理幻鏡想 7
目の前に広がるのは陸上競技場のトラック。
天気も良く風は感じない程にない競技日和。観客の話し声とアナウンスの声が騒がしく響く。
私は100mのスタート位置で準備運動をしていた。
周囲には同じく走る、もう顔馴染みの面々。そして彼女の姿がある。
スタート直前の合図が出され、皆がスタート位置に立って呼吸を整える。
もうすぐ始まるのだと、観客達は静かに無音の時が流れる。
次の合図が鳴り、スターティングブロックに足をかけて待つ。
すると、各々が勝つという殺気に似たプレッシャーが溢れ、緊張が走り、肌がひりつく。
そしてスターターの声による合図に姿勢を取り、雷管の音と共に一斉にスタートを切る。
好調のスタート。いつも通りの走り、いつも通りの呼吸。目の前に映るは真っ直ぐのレーンのみ。
いける。
走り続けると、耳元に黒いモヤが通り過ぎる。
その瞬間横から彼女が抜け、少し。また少しと徐々に差が開かれていく。
この差ならまだ、追いつく。いや、抜ける。抜いてみせる。勝つ。勝つ。勝つ。
そう走り続けると再び黒いモヤが両耳に過ぎる。
その瞬間、足にまるで重りが着いたかのように重く、上手く走れず、前に思ったように進まない。
えっ…。
困惑するも、更に彼女と差が開き、横から一人。また一人と抜かれていく。
それに連れてまた一つ、また一つと体が重く、上手く動かない。
まるで四肢に地面から伸びるロープを結ばれているかと思う程に。
焦りからか呼吸は大きく乱れる。
彼女らとの差は開き続け、徐々にゴールと共に遠く、遠く、ぼやけ始める。
ま、待って…。待って…。
そう、手を伸ばすと背後から来る黒いモヤの波が迫り、飲み込まれ、光が遠く、遠くへと離れて行く。
すると、背後から何かがぬるりとうねりながら真横、耳元に近付いてきた。
速く走りたいの?速くなりたいの?
子供の様な声で囁かれるその問いを、不思議と感じながらも。
そんなの、速く走りたいに決まっている。誰よりも。速く。速く!
問に答える様にそう強く心で叫ぶ。
すると、その子供の様な何かはくすくすと笑うと「そっか。分かった」と言って何処かへと消えた。
その瞬間、どぷん、と走っていた地面が水のように変わり、真っ暗な深い、深い、底無しの沼の中へと沈んで行った。
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目を覚ますと、勢いよく上体を起き上がらせ、荒い呼吸をする。
ゆっくりゆっくりと呼吸を落ち着かせて顔を抑え覆うのだが、急に胸から込み上げる吐き気に襲われ、急ぐも音をあまり立てないように静かに部屋から出てトイレへと駆け込み、吐き出す。
それはまだ眠っているであろう両親を起こさないように心配させないようにという彼女の強い思いからだろうか。
しばらくトイレに籠り、これ以上は吐かないだろうと、それを流して洗面所で口を濯ぎ顔を洗い、タオルで拭う。
また…あの夢…。だけど、最後は少し…変だったな…今日は。
そう考えながらふと、正面の鏡に映った自分の顔を見て呆れる。
ほんと…酷い顔…。
自室に戻る途中、居間を覗いて壁にかけられた時計を見る。
時計の針は朝の五時二十八分を指しており、カレンダーは今日が四月の十二日金曜日であると、その前の日まで斜線の印で示されている。
彼女の家から学校までの距離は二㎞ちょっとで三十分ほど歩けば着くことができる。
朝練は七時からで、今から約五十分の余裕がある。
自室に戻り、動きやすいジャージに着替えて外に出ようと扉に手を伸ばすと、背後から扉が開かれ、足音が聞えた。振り返り見ると、そこにまだ目覚めたばかりで眠そうに瞼を擦る、母親が立っていた。
「あら…おはよう競。いつも早いわね」
「おはようお母さん」
「今から朝練?」
「うん」
「えらいわねいつも頑張って。でも無理はしたら駄目よ。体を壊してからじゃ何もかも、遅いんだから」
「大丈夫。わかってるよ」
「そう。なら気をつけてね」
「うん。行ってきます」
ゆっくりと手を振る母親に、軽く返して、外へと出る。
そこに広がるのは、少し天気が悪い曇り空と、あの時より高い視界から見える。海と船、そして家を出て直ぐにある長い海沿いの道路。
迷ってる暇も、落ち込んでいる暇なんて、私には無い。がんばる…いや、頑張るじゃない…やらないと。
軽いストレッチをしていると、ふと何かがシュルシュルと巻き付くような感覚と違和感を感じて右足を見る。だが、そこには何も無く、動かして確かめるも、特に何も感じない。いつも通りの感覚だ。
気の所為か…。
そう彼女は日課であるジョギングをと軽く走り出す。
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道場での日課を終えた赤華が、朝食とキッチンへ向かおうとすると、何か話し声が聞こえてくる。それは梓麻でも鳶鷹や由一では無い全く聞き覚えのない声だった。
泥棒?
用心と玄関にしまってある、靴べらを手に取り、ゆっくりゆっくりとキッチンへと向かい中の様子を覗き込もうとした瞬間、奥から黒い影がこちらへと向かってきて頭がぶつかりかなり鈍い音が鳴り、黒い影は下へと動いた。
「いったぁ…」
その声を聞いてその影を見ると、そこに居たのはおでこを手で押さえて蹲る梓麻の姿があった。
「大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ」
まだ、少し響くようで頭を押えて立ち上がりながら赤華を見るも、何も無かったかのように立つ姿を見て、凄い石頭ね…。と心の中で呟く。
「それにしても何をコソコソとしてたのよ。泥棒かと思ったじゃない…」
「いや、だって知らない話し声が聞こえてたから。私も泥棒が入ってきてたのかと…」
「ああ、そういえば赤華は昨日疲れてすぐに寝ていたものね。声の正体は、あれよ」
そう彼女が親指で指すそれを覗き込むと、鳶鷹と由一が既に起きていたようでキッチンの真ん中にある椅子に座り、二人共が声の聞こえる先を見ている。
そこにあったのは少し大きなブラウン管のテレビがあり、画面の様子から朝のニュース。ちょうど天気予報をしているのが見て分かる。
ただのテレビ。ただのニュース番組なのだが。
「何これ…」
「何って、ただの…」
そう梓麻の回答待たずに、赤華は走り迫り、キラキラとした目でブラウン管のテレビを四方八方から物珍しそうに覗き込む。
「何これ。何これ。どうなってるの、この黒い箱。こんな小さな中に人が…いや、もしかして、あの小人さんがいるの?」
テレビといった家電製品に疎い赤華の目には灰色の箱。その内側には光り輝き、小さき小人が日本図形が描かれた黒板のようなもので何かしている様にしか見えていないのだ。
そんな、初々しい彼女の反応に和みながら、鳶鷹が「おはよう赤華はん。これはテレビちゅーてな」と、挨拶をしてテレビの仕組みについて説明をする。
前までは赤華がその日の天気さえ分かれば良かっただけなので、それを色々な方法で歩地が伝えていたからそれで済んでいたが、三人にとってはそうもいかず、県外や世界の情勢などを知れた方が良いだろうと、歩地が用意してくれた。
情報屋である普樂の二人からそれなりに聞けば良いだろうと思われるが、そうもいかない。
普樂の者から与えてくれるのなら別だが、こちらから聞くとなると情報料を払わなければならない。商売である以上、贔屓をしないのが彼らの常識である。
そしてその情報料というのが、かなりめんどくさい。
例えで普樂から三日間の天気の情報を得るとする。
その情報を赤華のようにタダで与えられる者も入れば、百円を取られるもの、また数千円を取られ、またあるものは数十万以上を取られる場合がある。
日本に住む学生が裏側にある南アメリカの天気を知ったところで大したことではないが、預言者を語るモノや、取引きなどとあらゆる面で、その情報が利益になるモノに対して妥当となりえる額を提示するのだ。
まぁ、そういったことが有る無いにしろ、テレビやラジオという外の情報が気軽に得られるものがあるのだから、そういったものはしっかりと利用した方がいいのは確かだ。
「赤華はん。体の方は大丈夫なんか?」
「う〜ん。まだ少し体が重い感じがするけど、他には特に何も無いから大丈夫だよ」
「昨日帰った時結構しんどそうにしてたから心配したで」
「心配かけて、ごめんね」
「いやいや、ワイらもすまんかったな。かなりの距離を連れ回してもうて」
「ううん。私はみんなと色んなところを見て回れて楽しかったよ」
「そうか。そらえかった。そう言ってくれて嬉しいわ」
「そういえば、珍しく早起きだね」
「おお、まぁな」
「明日…第二土曜日だから…楽しみで早く起きちゃうんだよ…鳶鷹はいつもぉ」
ふわふわとしながらそう言って、ぼうっとヨーグルトを掬ったスプーンを口にくわえるその様子から唯一はまだ寝ぼけているようだ。
「おい、唯一…」
遠足が楽しみで眠れない小学生のやつみたいと思いながら、皆が口には出さないように気をつける。
天気予報が終わると次のニュースが流れた。その内容は失踪事件に関することだ。失踪事件。日本では年間で数万という人が失踪している。
と言ってもその内訳のほとんどは高齢による徘徊や、喧嘩による家出といったものだ。
それ故にすぐに解決して、届け出が取り下げられたり、一、二年ほどして所在や死亡等が確認され、九十五%ほどが何らかの形で解決するのだが、残り五%程が行方不明のままであることがある。
その中でも、特に大々的に報道された失踪事件がある。
それは十歳にも満たない幼い子供が一日に数十人も失踪したというものだ。
それは日本だけではなく、今日までに世界各地で同じように一日で多くの幼い子供の失踪事件が起こってる事から、何らかの関係性があるのではという議論をしている。
だが、日本で起きたそれは、既に三年も前の事で内容が短く薄く、最後に軽く注意喚起程度に話しており、話している様子から、諦められていのが何となく感じられる。
まぁ話す彼らからすれば、あくまでも他人事に過ぎないのだろう。
そう、適当なところで話が切られると、次に地方ニュースとなり、この街の事に関した話が始まる。
さっそく話題に上がったのが、やはり理鏡様の事で映像を見ていると赤華達が立ち去った後に、報道陣が駆け付けていたようだ。
中に入っての直接的な映像はなかったが、列に並ぶ人達や終えた人に感想などを聞き回ったり、過去の他局で放送された映像を流すなどして様々な事が話され始める。
「なんやカメラ来るんやったら、もう少しあの場に居ればえかったなぁ」
「…惜しかったね~」
インタビューを受けたところであんたの映像は放送されないわよ。どうせ家の事で歩地さんか普樂の誰かがそのデータを削除するでしょうから。と説明するのも無駄な気がして静かに朝食の準備をと、冷蔵庫を覗いて卵を手に取り、思い出したように赤華の方を見る。
「赤華。今日は私達と一緒に行くのよね」
「うん。歩地さんからも大事を取って今日は走ったらだめだって」
「そう、なら貴方も目玉焼きでいい?」
「ありがとう。任せるね」
「ええ。準備してるから顔を洗うなり準備してきなさい」
「うん」
そう彼女が洗面所へと向かう姿を後に、熱したフライパンに卵を落として軽く塩コショウを振って蓋をして。トースターにパンを入れて、目玉焼きの様子を伺いながら考え込む。
赤華。はいつも私達より早く朝に起き、寝間着姿のまま、隣に立つ道場へと入っていく。
その後、耳を澄すも運動といった何かをしているような物音は一切無く。暫くしてこちらへと戻ってくる。
これまでは瞑想などをしているのかと思ったが、さっき頭をぶつけた時の彼女の熱と発汗量は、運動した時それにしか思えない。音を遮断する結界は自室のみで、あの道場には何の結界も張られては無かった。
彼女の事だ、私達を心配させることや歩地の言いつけも破るとは思えないけど…。
赤華は一体…あの中で何をしていたのだろう…。やめよう…今のこれはただの悪癖だ。
出来た目玉焼きとベーコン、軽くサラダで色添えたお皿をテーブルへ運ぶとちょうどよく、赤華が戻ってきて、今日は迎えの車が車ではゆっくりとした朝食を食べながら朝の時間を四人で過ごす。




