理幻鏡想 10
来客の対応で部屋を出て、扉が閉められ、階段を下りていく音が聞こえた。
視線を外から下へ落としてゆく。
真横から差していた日の光は窓の淵を境に、彼女のそばに影と明かりの境界線を作っていた。
それを呆然と眺めながら、ゆっくりとその明りに指先を伸ばして行くも、寸前で止まり、その手を再び引っ込めてしまう。
今日は外に出ないの?
゛しゅるり゛と部屋の中を這い回る白い影が声、と言うよりも彼女に直接問うた。だが、魂が抜けたように佇む彼女は、その問いに応答しない。
今日は走らないの?
その無邪気そうな声で無神経としか思えない問いをするも、やはり彼女は反応を示さない。
どうして聞こえないふりをして、無視するんだい?せっかく君が望んだとおり、速く走れるように手助けしてあげたというのに…。
寂しげに言いながら、すねた様に尻尾らしきもので゛ぴたん、ぴたん゛と彼女のその手を叩く。
もう、走れないもの。
ようやく競が問に答え、それが白い影は嬉しかったのか尻尾で叩くのをやめ、先でくるりと円を描き始める。
どうして?
どうしてって…動かない…感覚のないこの足じゃ走る事も、起き上がって立つことすらできないわ。
ふ〜ん…どうして?
同じ問いに競は怒りを込み上げることは無い。
それは恐らく、悪意を感じられないのもあるが、それが人では無いと思う
故に、話が上手く通じないと諦めているからだろう。
私のせい。私が違和感を感じていたのにも関わらず、走ったから。
でも、好調だったんだろう?
それは…ええ。たぶん…貴方のおかげで。
なら、僕のせいなのかな?
誰もそんな事は言っていない。私が…私がきっと…気を抜いて、調子に乗ってしまったから…。
何故、君のせいになるんだい?
…なら、私でも貴方でも無いのであれば一体、何のせいだと言うの?
そんなの決まってる。君のその足だよ。
私の…足?
そう、君がこれまで積上げてきた本来の実力に答えられなかった、着いてこられず耐えられなかった、だから壊れてしまった。
…結局それは…私の鍛錬不足に過ぎないんじゃ…。
いや、君は本来、二年前からあの速度、感覚で走れていたはずだよ。
二年前から…あの走りを…?
そう、君はずっと成長しているというのにその足は、自ら限界を見定め成長を停滞しようとしているのだよ。
…何故?
何故か…。それは人それぞれの肉体に定められた技量、許容値を迎えたからさ。
許容値…?
ああ、だから君に責任などなく。悪いのはその足なのさ。
私の足…この足が…。
まだ、話をしっかりとは飲み込めていない様に、行き場のない力で布団を握り、足をじっと見つめる。
そういえば君に一つ聞いておきたかったんだが。君は何故、走るんだい?
それは…走るのが楽しいから…。
楽しいからか…それはいいことだね。他には無いのかい?
走ると心地よく、一番風を良く感じられて…それでいて…何よりも自由に感じられるから…。
自由…ね…。
楽しそうに語るその言葉に、含みのある返しをされて、少し戸惑いながら白い影をゆっくりと見る。
それはやはり、人では無かった。
定められた日。定められた場所。定められた時間。定められたルール。定められた順番。定められた距離。定められたタイミング。そして他者…第三者から定められる評定。一体…これの何処に、君の言う自由があるんだい?
それは…だってそれはずっと前から決まってる事で…みんな同じだし…。
そうだね。確かにそうだ。なら、信頼、期待、利用、価値等の数多の重責という枷をしている君のどこに自由があると言えるんだい?
それは…。
思い当たる節、自覚はあったようで、返す言葉などないように俯く。
まぁ、そんな事は今はどうでもいいよ。それよりも君に問いたい。
何…?
もし、君が本物の自由を望み、そして僕のお願いを一つ聞いてくれるというのであれば、直ぐに足が使えるように…君が望むように走れるように手助けしてあげるよ。
————!?
余りにも現実味の無い、その提案に驚きを隠せず、まるで再び息を吹き返したように大きく心臓の音が鳴り響いて聞こえた。
この…足はまだ…動くの…?
うん。
立てる…歩けるの…?
うん。
走れるの…?
もちろん。
本当に…?その言葉を…信じていいの…?
本当だよ。何に誓ってもいい。
夢じゃ…ないよね…。
ああ。ゲンジツだよ。
その言葉を聞き、彼女の死んでいた目に光が戻り、涙がこぼれる。
それを拭うも、拭うも溢れて漏れてしまう。
だけどこれは、一つの契約だから。
契…約…?
そう、だから今一度君に問う。本物の自由を望み、僕の願いを一つやってくれるかい?
もう諦めていた。両足を切除することさえ、ほとんど寝たきりの人生を送る事さえ、覚悟していた。だけど私はまた、自分の足で立って…歩いて…そして、自由に走れるんだ…。それならそんな契約なんて安い筈だ。
…うん。私は自由を望んで…貴方の願いをやってあげる。だからお願い…私をもう一度…走らせて。
その言葉を聞いて、白い影は不気味に微笑む。
なら、早速立ってみようか。
立ってみようかって言われても…。
まぁまぁ。取り敢えず目を閉じて、落ち着きなよ。
目を閉じて…落ち着く…。そう聞いて深呼吸を行う。
想像してごらん。千切れた足の筋肉が、幼い頃に粘土を捏ねた時の様にほぐされながら、くっついていく様子を。体内を循環する血液の流れを深く意識して。手を胸に、徐々に下へ…お腹から足へと、なぞってごらん。
そしてゆっくりと、少しずつ思い出してごらん、足が動いてた頃の感覚を。
そうしたら感じてくるはずじゃないかな?冷えきったその足が暖かくなる感覚が。
言われた通りに手を動かしながら、それを想像していると、確かに足へと、血液が…暖かい何が流れているのが明確に感じ取れた。
「あれ…」
そう、目を開き気がついた時には、自身のその足でいつの間にか立っていた。
地に足が着いている、足に体重がのしかかる、地球の中心に引っ張られているという感覚が、いつも通りの足の感覚が確かに感じ取れた。
だけど、いつも通りの足じゃまたすぐに壊れてしまう。だから、君が思う理想の足を想像してごらん。
理想の…足?
そう。自由に想像するのは全てのモノに与えられたものだ。現実に囚われる必要なんてない。
もう…二度と壊れたりしない…丈夫な足。
うん。うん。
それでいて、羽のように軽く…そして何よりも速く。速く走れる足。
そうそう。それでいいよ。
すると、見た目はただのいつも通りの足なのだが、何か足に変化があるのが感じ取れた。
それじゃあ、さっそく踏み出してみようか。
踏み出すって…?
そう尋ねると、目の前にある窓が独りでに開かれる。
その不思議な事に疑問を浮かべるも、足が自分の意思など無視して勝手に前へと歩み始める。
「えっ…えっええ…」
大丈夫。大丈夫だよ。心配する必要なんてない。なんたって君は、今から自由になるのだから。
窓の縁を踏み台に、窓から飛び出す。
傍から見れば、それは飛び降りであり、また足を怪我する。痛い思いをする。と咄嗟に目を瞑ったが、一向に地面に叩きつけられる感覚は無い。
寧ろ先に足先が地面に優しく着いた。
その不思議な感触に目をゆっくりと開くと、その状況をなんとなく理解していく。
空中に足が着いてる…浮いている…?いや、徐々に沈んでるから浮いているわけじゃない。
試しに左足を歩くように前に出す。すると、確かに何も無い空中なのだが、足場を感じる。確かに空中を踏んでいた。
「なに、これ…夢?」
さっきから言ってるだろう。これはちゃんと、ゲンジツだって。
いつの間にか体に巻き付き顔の横にいる、白い影を一度見て、直ぐに海の方を向いて、彼女は歩き進む。
一歩、一歩と歩き進み。次第足は速く。そして彼女は空中を駆け走り出した。
「あは。あはははは」
それは公園を駆け回る、無邪気な子供のように笑いながらとても楽しそうに、ただ真っ直ぐに走り続けた。そして何か思いついたのか、両足ジャンプで空中をから海へと飛び降りる。高いところからの落下により水しぶきが高く上がり、彼女は沈むかと思えたが、彼女は水面上に立っていた。
そして、まるで水溜まりで、はしゃぐようにバシャバシャと足踏みして、次は海面上を駆け走りだす。
潮の香り。潮の風。海水の水しぶきが肌に当たる度に、冷たく、濡れる感触が確かに感じる。だけど濡れた髪も、透けた服も、全く重くない。濡れている事に不快感を全く感じない。うそ。凄い。凄い。なにこれ。なにこれ。ただ、ただ、今が何よりも楽しい。
彼女は走り飛び込み海面上に大の字に寝転がる。呼吸が荒いが全く苦しく無い。無我夢中に沢山走ったと言うのに、疲労感も全く無い。最高に心地よく、目を突き刺す太陽の光も、眩しく感じ無い。
「あはは。あははは」
さて、満足できたかい?
「それはもちろん」
それじゃあ。僕のお願いを聞いてくれるかな?
「ええ。それで私は一体何をすればいいの?でも、難しいことはできるか分からないし…悪い事は余りにしたくないよ」
もちろん悪い事じゃないよ。難しくもない。互いに望み望む事をするだけだから。だから君はただ、その力を上手く使えばいいだけだよ。
そういう事なら…うん。わかった。
ありがとう。
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両手に重そうな段ボールを抱える梓麻と鳶鷹、唯一の三人は、人通りの少ない狭い通路を通り、段ボールが棚に敷き詰められたその部屋へと運び、棚の空いた空間に敷き詰め重ねていく。
「ふぅ…やっと終わった」
「今日は少し大変…だったね」
「そうね…まぁほとんどがアイツのせいなのだけれど」
そう、梓麻の視線の先にあるのは、いつものような元気が微塵も感じられない、この世のおりのような鳶鷹が、壁にもたれかかっていた。
「さっきまでは、いつも通りうるさく元気だったのに、一体何があったの?」
「えっと…それがその…さっき少し別れて手伝いしてた時に千和々さんが来て…この前のテストの結果がかなり悪かったらしく…このままだと夏休みは補習漬けになるかもって…」
「なるほどね。そんなの今まで真面目に勉強してこなかったあいつが悪いだけ。自業自得じゃない」
「ま、まぁ…元気だして…。いつも見たいに僕が分からないところ教えてあげるから」
それを聞いて這い寄りながら唯一の足にしがみつき。梓麻はその様子に若干引き気味に見る。
「うぅ唯一ぃ〜おおきになぁ〜」
「あんた達、毎回そうなの?」
「う、う〜ん。中学二年の後半…からかな。ほら、あの辺から勉強難しくなるし…」
「テストなんてちゃんと授業受けてたら点数取れるでしょ普通」
「天才のお前はそうかもしれんが、皆が皆お前の普通じゃあないねんぞ」
そう、唯一を盾にするように隠れて声を上げる。
「…じゃないわよ」
「ん?なんか言うたか…」
ボソッと呟く彼女の言葉が聞き取れずに、もう一度聞くのだが、キッと強い視線で睨みつけられ、再び唯一の足の影に隠れる。
「まぁ、いいわ。私もテスト期間中はあんた達二人の勉強見てあげるわよ」
「えっいいの?」「いいんか?」
「そのくらい、やってあげるわよ」
「やったぁ…実は僕もあまり自信なかったから…」「これで補習も追試を回避出来る。夏休みを満喫できそうや」
まぁ、これで一つ借りを作れるし、どうせ夏休みも歩地の手伝いがあって、補習や追試で人手が減るのは避けたいから。と言うのは口に出さずに心の中で留めておく。
「いやぁ〜三人ともお疲れ様です。歩地さん頼って良かった。本当に助かりました。これ、今回の分です」
そう渡された封筒の中には、六千円が入っていた。
「緊急で来てもらったから、少し色つけといたよ」
今回の仕事と言うのは、事務所で特にやる事も無いからと歩地が周辺で人手が欲しそうなところに声をかけ、ちょうど急に欠勤になり、人手が足りなくなった駅の仕事の手伝いをする事となった。
と言ってもそんなに難しい事ではなく、敷地内の掃除や物運びと単純なのばかりで、十二時過ぎから始まって十七時には仕事を終えてしまった。
因みに赤華は外に出られないため、事務所で掃除や片付けをしているらしい。これも、何やら運ぶ場所やらが決まってるらしく赤華以外に任せられないとの事だった。
「本当に今日はありがとうね。また今度あったら頼むかもしれないから。その時もよろしくね」
「こちらも貴重な体験ができて良かったです。歩地にも伝えておきます」
「あ、ありがとうございました」
「おおきになぁ」
お世話になった駅員に別れを済ませて、駅の正面にある大通りを通りながら歩地の事務所へと向かい、歩いていく。
その大通りは理鏡のいるビルがある通りであり、土日の二日休日というのもあって、行列はかなり長くなっており最奥のビルを曲がった先にも続くようでここからでは最後尾は見えないほどのものとなっていた。
「相変わらず、すごい行列やんな」
「そうね。近くに止められている車。近隣に県外からも来てるみたいね」
「すごいなぁ…。あ、あれ」
そう声を上げて唯一の見る視線の先を見る。
そこには前後に並ぶ人からチラチラと見られながら、陰口を話されていると分かる、かなり窶れた様子の見覚えのある一人の女性が並んでいた。
「雪ちゃんママ。ここまで来たんか」
雪ちゃんママ。それは二年ほど前、全国放送された大きな報道番組の生放送。理鏡様の体験をした人への直接インタビューというもので彼女がそれを受けたのだ。
彼女が会いに来たというのが実の娘だという雪ちゃんであり、話の内容からその子は三年前の失踪事件に関係しているのが分かる。更には娘を探しに出た夫も続いて行方不明になったと。
そして彼女はその話をしている途中で精神が崩れ、失神して倒れるという放送事故を起こし、暫く有名になった。
これは噂で、雪ちゃんママは理鏡様のこれに全国関係なく駆け付けているらしい。
まあ、これを見れば噂は本当なのだろう。そうするともう一つの謎が語られてしまう納得がいく。
移動費や利用料を考えると果てしないもので、一体何処からお金を調達しているのかも大きな謎だ。だからその事で都市伝説風に様々な事が語られていたりする。
そう、彼女に視線が向けられていたが、梓麻はもう一人、窶れた人物に目が留まった。が、少し見て歩き出す。
「あんまり、じろじろ見るのも失礼よ。早く帰りましょ」
「そ、そうだね」
「それも、そうやな。いや~それにしても腹減ったなぁ」
「そうだね。もう、そろそろ夜ご飯の時間だもんね」
「せっかくお金貰ったことやし。何か買い食いしてから帰るか?」
「で、でも。夜ご飯...大丈夫かな」
「大丈夫。大丈夫。食べ盛りのお年頃なんやからな。食べきれるやろ」
「…ついでにお惣菜でも買ったら、赤華の手間も多少は省けるんじゃないかしら」
「それや。それにしても今晩は何作ってくれるんやろか。毎晩楽しみなんよな」
「いつもとても美味しいの作ってくれからね」
「まぁとりあえず何買ってこか。商店街は色々あるからな迷うな」
「明日は休みなのだからゆっくり選べばいいじゃない。時間はあるのだから」
「やな。とりあえず裏側の入口から見て回ろか」
とりあえず行く道が決まり、その場所へと向かおうとした。その瞬間。
————————!
何かが爆発したような巨大な爆音と鳴り響き、地面が大きく揺れ、多くの悲鳴の声が聞こえてくる。
突然の巨大な揺れに近くにあるものや地面に手を着くように身を低くして、揺れが収まるの待つ。その揺れは五秒もせずにすぐに収まった。
一体何が…。そう状況整理をしようと顔を上げると、横にいた鳶鷹が何も言わずに悲鳴の聞えた方へ駆け付けて行った。
そしてそれを見て直ぐに状況を理解した。
理鏡の催しが行われているビルの三階のあたりに大きな穴が開いていた。それはまるで隕石が落ちてきたと思わせるモノだ。
それによる衝撃に、周囲一帯の窓ガラスが割れ、崩れた瓦礫と一緒に行列の出来ていたあの場所に落下したようだ。
「いたい!いたいよぉ!」「誰かぁ!誰か早く助けて!」「きゅ、救急車を!早く!早く呼べ!」
理解のできない突如のその出来事に、混乱し、苦痛や恐怖に沢山の悲鳴、泣き叫ぶ声が聞こえてくる。
何が起こったかは、全く分からないけど、そんな考え事するより今は————。
そう、鳶鷹に続いて被害のあったその場へと駆け付ける。
現場の状況は脳に浮かべ想像していた、それよりもかなりひどい惨状だった。
固唾を飲みながら一帯の状況を確認する。
顔面や体ににガラスが突き刺さった人々、瓦礫の下敷きになり脚や腕、横腹が抉れており、動かない人の横で泣き、無表情でそれをさする人の姿が。
「—————ま!梓麻!」
呆然と立ち尽くしていた梓麻に、鳶鷹が強く呼びかけ、ハッと気が付く。
鳶鷹は脚を下敷きにしているその瓦礫をどかそうとしていた。
「こっち手伝ってくれ」
「わ、わかったわ」
「せーのでいくで」
「ええ」
「せーの!」
瓦礫は歪な形をしているために、動くたびに下敷きにしている脚をゴリゴリと削る様になってしまい、苦痛の叫び声が脳に強く響く。
やっとのことでその瓦礫をどかすことができたが、想像以上の苦痛にその人は気絶したのだが、出血が止まらないでいた。
直ぐに鞄の中にあるポーチからハサミを取り出し、服の端から切り取りそれで縛り強く押さえつけることで止血の処理をした。
出来としてはまだまだ酷いものだが、何もしないよりかはましだろう。
その処理をしている間にも鳶鷹は次の被害者の元へ、唯一もその手伝いをしていた。
私も何かしないと。
そう立ち上がろうとした瞬間。
再び大きな音が聞こえた。
だが、それは先の物に比べればかなり小さなもので、壁に何かが激突したものだと分かる。
再度。同じ音が同じ場所から次は連続して聞こえた。。
その音の先は、何かが落ちたそのビルの内部。
そして、また大きな音が鳴ると同時に、あの大穴から修道服ではない、スーツ姿の男が飛び出し、向かいのビルの壁に激突し地面に生々しい音をさせながら叩きつけられ、ぐったりとする。
それが、何者かによる。仕業であるというのは一目瞭然であり、重々しい足音の聞こえくる、大穴に視線が集まり、それは姿を現した。
何…あれ…。
人…。いや人であるのかもハッキリとはわからない。全身を真っ黒なローブのような、物体ではない…霧…靄の様なものを纏う人型に近い何かが、その場に立っていた。
すると強い風が吹いたからか、そのローブの様なモノがなびき、一部、姿を覗かせた。
人とは全く思えない、馬か何かの様に面長で、丸太のような太ももから伸びる足が見えた。
そしてその何かの脇には理鏡らしきで人物が抱えられていた。
真っ黒な何かは、こちらなど興味ない、見向きもせずに上を見上げ、重々しい足音と共に一飛びで軽々と正面にあるビルの屋上を超え、どこかへと去って行った。
すると、空の色が一変する。
まるで空に使用した水彩の筆の雫を落としたように、滲み徐々に赤い赤夜の空となる。
そして制止していた時が再び動き出す。だが、痛みなどとうに忘れたのか、皆が湧き上げるそれは、異様な赤い空、異形を見たという、未知の現象に対する恐怖。
「な、なんだあれ」「今のなに?」「知るかよ」「天変地異。この世の終わりか訪れたのか?」「あはは。どこかから生み出された人工生物が逃げ出したんだ…」「ああ、ああああ」と混乱する。
しかも、その混乱は少し異常でその場にいる皆が自身の顔や頭、両肩を掻き毟り、頭を壁や地面に叩き付け始め、それが全く加減されておらず、傷つきそして血肉を抉り出血し始めた。
「ちょっと…何してんのあんた達」
「お、落ち着けみんな」
「えっえっええ」
その状況に驚きながら、制止させようとする二人と、理解できずに呆然と見ていた。
だが、どれだけ制止させようとするのだが、振り払うように暴れられ突き飛ばされてしまう。
「梓麻!大丈夫か」
「ええ。私は大丈夫…」
制止させることで刺激してしまったようで、さらに自傷激しくなってしまう。
「…やから、落ち着けって」
動けないように羽交い絞めにして無理やり自傷できないようにするも、それに抵抗するように暴れる。二人が同じようにしても、止められるのは三人。それに対して混乱し自傷しているのは軽く五十以上いる人達。
どう考えても人手不足。
魔術を使う?だけど、これを解決させられるものなんて…。即席でやるにしても、たぶん間に合わないし、正常に働くかも分からない。どうすれば…。
様々な考えを浮かべるも、今の自身では解決しきれない、どうしようもない。そう、最低限の犠牲にとどめなくてはと動き始めようとした時。
横から灰色の薄い煙が漂い。何か甘い香りがするのに気が付いた。
すると、自傷者達が少しすこしずつ大人しくなっていき、そして眠るように次々と倒れていった。
「な、なんや。急に大人しく…」
「これは…」
「眠らせただけだ」
そう、声のする方を見ると、煙草を吸いながら歩いてくる歩地の姿があった。
この規模の混乱を鎮静に睡眠。それだけでなく、人払いに見た事のない医療魔術で後遺症になり得る大きな怪我を治療に止血の応急処置。そして煙を人型に…人を担げるほどの物質化…やっぱりこの人…。
「緊急事態だ。ここは僕が処理しておくから三人は事務所に向かってくれ。後のことは千和々に伝えてある」
「お、おう」
「は、はい」
「…わかったわ」
そう、三人が走って行く姿を見送り、赤く染まった空を眺め、ため息を吐く。
「全く…面倒ごと起こしてくれたな…」




