四 王子の神狐さま ②
霧のために四方が全く見えない。
二、三間先を一列になって、大、中、小、三つの狐火が、奇妙に規則正しく上下に揺れながら前方へと進んでゆく。
櫻花と真葛は手を取り合ってその火の後ろに続いた。
踏み下ろす草鞋の下は軟らかな土のあぜ道だ。
じきに堤の腹を上り、よく踏み固められた広い街道をよぎって、また軟らかい土の路を進む。
そうするうちに足元が唐突に硬くなった。
石畳だ。
すぐ先から石段が始まっている。
ゆら。
ゆら。
ゆら。
三つの狐火が横並びになって、規則正しく上下しながら石段をのぼってゆく。
後に続いて登るにつれて次第に霧が薄れ、登る先に石の鳥居が見え始めた。
――入れ……
頭上から声なき声が促す。
鳥居を潜ると唐突に視界が開けた。
広々と明るい方形の境内だ。
完全に霧が晴れて、前方から射す煌々と明るい月光に白い玉砂利が輝いている。
すぐ前で白狐が前足を揃え、ふさふさとした尾をこちらに向けて坐っている。
疾風である。
境内の正面に大きな社が建っている。
目に眩い白い切妻破風の上に、異様なまでに大きな満月がかかっている。
その社の長い濡れ縁に、真っ白な狩衣姿で黒い立烏帽子をかぶった、王朝絵巻の貴公子みたいな人物が腰掛けていた。
左右に揃いの薄水色の水干姿で黒髪を結った童子が控えている。
「来たか、真葛に櫻花」
白い狩衣の人物がすらりと立ち上がって近づいてきた。
息を呑むほど美しい白皙の細面は男とも女ともつかない。
「お久しゅうございます、神狐さま」
真葛が疾風の隣で跪いて恭しく頭を低める。
櫻花も慌てて倣った。
狩衣の存在――王子稲荷を斎庭とする神狐は無造作に頷くと、人間にしては長すぎる舌でペロリと舌なめずりをしながら二人の手元の風呂敷包を見やった。
「してその手のものは?」
「お約束の供物でございます。どうぞご存分に」
真葛が自分の風呂敷包を解きながら目だけで櫻花を促す。
二人が包みを解いて重箱の蓋を開けるなり、神狐は満足そうにケッケッケっと笑い、小ぶりな稲荷ずしを三つばかりも一気に掴んで、クワッと口を開いて貪り食った。
「神狐さま―ー」
真葛が嫌そうに呼ぶ。
「なんだ?」
「そのような召し上がり方をなさるならお狐のお姿に戻られては? なにゆえ人のお姿をとられます」
「そなたらにはこのほうが目に喜ばしかろう?」
自らの人容の美貌に絶大の自信をもつ神狐は心底不思議そうに言い、人間にしては長く黒すぎる舌で、口の周りにこびりついた米粒を器用にベロっとなめとった。
「旨いのう!」
「光栄です」
真葛が心底嫌そうに目を逸らしながら答える。
神狐は上機嫌でまたも稲荷ずしをわしづかみにしながら、ようやく思い出したかのように訊ねてきた。
「して何用だ?」
「じつは伺いたいことがございまして」
「なんだ」
「内藤新宿の重宝院という寺の境内にある稲荷についてです」と、真葛は単刀直入に切り出した。「神狐さま、近頃そちらの境内にご顕現になりました?」
「内藤新宿の重宝院――?」
神狐は稲荷ずしを掴んだ両手を中空で止めてしばらく考えこんでから、
「おう。行ったぞ」
と、認めた。
「それは、何のために?」
「むろん見回りよ」と、神狐は寿司を頬張りながら答えた。「あのあたりに人に悪さする野狐が出るからどうにかしてくれと祈る者があった故な。この※※※の縄張で人に悪さするとはけしからんと思うて一度行ってみた」
「――一度、でござりますか?」
櫻花は思わず口を挟んだ。
「おう。櫻花よ、お前の供物は童子どもにやってくれ」
神狐は無造作に答え、掴むのが面倒になったのか、ぶるりと体を震わせたかと思うと、本性である大きな銀色の狐の姿に戻って、複数ある尻尾をふさふさと振りながら、重箱に鼻面を突っ込んで稲荷ずしを貪り食い始めた。
縁の前に並んだ一対の童子が瞬きのない目でじっとこちらを見つめている。
櫻花が慌てて重箱の蓋をとって二段の箱を地面に並べるなり、一対の赤茶の子狐に戻って一目散に駆け寄ってくる。
がつがつと寿司をむさぼる子狐二匹の背中を無意識に撫でながら、櫻花は真葛と顔を見合わせた。
「櫻花どの――」
「なんだ?」
「柏木さんのお話では、あの荒れ寺に狐火が出たのは二回のはずですわよね?」
「ああ。一度目は先月六日にあぐりどのが見た狐火。二度目が十三日に柏木どのが見た狐火だ」
「でも、こちらの神狐さまは一度しか行っていらっしゃらない。そうなると、どういうことなんでしょう?」
「可能性は二つだ」
櫻花は慎重に答えた。
「神狐さまは祈る者があったから赴かれたと仰せだ。つまり、一度目の狐火騒動のあとで誰かがこの王子稲荷を詣でて訴えごとをしたということだ」
「あぐりさん?」
「や、あぐりどのはそのような話はしていなかった」
「じゃあ柏木さん?」
「誰かは改めて聞き込みをしよう。ともあれ、誰かがこちらを詣で、その誰かが重宝院の荒れ稲荷にこちらの御札を貼ったのだろう。結果、神狐さまが様子見に行かれることになった。十三日に柏木どのが見た狐火は十中八九そのときのものだろう」
「では、六日にあぐりさんが見たのは?」
「だから、可能性は二つだ。ひとつは全く別の化け狐によるもの」
「もうひとつは?」
真葛が期待を込めて促す。
いつのまにか重箱の稲荷ずしを食べ尽くしていた神狐までが、鮮やかに澄んだ青い目でじっと見つめてくる。
人の姿をとっているときよりはるかに神々しい姿だ。
櫻花は諦めて続けた。
「人間によるものかもしれません」




