理幻鏡想 9
「誠に申し訳ございませんでした。娘さんを私に任せていただいたにも拘らず…この様な事に…」
夕暮れ時。病院の近くにある駐車場で、男が頭を地面にこすりつけるように土下座していた。
「そんな…。風道さん。頭をあげて下さいな」
初めて見た、男の本気の土下座に、どうしていいかわからず、父親はあわあわとしだす。
「ですが…」
「ですがではありません。頭を上げて下さい。風道さん」
その声に顔をゆっくりと上げると、競を車に乗せて様子を見ていた母親がこちらへと向かって歩いていた。その彼女の様子は普段の様子からは到底思いもしない、まるで老舗旅館の女将のような凛とした風貌、只ならぬ雰囲気を纏っていた。
「今回のことはあの子が積み重ねてきた朝の余分な練習。それを良かれと、ただ応援し見てきた私達に責任があるのですから」
「いえ、そんなことは。私が、私がしっかり…」
否定しようとするも、母親のその顔を見み口がとめられる。
「今日はもう遅いのでよしましょう。早くあの子を落ち着いた場所で休ませてあげたいので。ですから、風道さんも早く休む為にお帰り下さい」
「は、はい。分かりました」
「それと」
「なんでしょうか」
「しばらくの間…いえ、こちらから連絡しない限り、娘には会いに来ないでください。今の貴女を娘に会わせる訳にはいきませんから」
「はい…分かりました」
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帰路を辿り車を走らせるのだが、頭の中では同じことが何度もループされて再生されていた。
「ん~こりゃひどいね」
レントゲン写真を眺めながら医者が呟いた。
診断室には風道と放心状態の競の他に駆け付けた競の両親が彼女の傍についていた。
不安そうにする皆の様子を見て、医師は少し悩み考えて口を開く。
「まあ、結果から言わせてもらうと。たぶん…疲労骨折と肉離れなんだけどねぇ…」
「た、たぶんって何ですか?」
自信もなくも、何か言いたげな、その医師の口ぶりに父親が問う。
「筋断裂。まあ肉離れね。スポーツなどで急に強い力、無理な力がかかった時に、筋肉が耐えられずに筋線維が損傷、裂けたり破れたりして断裂することで、主にふくらはぎに起こりやすい症状なんだけど…」
何か言い難いことなのだろうか、口篭り私達を一通り見た後に、また一度競の方を見る。
「まぁ、聞くだけより、見てもらった方がわかりやすいかな」
医師は、奥の部屋から二枚のレントゲン写真を取り出して隣に貼り付けていく。
「何を基準として一般と決まっている訳では無いが、これらが私がよく見る肉離れの写真だよ」
そう、三つの写真を見比べる事によって、事の重大さを理解出来た。
「肉離れにも三段階あってこの白く大きなのがそれ症状ね。それで一型は出血所見が特徴である軽症型。二型は肉離れの典型例で、筋腱移行部、腱膜の損傷が特徴の中等症型で、一、二箇所が見た通りこのくらい、ぱっくりいく程度。そして三型が腱性部の断裂や筋腱付着部での裂離損傷といった重症型でこんな感じに白い中に黒いの空いてるのが断裂している所だよ。
ここまで説明して、その子のこれを口を濁さず言うならば、異常中の異常としか言いようがないかな。
私もそれなりにこの世界で長い事やらせていただいているのだが、これは、今までに見たことが無い、いや、前例が無い程に酷いものだよ。そう、まるでナイフで何度も刺しては抜いてを繰り返された様にしか見えない」
医師の言ってる事は最もで、ナイフという例えは物騒で悪く聞こえるが、まだマシな例えだと思えた。
競のレントゲンに映し出されたそのふくらはぎは、ほぼ真っ白に染まっており、幾つもの断裂と見られる黒い空間が見られた。その空間...傷口は、まるで刃がガタガタに欠けたノコギリのような刃で刺された様に、歪な形をしていた。
「そ、それで…その、この子は大丈夫なのでしょうか」
しばらく続いた沈黙の中、不安そうに競の父親が医師に聞く。
「そうだねぇ。三型の肉離れであれば、安く見積ってもスポーツ復帰に六ヶ月以上、手術療法でも最低四ヶ月程度は必要だね」
いくらひどい肉離れでも、治る可能性がある。「なら…」
「自分の体の事は、他の誰よりも自身が知っている」
「へ?」
「その子は既に気がついているんだろうね」
「先生…一体何を言って…」
「既にその足が、使いモノにならないと言うことを」
「あんた、なんて事を言って」
「貴方…落ち着いて」
失礼な物言いに今にもつかみかかりそうになった父親のそれ隣に座る母親の手に制止させられ、我慢して座り込む。
「そのままの意味だよ。残念だが、貴方達が望んでいるであろうスポーツ復帰は…断言していい。無理だよ。諦めた方がいい」
そう、立ち上がり例として貼った二枚のレントゲン写真を外し、机の上に置いてあった別のレントゲン写真を貼り出す。それは形を見るにふくらはぎではなく、別の部位。足先から足首。膝上から足の付け根のレントゲン写真だった。
「縫工筋、内転筋群、大腿四頭筋、ハムストリングス、下腿三頭筋、膝蓋靭帯、足底筋膜。足にある筋肉の九割以上の断裂。これは到底耐え難い痛みがある筈なのだが、彼女はそれに耐えている様子が無い。それは恐らく足にある神経の殆どが一緒に断裂して、既に足の感覚が無くなっているんじゃないかな」
「もし、そうだったとしたら…」
「先ほども言った通り私も、この規模の症状は聞くのも見るのも初めてだから、憶測でしか言えないが、高確率で壊死を引き起こすだろう。つまり今貴方に伝えるのは、走るどうこうよりも、彼女は今現在、生命の危機に関っているという事を」
コンッコン。
車の窓をノックする音に気が付き、その方を見ると二人の警察官が覗き見ていた。それにハッとして、前方を見ると数人の警察官が交通整備をしていた。
その状況から少し、いや、どれくらいか分からないほど呆然と考え事をして停車していたせいで渋滞を作ってしまったのが分かった。
急いで窓を下ろし返事をして対応する。
警察官の人達に心配されながらも、一応という事で車を移動させて軽い持ち物や飲酒、薬物検査が行われた。
何も異常は無かったが救急車を呼ぶか対応を丁重に断り、解放された。
早く帰ろうと思ったが、できてしまった長い渋滞を見てしばらくは動けそうにないと思い、視線を落として自身の脚を見る。
まだ、足が壊死したと決まったわけではない。ちゃんと治療すれば切除しなくてもいい。ちゃんと生活はできる。生きていける。そう先生も言っていた。だけど、何一つそれらの言葉がいいモノとは取れなかった。ただ、今あるのは後悔だけ。あの時、違和感を感じて直ぐに彼女を止められなかったという、最大の後悔。なぜ、私は…俺は、あの時…止めなかったのか。それは過去に自分自身が体感し、後悔したことだろうが。くそっ!
そう、こみ上げるそれを振り上げた右拳で自身の足に叩きつける。
これから俺は一体…。
そう途方に暮れて、俯いているとドアのポケットに入れていた携帯電話が着信音を鳴らして震える。
少し時間を開けて手に取り、電話に出る。
「もしもし」
『お、繋がった繋がった』
「双徹か…何か用か?」
『いや、お前がいつもこのくらいの時間に仕事は無いか?って電話かけてくるのに掛かってこなかったからな。何かあったんじゃないかと思って心配しての事だったが…どうやら本当に、何かあったようだな』
「…」
『遠方だからな…。今直ぐに何かしてやれる訳ではないが、取り敢えず話しくらいは聞いてやれるぞ』
「ありがとう…」
話せる範囲の、今日あった事を包み隠さずに全て話した。
『そうか…足の肉離れ…それも足全体とは…あまりにも現実味の無い事だが…教え子の症状で、お前が冗談を言うはずなどないからな』
「俺はそうでも無い…俺よりもあの子の方が…」
『そうでも無いわけないだろう。お前は俺の誘いを断って貯蓄と人生をあの子に捧げてきたのだからな』
「だが、その結果…俺が教えたせいで、あの子には消えることなんて無い、大事を患わせてしまった…」
『…一つお前に聞きたい事がある』
「なんだ?」
『その子に無理に練習を強要させたりはしていないのだろう』
「ああ…当然だ」
『それに話を聞く限りじゃ、親御さんもお前を攻めているわけでもないんだよな』
「それは…まあ…」
『なるほどな…』
今の何で、何を理解したんだ…?
『数年経つと、ここまで、随分と腑抜けたやつになってしまうとはな…』
「いきなり何を…」
『昔ながらの仲だからな、とりあえずこちらの方で設備の整った場所、腕利きの足の治療ができる人がいないか知り合いに当たってやるよ』
「それは…ありがとう…感謝する」
『…今回はとりあえずお前と話すことはもう無い。じゃあな』
「…ああ」
その返事を聞いて直ぐに双徹は機嫌が悪いのが分かるように電話を切るのが聞こえた。
まぁ、当然だ。元同じ門下生であり、競い高め合った選手同士だ。そんな奴が教え子に練習で取り返しのつかない怪我をさせたのだから、呆れ、軽蔑して当然だ…。
気がつくと外は更に暗くなっており、目の前に出来ていた渋滞は無くなっていた。帰るにはちょうど良いと思えるタイミングであり、ハンドルに手を伸ばすのだが、握る直前でその手が止まる。
今日は…もういいか…。
そう、疲れからか、伸ばしていた腕が力無く垂れ落ち、帰ることを諦めたかのように椅子の背もたれに身を預け、眠るように瞼を閉じる。
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不気味で赤暗い赤夜が過ぎ、真っ黒で何も見えない深夜となり、そしていつもの様に少しずつ明るくな早朝、新しい日が訪れる。
水平線にある境界線。海と空を橙色に染めながら日が昇りゆくその様子を、壁に背を預け敷布団に座り、毛布を足にかけ、窓越しにじっと眺めていた。
階段を登り、部屋の扉が横に開かれる。
「おはよう競…」
母親がお粥を乗せたおぼんを持って入り、競の様子を伺う。だが、返事などなく、競はずっと外を見ていた。
「朝ごはん持ってきたけれど食べられそう?」
そう尋ねるもやはり反応は無い。
「今日は休みだから、ゆっくり休みましょう。それにほら、ちゃんと食事を取らないと治るものも治ら——」
言葉を掛けながら傍に座り、スプーンでお粥をほぐしながら、彼女の顔を伺い見て、その手と口が止まる。
無気力で喪失とした、全く光のない目。あれから一睡もしていないのが分かる下の隈。カサカサに乾燥した唇と肌。流し続け、既に枯れ果てた涙の跡。
経った数時間という短い時間でのその変貌に、母親は絶句し、ゆっくりと持っていたそれを戻し、優しく抱きしめる。かける言葉は無く。ただ、ただ、静かに涙を流して抱きしめることしかできなかった。
すると、家の扉を叩く音が聞こえてきた。
来客…約束している知人は無い。訪問販売員だろうか。松旭はお店の仕事に出ているから、今家にいるのは私とこの子だけ。対応する必要もない。今回は申し訳ないけど居留守を使っても…。そう思うも、諦めが悪く、迷惑にならない程度に叩くその音が聞こえてくる。
「…ちょっと行ってくるわね」
大事な用かもしれないし、そうじゃなくても、これ以上はこの子に何らかのストレスを、影響を与えかねない。そう、仕方なく判断し対応する事にした。
この人も諦めが悪いな。と思いながら玄関の扉を開ける。
「はい。なんでしょう…」
そこに立っていたのは、競のコーチである風道なのだが、彼も競と同じように眠れなかったのか目の下には隈が出来ており、髪も服もボサボサで、少々やつれていた。
一瞬その姿を見て心配しそうになったが、すぐに落ち着いて、威嚇するように静かに睨みつけて見る。
「…一体何の用ですか、風道さん」
「その…競の競さんのお見舞いに…」
「…昨夜申しましたよね。こちらから連絡を送るまで、貴方に娘を会わすことなど出来ないと」
「は、はい…」
「そんな簡単な約束も守れないのですか?いい大人が…」
「…申し訳…ございません」
「私も夫も、そして娘もが貴方にはとても感謝して、いえ、しきれないほどに大きな恩を感じております。ですから、このような態度、対応は本来相応しくありません。ですが、あの子の事を思うのであれば…今はそっとしておいてあげてください。どうか、お願いします」
「え、いや…そんな…」
そう丁寧に頭を下げる母親の願う姿に動揺してしまう。
「分かりました…。ただ、彼女が少しでも元気に…貴方の判断で大丈夫だと思ったら…よろしく伝えておいてください」
「分かりました」
「では…」
振り向いて歩き進みながら、立ち止まり家の方を見ると、母親はまだ頭を下げていた。
長くここにいたらお母さんにも悪い…。
ふらつきながらも足早に自身の車に乗り込み、行き場所なんて二の次に、その場を走り去る。
車の行き、音が無くなるのを聞いて頭を上げて家の中へと入り閉めて、扉に軽くもたれ掛かる。
本当に、申し訳ないな…。でも、今は何よりもあの子の為にしたいの…。
再び決心した様に顔を上げて、競の部屋へと向かおうとすると。
゛ドッ゛と外から鈍い音が聞こえてきた。
何の音…いや、とりあえず今は一緒にいてあげて、ご飯と水分補給をさせてあげないと。
気にせずに階段を上がって、扉をゆっくりと開く。
部屋の中に競の姿が無い。あるのは、放置されたお粥とお水の入ったコップの乗ったおぼん。捲られた布団。そして全開に開かれた窓。そこから優しく吹く風にカーテンが揺らいでいた。
それを見て一瞬にして顔が青ざめる。
え…まさか、さっきの音は…。
「競!」
急いで窓へと駆け寄り、下を覗く。
下に競の姿は無く、一先ず最悪は避けてほっとするも、不安は消えることは無い。
「競!どこ!どこに行ったの!?」
直ぐに、家中を駆け回り探す。トイレ、リビング、お風呂場、庭、外を走り一通り見る。だが、何処にも競の姿は無く、先の不安からか早くも疲れ、膝が崩れてこけそうになり、咄嗟に壁に手を着き寄りかかる。
「競…一体どこに…」
素早く呼吸を整えて、あてもなく探し、走りゆく。




