりに微かな頭痛を感じた。
細い細い針に脳髄を刺されるような痛み――その痛みに促されるように、脳裏に鮮やかな静止画が閃く。
細く開いた障子の隙間から射す鋭く白い陽光。
白い衣に包まれた膝の上できつく組み合わされた華奢な手。
指先が赤らむほどきつく組まれた手の上にホタホタと落ちる涙。
その涙の燦めきを思い出したとき、静止画が動きを取り戻した。
――泣いていたのは真葛どのだ。私はその顔を見あげていた……
「真葛どの――」
「なんです」
真葛が振り返らないまま応えた。
ひどく強張った声だ。
櫻花は一瞬躊躇ってから続けた。
「私は、どうも日光での戦いの前後の記憶を失くしている気がするのだが――」
数秒待っても真葛は否定しなかった。
櫻花は腹を決めて訊ねた。
「私たちも誰かを亡くしているのだろうか? 私たちにとって誰か大切だった人を」
真葛は数秒黙り込んでいたが、じきに足を止め、笑顔を浮かべて振り返りながら答えた。
「いいえ、亡くしていませんよ。私たちにとって大切だった人は、誰も亡くしていません」
その声は優しく哀しげだった。
櫻花は安堵した。
真葛が嘘をついているときは大抵表情で分かる。
彼女の言うことは本当だ。
しかし、それならどうしてこんなにも哀しそうな顔をしているのだろう?
あなたはどうして泣きそうなのだ?
その問いは言葉には出せなかった。




