四 王子の神狐さま ①
翌日の暮れ六つ《*午後6時ごろ》――
櫻花と真葛は日光街道沿いの馴染みの旅籠、桔梗屋を後にして、薄暮のなかを王子村へと向かおうとしていた。
本日の二人の服装は白い小袖に紗の千早、緋色の切袴という仰々しい巫女装束で、どちらも深紫の縮緬の大きな風呂敷包を携えている。
このあたりは東京府の外れも外れだ。
桔梗屋のある飛鳥山の南東麓はそれでも町場めいているが、音無川に架かる橋を渡って王子村に入ると途端に鄙びてくる。
黄昏時、青々と茂る水田のあいだを伸びる堤めいた道を白と緋の巫女装束の美女二人が黙々と歩くさまをもし目にする者があったら、間違いなく狐に化かされているのだと怯えたことだろう。
二人にとって幸いなことに暮時の田圃に人影はなかった。
左手に盛り上がる丘陵からしきりに響いていた蝉の声がついに止み、薄暗がりの空の下、そこここから牛蛙が鳴き始めるころ、ようやく右手のあぜ道の向こうに目指す道標の影が見えた。
漠々と広がる沼みたいな水田のなかに一本だけ突き出す榎の巨木だ。
左手の丘の稜線から射すおぼろな赤い入日を受けて足元に長い影を伸ばしている。
畔から少しだけ高い位置に立つ巨木の幹にはまだ新しい注連縄が掛けられていた。
「装束榎は今もきちんと拝まれているようですわね」
真葛が愛おしそうに呟き、榎の前で軽く手を打ち合わせてから、おもむろに跪いて荷物を地面に下ろすと、風呂敷を解いて、三段重ねの重箱の上に重ねて包んであった飴色の竹筒を取り出した。
「疾風、顕れなさい。人には見えない姿で」
真葛が筒の栓を抜きながら呼ばわるなり、口から白い煙が吹きだし、櫻花の目にだけは見える白狐の姿になった。
真葛が重箱の蓋を開け、中にぎっしりと詰めてある稲荷ずしをひとつ取り出す。
「こちらを神狐さまに。たっぷりと供物を調えてありますゆえ、斎庭にお招きくだされとお伝えなさい」
――承知した……
脳裏に声なき声が響いたかと思うと、半ば透き通った白狐は稲荷ずしをパクリと加え、名の通り一陣の疾風のように水田の上を西へと走っていった。
「ところで櫻花どの――」
疾風の巻き起こす風が完全に遠ざかるのを待ってから、真葛が興味深そうに訊ねてくる。
「あなたの今のご見解は?」
「?」
もうひとつの風呂敷包を抱えたまま櫻花は首を傾げた。
「何についての?」
「だ・か・ら!」と、真葛が焦れたように声をあげる。「王子の神狐さまが何を思って内藤新宿の荒れ寺に顕現なさっているのかってことですよ。あの場所が斎庭になっているのは御札のためです。誰かがあの御札を貼ったってことです。誰が一体なんのために? 櫻花どのの今のところの推理は?」
真葛が好奇心一杯の猫みたいに訊ねてくる。
櫻花は眉をよせた。
「今はまだ何とも言えんな。手がかりが少なすぎる」
二人が話しているあいだにも日が暮れようとしていた。
西側の王子権現の丘の向こうにとっぷりと入日が隠れ、青黒い薄暮が空を覆い尽くすころ、不意に四方の水田の面から柔らかな白い霧が立ち昇ってきた。
「あら」
真葛が小首を傾げる。
「お出迎えかしら?」
霧はすさまじい速さで濃度を増して榎の生える微高地の周りをひたひたと覆っていった。
さながら潮が満ちるように――
やがて乳のように濃い霧が四方を完全に覆い尽くした。
あれほど耳障りだったはずの牛蛙の声もいつのまにか止んでいる。
櫻花は寒気を感じた。
そのとき、左手の霧の最中にぽつりと赤い燈が灯ったかと思うと、二つ、三つと数を増やしてこちらへ近づいてきた。
――従いて来い……
――※※※のお召しだ……
頭の中に声なき声が響く。
櫻花と真葛は顔を見合わせると、どちらからともなく手を握りあい、ゆらゆらと蠢く三つの燈のあとに従って霧のなかを歩き始めた。




