第4話:干上がった街と大水脈
険しい峠を越え、三人が向かうのは熱風の吹く砂漠の街道。
その先には、水を失った交易都市と、思いがけない出会いが待っていました。
「放っておけない」というみかんの一言に、今日も知恵者は頭を抱え、豪傑は斧を担ぎます。
けれど今回は、頼もしいフラッペにも、ちょっと調子の狂う出来事があるようで……。
砂漠を舞台に繰り広げられる、力と知恵と優しさの冒険。
どうぞ、三人と一緒にお楽しみください。
祖国オランジュ公国を追われ、山賊たちとの思わぬ交流を経て険しい峠を抜けた三人組の馬車は、さらに南へと舵を切っていた。追っ手を徹底的に撒くため、アルベドことアルルの進言に従い、かつて公国と友好的だった近隣諸国の領域をあえて避けたのだ。向かう先は、文化も風土もまったく異なる乾いた砂漠のただ中、交易都市「エル・カルド」の周辺地域である。
照りつける容赦のない陽光が、見渡す限りの赤茶けた大地と砂塵を焼き焦がしていた。熱風が幌馬車の天幕をバタバタと激しく叩き、御者台で手綱を握るフラベドことフラッペは、額に浮いた汗を手の甲でぬぐいながら不快そうに舌打ちを漏らす。
「けっ、喉が焼け焦げそうだぜ。おい知恵袋、本当にこっちの道で合ってんだろうな。干からびて骨になるのは御免だぞ」
馬車の小窓から顔を出したアルルが、砂にまみれた羊皮紙の地図を指先で押さえながら眼鏡の位置を正した。
「ええ、追手の方角と友好国の監視網を鑑みれば、この砂漠境を抜けるのが最も確実です。この街道を越えれば、かつて緑と水に恵まれたオアシス交易都市『エル・カルド』の領内にある小さな宿場町へ至るはずですから」
二人が話していると、幌の隙間からみかんがひょっこりと顔を出した。鮮やかなオレンジ色の髪を熱風になびかせ、眩しそうに細めた瞳を遠くの街道へ向ける。
「ねえ、見て! 前の方、砂煙がすごく上がってない? なんだか黒くて大きな影が暴れてるよ!」
みかんの指さす街道の先では、一台の豪華な馬車が無残に横転し、周囲に砂塵が渦巻いていた。護衛と思しき兵士数名がすでに力なく倒れ伏し、その周囲を取り囲むように、巨大な漆黒の影がうごめいている。
アルルが目を凝らし、瞬時にその顔色を変えた。
「……あれは砂漠の最強の魔獣、デススコーピオンです! 強靭な外骨格と常軌を逸した俊敏さ、鋼をも両断する大鋏に、致死性の猛毒針まで備えています。軍隊規模の部隊でなければ討伐など到底不可能な化け物ですよ。まず、あの場にいる者たちに助かる見込みはありません。我々も巻き込まれないよう、大きく迂回したほうが――」
「フラッペ、お願い!」
アルルの慎重な忠告が終わるより早く、みかんの澄んだ声が砂漠に響き渡った。
「おうよ!」
言葉を交わすまでもなく、フラッペは豪快な笑みを浮かべて御者台から飛び降りていた。身の丈ほどもある巨大な烈火の無双斧を背中から引き抜き、砂煙を蹴立てて一直線に突進していく。
凶悪な毒針を振り上げていたデススコーピオンの群れへ、フラッペは真っ向から咆哮を轟かせた。
「おい、殻つきの虫けらども! でけえ獲物はこっちだ、かかってきやがれ!」
閃光のような大斧の一撃が空気を切り裂き、砂嵐を巻き起こす。怪力無双の重騎士は猛烈な闘気を放ちながら、デススコーピオンたちの注意と攻撃を一身に引き受け、戦場の中央で大暴れを始めた。
その背中を見送りながら、みかんは身を乗り出して隣の青年に視線を向けた。
「アルル、お願い!」
「……はあ、まったく貴女という人は!」
アルルは深々と重いため息をつきながらも、手綱を握り直して馬車を急旋回させ、大破した馬車へと一気に馬を走らせた。
粉々になった残骸の陰では、息絶えた護衛たちの奥で、豪奢な衣装をまとったどこかの国の姫様と、そのお付きの侍女が、短剣を両手で握りしめながら恐怖に震えていた。
「怪我はありませんか! 急いでこちらの馬車へ!」
アルルが叫び、みかんが幌から手を伸ばして二人を車内へと引き上げる。二人を救出したアルルは、そのまま馬車をフラッペのすぐ近くへと寄せ、声を張り上げた。
「フラッペ、早く馬車に乗ってください! 全速力で離脱します!」
だが、フラッペは大斧を片手で構え、迫りくる巨大なハサミをガンッと甲高い火花とともに受け返しながら、平然と言い放った。
「無理だろ、こいつ速いぞ! 逃げたって馬車ごと追いつかれてケツを刺されるのがオチだ。……まぁ、任せなって!」
「いや、さすがに軍隊相手でやっと勝てる相手に無茶です!」
「軍隊のほうが、わらわらいて苦手だぜ! こいつは三匹しかいねぇ!」
ガギィィンッ! と凄まじい金属音が響き、フラッペは襲い来る二匹目の大鋏を大盾で豪快に弾き返してみせる。
その常識外れな頑固さと頼もしさに、アルルは額を押さえて深々とため息をついた。
「まったく……! では、あの外骨格もお腹までは守れていません! そこに斧が届けば……!」
「アドバイス助かるぜ! さぁ離れていな、本気でいくぞ!」
アルルは即座に手綱を引き、みかんと救出した姫たちを乗せた馬車を安全圏へと後退させた。
背後で馬車の車輪が十分に遠ざかる音を聞き届け、フラッペの口元に獰猛な笑みが浮かんだ。
「よし……これで後ろを気にする必要はねえな」
同時に、戦場を取り巻く空気が凍りついた。対峙するデススコーピオンは計三匹。漆黒の甲殻は馬車の車体ほどもあり、砂を噛む無数の脚が不気味な擦過音を立てている。獲物を奪われたと悟った魔獣たちが、八対の複眼をぎらつかせ、一斉にフラッペへと殺意を向けた。
シュシュシュッ、と空気を切り裂く異様な羽音。正面の二匹が砂を蹴り、巨体に似合わぬ神速のダッシュで左右から挟み撃ちを仕掛けてきた。
右からは丸太をもへし折る巨大な鉄鋏。左からは岩をも貫く刺突。逃げ場を塞ぐ絶妙の連携攻撃に、フラッペは退くどころか踏み込んだ。
「遅えんだよ!」
右手の無双斧を跳ね上げ、鉄鋏の平へ垂直に叩きつける。金属同士がぶつかり合う凄まじい衝撃音が響き渡り、右の個体の大鋏が無理やり跳ね上げられた。その反動の遠心力を利用し、フラッペは独楽のように体を半回転させ、左から迫るもう一匹の鋏を、背負った深紅の大盾で真正面から受け止めた。
ガァァンッ!
鈍い衝撃が大地を揺らし、足元の砂が円形に吹き飛ぶ。並の戦士なら腕骨ごと粉砕される圧殺の力。だが、フラッペの剛腕はミリ単位たりとも揺るがない。
「力比べなら、てめえらの百倍タフなドラゴンと散々やってんだよ!」
フラッペが大盾を跳ね上げて敵の体勢を崩したその刹那、頭上から鋭利な影が落ちてきた。三匹目のデススコーピオンが頭上高く跳躍し、尾の先にある紫黒の猛毒針を、脳天めがけて電光石火の速度で突き立ててきたのだ。一滴でも掠れば心臓が止まる必殺の毒撃。
逃げられない――侍女が馬車の窓から悲鳴を上げた。
だが、フラッペの目は冷徹にその軌道を見切っていた。大盾を瞬時に頭上へ掲げ、わずかに角度を傾ける。
キィィィンッ!
甲高い火花とともに、猛毒針は傾斜した盾の表面を滑り、虚しく空を突いて砂地へ深々と突き刺さった。針から滲み出た紫の毒液がジュウジュウと赤土を融解させていく。
地面に毒針を突き刺して身動きが取れなくなった一匹を大盾の縁で叩き伏せ、体勢を立て直した残り二匹の包囲を前に、フラッペは大地を深く踏み締めた。全身から溢れ出る紅蓮の闘気が、熱風を巻き込んで陽炎のように揺らめく。
「知恵袋が言ってたぜ、腹がガラ空きだってな。……まとめて宙に放り出してやらあ!」
フラッペは巨大な烈火の無双斧を腰だめに構え、猛然と回転を始めた。
「喰らいやがれ――『煉獄旋風バトルアックス』ッ!!」
剛腕から繰り出される超高速のジャイアントスイングが、灼熱の砂嵐を巻き込み、紅蓮の炎をまとった巨大な竜巻を巻き起こす。ゴォォォッ! と大気を引き裂く轟音とともに生み出された猛烈な暴風が、三匹の巨躯をまとめて巻き上げ、砂漠の空高くへと容赦なく打ち上げた。
逃げ場のない中空。天地が逆転し、空中に浮遊したデススコーピオンたちの無防備な腹部が、陽光の下に露わとなる。
「これで……お終いだァッ!!」
フラッペは大地を蹴破り、砲弾のように跳躍した。空中で大斧を頭上高く振りかぶり、紅蓮の闘気を切っ先に凝縮させる。
閃光のような渾身の唐竹割りが、空中で無防備にさらされたサソリたちの薄い腹部をまとめて一刀両断した。
ズバァァァッ!!
鮮血と黄緑の体液が砂漠の空に飛散し、甲殻を叩き割られた巨躯がドォォンと轟音を立てて砂煙の中に墜落した。激しい衝撃波が周囲の砂を吹き飛ばし、舞い散る砂塵の向こうから、大斧を肩に担ぎ直したフラッペが平然と歩み出てくる。呼吸一つ乱れていないように見えた。
馬車の窓から見守っていた侍女と姫君は、ぽかんと口を開けたまま、唖然としてその光景を眺めていた。軍隊総出で挑んでも全滅しかねない砂漠最強の魔獣を、たった一人で空中に巻き上げ、跡形もなく叩き伏せてしまったのだ。
手綱を握るアルルが、ずり落ちた眼鏡を指先で押し上げながら、深いため息とともにぽつりと呟いた。
「……彼は、本当に人間ですか?」
その隣で、みかんは馬車の屋根から身を乗り出すようにして両手を天に突き上げ、満面の笑みを弾けさせた。
「わあぁぁっ! やった〜〜っ!! すごいすごい、フラッペかっこいい〜〜っ!」
二人のまったく対照的な声が熱風に響き渡り、フラッペは白い歯を見せて「へっ、軽い準備運動にもなりゃしねえよ」と笑い飛ばした。
――ドサッ!
その直後、フラッペの膝ががくりと折れ、大斧を取り落とした巨躯がそのまま前のめりに砂の上へ倒れ伏した。
「フラッペ〜〜ッ!?」
みかんの悲鳴が砂漠にこだまする。
「なっ……! フラッペ!」
アルルは血相を変えて手綱を放り出し、馬車から飛び降りて砂煙を蹴立てながら倒れた巨漢のもとへと駆け寄った。馬車からはみかんも飛び出し、涙目になって駆け寄る。
「フラッペ! どこか刺されたの!? しっかりして、フラッペ!」
慌てふためく二人に対し、うつ伏せになったフラッペは、砂を吐き出しながらうっとうしそうに片手をヒラヒラと振った。
「……げほっ、騒ぐな、お嬢。かすり傷一つ負っちゃいねえよ……。ただの大技の反動だ、全身の筋肉がちっと痙攣して力が入らねえだけだ……」
アルルは胸を撫で下ろしながらも、眉をひそめて青年の顔を覗き込んだ。
「本当ですね? 毒の類ではないのですね? 無茶をするからそうなるのです……まったく、肝を冷やさせないでください!」
「へっ、誰が死ぬかよ……。だが悪いが、馬車まで運んでくれねえか……知恵袋……」
「貴方のこの鉄塊のような体を一人で運べるわけがないでしょう! まずはその重たい甲冑を外しますよ!」
一方、馬車から降りた姫君は、砂の上に横たわる護衛兵たちの遺体のもとへふらふらと歩み寄り、膝をついた。自分をかばって命を落とした兵士の冷たくなった手を握りしめ、溢れ出る涙を堪えるように肩を震わせている。侍女もまた悲痛な面持ちでその背に寄り添い、震える手で主の肩を抱きしめていた。
みかんがそっと歩み寄り、胸元の首飾りに触れながら静かに告げた。
「……ごめんなさい、助けが間に合わなくて。でも、二人の命を命がけで守ってくれたんだね」
姫君は涙をぬぐい、深く頭を下げた。
「いいえ……あなた方が来てくださらなければ、私たちも確実に砂の塵となっていました。本当に、ありがとうございます」
礼を述べ終えた姫君と侍女は、息を整えると、アルルたちの救護に加わるべく歩み寄った。
「お、お手伝いします!」
二人がかりで胸当てや肩当ての頑丈な留め具を外し、ようやく重厚な深紅の鎧を取り外す。薄い麻のインナー越しに露わになったのは、無数の激戦を物語る古傷と、鋼のように隆起したフラッペの逞しい筋肉だった。
「ひゃっ……!」
間近でその圧倒的な肉体美を目にした侍女は、息を呑んで顔を林檎のように真っ赤に染め上げた。先ほどまでの死線の恐怖と相まって、その胸に烈火のようなときめきが宿る。
「あ、あのっ……! 痛むところはございませんか……? 水冷えの手ぬぐいで、お背中をお拭きしますね……! さあ、私の肩にもつかまってくださいませ……!」
「お、おい、ちょっと近すぎねえか……!? 調子が狂うんだが……!」
普段の豪胆さはどこへやら、タジタジになって視線を泳がせる巨漢の戦士。
なんとか四人がかりでフラッペを馬車の荷台へと運び込み、腰を下ろさせたところで、姫君が改めて頭を下げ、重い口を開いた。
「私たちは、この先にあるオアシスの街エル・カルドの者です。上流の軍事国家が川を巨大なダムで堰き止めてしまったことで街の水路は完全に干上がり、井戸も枯渇してしまいました。水脈を失って水飲み場を奪われたのは、私たち人間だけではありません。砂漠に棲む魔獣たちもまた喉の渇きと飢えで狂暴化し、普段なら寄り付かない街道にまで現れては、こうして見境なく人を襲うようになってしまったのです」
水利権と領土をめぐる争いの余波は、自然の生態系すら狂わせ、街を砂漠の墓場へと変えつつあった。
みかんは胸を痛め、アルルを見上げた。
「アルルの知恵で、なんとかあの街を助けてあげることはできないかな?」
しかし、アルルは静かに首を横に振った。
「残念ながら、それは叶いません。ここは我々の祖国ではなく、掟も利害も異なる異国の土地です。他国の流亡者である私たちが勝手な手出しをすれば、国家間の重大な紛争に発展しかねません。私たちはただ、追手を逃れて通り過ぎるだけの旅人なのです」
その理路整然とした冷徹な現実に、みかんは悲しそうに瞳を伏せ、きゅっと唇を結んだ。
横たわったまま手ぬぐいで額を拭かれていたフラッペが、そんな二人の重苦しい空気に気づき、頭をガリガリと掻きむしった。
「なんだよ、湿っぽい面しやがって。めんどくせぇな……他国の理屈だかなんだか知らねえが、なんとかなんねぇのかよ」
そのやり取りを聞いていた姫君が、すがるような眼差しでアルルを見つめた。
「あの……知恵者の方、何か街を救う手立てがあるのでしょうか?」
アルルは困惑しつつも、眼鏡のブリッジを押し上げて答えた。
「……可能性としてゼロではありません。もしこの街の成立当時の古い地図や、古代の河川ルート、あるいは過去に掘られた古い井戸の位置などを記した資料があれば、地下深くの伏流水脈を特定できるかもしれません。しかし――そうした都市の基盤設計図や古文書は、どの国においても最高度の機密に当たるものです。通りすがりの旅団である我々のような部外者が、おいそれと閲覧できるはずもありませんからね」
すると、姫君がハッとしたように身を乗り出した。
「それでしたら、私がお父様に掛け合ってみます! 改めて名乗らせてください。私はレモン。ここエル・カルドの都市長官を務める父の娘です」
「はい? レモン様……?」
突然の名乗りに、アルルが目を丸くする。
すると、フラッペの逞しい腕を水冷えの手ぬぐいで熱心に拭いていた侍女が、なぜかアルルやみかんではなく、横たわるフラッペの顔をじっと熱っぽい目で見つめながら、うっとりと口を開いた。
「その通りでございます。こちらの姫様は、長官のご息女レモン様にあらせられます。……そして、私は侍女のクエンと申します。……フラッペ様、もうすこし腕をあげてくださいませ。お拭きしづらいので……ふふ、なんてたくましいお腕……」
「お、おう……悪ぃなクエン……って、だから顔が近ぇっての!」
タジタジになるフラッペの横で、クエンは誇らしげにアルルへ視線を巡らせて言葉を続けた。
「姫様が直々にお父上にお願いくだされば、非公開の機密書庫であっても閲覧の許可が下りるはずです」
「な、なるほど……長官のご令嬢でしたか」
アルルはクエンの熱視線に圧倒されつつも、即座に思考を切り替えた。
一行を乗せた馬車は、レモンの先導のもと、砂煙を上げて目的の街エル・カルドへと急行した。
巨大な石造りの門をくぐると、家財道具を積んだ荷車や痩せたラクダを引く住民たちが列をなし、絶望に打ちひしがれた顔で街を去っていく痛ましい光景が広がっていた。
庁舎へと急いだ一行を迎えた長官は、愛娘レモンの無事な生還に大粒の涙を流して感謝した。レモンは父の手を握りしめ、真摯に懇願した。
「お父様、この方々は私の命の恩人であるだけでなく、街を救う知恵を持っていらっしゃいます。街が滅びるのをただ待つくらいなら、奇跡に賭けさせてください!」
娘の気迫と、アルルの理路整然とした説明に動かされた長官は、「すべてを託そう」と、固く封印されていた地下書庫の扉を開き、三百年前の都市設計図と地質古文書をアルルに託したのだった。
その夜、アルルは庁舎の一室で夜を徹して資料と向き合った。机一面に広げられた古文書の文字を拾い、砂漠化する以前の旧河川の流れと、三百年間の地盤沈下の記録を丹念に対比させていく。夜更けには街の採掘を束ねる工夫の親方が呼ばれ、ランプの薄明かりの下で綿密な協議が交わされた。
「親方、あなたの現場の知識が必要です。これまで街のどの深さまで掘り、どの井戸に最後までわずかでも水が残っていましたか?」
真剣な眼差しで問われた親方は、擦り切れた指先で広げられた図面の一角を指した。
「……北の筋は岩ばかりで駄目だった。だが、中央広場のあの枯れ井戸だけは、三日前まで底がわずかに湿ってたんだ」
「やはり……! この古い断層図と、親方の証言が完全に一致します。東の山脈から走る伏流水脈は、広場の女神像の真下、地下約十五メルの層を通っているはずです」
理論と現場の生きた記憶がぴたりと重なり合った。夜明けを迎える頃には、掘削の正確な座標と深さ、必要な道具と人員配置の計画が完璧に練り上げられていた。
翌朝、太陽が昇るとともに、一行と親方は中央広場へと向かった。
かつて豊かな噴水を湛えていた広場には、荷物をまとめて街を去ろうとする住民たちが集まり、重苦しい諦めの空気が漂っていた。男の工夫が力なく呟く。
「もうおしまいだ……。いくら掘ったって出ねえんだ。ここを捨てるしかねえ」
その沈黙を切り裂くように、みかんが広場の中央へと駆け出していった。
「諦めちゃだめだよ! 水が出ないなら、出るまでみんなで掘ればいいじゃない!」
工夫たちが呆気にとられる前で、みかんは馬車の荷台から持ってきた野営用のスコップを、ひび割れた大地へ力いっぱい突き立てた。
その隣へ、豪奢な上着を脱ぎ捨てて粗末な作業着の袖をまくったレモンが進み出た。
「私も掘ります! 街の長官の娘として、市民の皆さんに泥をかぶらせて逃げ出すことなど絶対にできません!」
二人の少女が汗にまみれ、懸命に土を掘り起こす。その姿に、工夫たちの目に宿っていた諦めの色が揺らぎ始めた。そこへ親方が前に進み出て、太い腕を振り上げた。
「チクショウ! 娘さんたちにそこまで言われて、大人が指くわえて見てられるかよ! 図面と勝算は、この知恵者の旦那ときっちり詰めてある! 野郎ども、ツルハシとスコップを持ってこい! 街の意地を見せてやるぞ!」
親方の怒号のような号令に、広場から地鳴りのような歓声が上がった。
住民や工夫たちが次々と加わり、総勢数十人による大規模な掘削作業が始まった。みかんとレモン、クエンも泥だらけになって土砂のバケツリレーに加わり、アルルは地上から垂直度と地層の変化を厳密に計測して指示を飛ばし続ける。昨日の大技の筋肉痛から回復したフラッペも、工夫たちが三人がかりで担ぐ大岩を片手で軽々と放り投げ、現場を大いに盛り立てた。
太陽が天頂を越え、ジリジリと肌を焦がす熱砂の作業。交代で水を口に含み、泥と汗にまみれながら掘り進めること丸一日。
夕暮れが迫り、橙色の西日が深い竪穴の底を照らしたとき、鋭い金属音が響き渡った。深さ十五メル。工夫のツルハシの刃が火花を散らし、真っ二つにへし折れた。
露出したのは、青黒く鈍い光を放つ一枚岩――黒剛石の岩盤層だった。
親方が呻く。
「な、なんだこの硬さは……! こんなもん、鉄のツルハシじゃ何日叩いても傷一つ付かねえぞ……!」
アルルが坑底へ下り、岩盤に慎重に耳を当てた。目を閉じて数秒、アルルは顔を跳ね上げた。
「……岩盤の向こうで、膨大な水圧が唸りを上げています。これを突破すれば水脈は解放されますが、一気に水が噴き出せば坑道は一瞬で水没します。親方、作業員を全員地上へ退避させてください! 引き上げ用の滑車を大至急セットするんです!」
アルルの指示で工夫たちが次々と地上へ避難していった。
坑底に残ったフラッペは、滑車から伸びる頑丈な太綱を自らの腰と胴へ二重にしっかりと結びつける。手には巨大な烈火の無双斧。
「全員上がったな? お嬢たちが上ですっげえ水を楽しみに待ってんだ。こんな石ころ一枚で邪魔させるわけにはいかねえんだよ」
フラッペが大斧を両手で構え、腰を深く落とした。歴戦の重騎士が放つ圧倒的な闘気が、地下の空気を激しく震わせる。そして、不敵に笑いながら頭上の竪穴を見上げた。
「最大の力で斧を叩きこむから、俺はまた動けなくなる。しっかり引き上げてくれよ? ……昨日に引き続きかよって話だがな」
竪穴の上から、真っ先に大きな声が響き渡った。
「お任せくださいませ、フラッペ様ーーっ!!」
クエンが身を乗り出して叫び、太綱を力いっぱい握りしめた。その必死で一途な姿に、周囲の工夫たちやみかんたちから、どっと温かい笑顔が漏れた。
「よし……行くぜええっ!!」
フラッペの剛腕が唸りを上げた。巨岩を断ち割る渾身の唐竹割り。
ドゴォォォォンッ!!!
大気を震わせ、坑底全体を揺るがす凄まじい激突音が轟いた。一瞬の静寂ののち、黒剛石全体に稲妻のような亀裂が走り、メキメキと轟音を立てて砕け散った。
「今です、引き上げて!!」
地上から響いたアルルの鋭い号令とともに、クエンと工夫たちが滑車を一気に巻き上げる。力を使い果たしたフラッペの巨体が地上へ引き上げられた刹那、地鳴りとともに竪穴から凄まじい水圧の水柱が夕暮れの空高く吹き上がった。
黄金色と虹色の輝きを放ちながら、清らかな水が雨となって広場に降り注ぐ。
「水だ……! 水が出たぞォォォッ!!」
歓喜の涙を流して抱き合う住民たち。水路には再び清流が戻り、乾ききっていた街が息を吹き返した。
水しぶきを全身に浴びながら、みかんとレモンは手を取り合い、泥だらけの顔を見合わせて笑い合った。
「やったね、レモンちゃん! 水、本当に出たよ!」
「ええ、みかんちゃん! 私たちの街が……蘇ったわ!」
親方や工夫たちが進み出て、深々と頭を下げる。
「あんたたちのおかげだ。あの最初のスコップと、旦那の正確な指示がなけりゃ、俺たちは街を捨てて野垂れ死ぬところだった。本当にありがとう!」
商人や旅人たちから、割れんばかりの拍手と歓声が三人へ送られる。
「奇跡を呼ぶ旅の一座だ……! あの天真爛漫なオレンジの髪の少女と、知恵者と剛力の従者たち……『奇跡のみかん一座』だ!」
みかんが無邪気に笑う。
「えへへ、みかん一座だって! なんだか楽しそうだね!」
アルルが胃を押さえながら呟く。
「一座……? いつの間に私たちは大道芸人の集団に……」
夜空に響く乾杯の声と、街中に灯る希望の明かり。長官親子のあふれる感謝の眼差し、そして砂漠の街に笑顔を取り戻した三人の噂は、行き交うキャラバンの商人たちの口を通して、大陸全土へと語り継がれていくのだった。
――そしてその賑やかな宴の片隅では、また別の光景が繰り広げられていた。
二日連続で大技を放ち、全身が完全に鉛のようになってピクリとも動けないフラッペは、すっかりクエンの柔らかい膝枕の上に頭を乗せて転がっていた。
「くそっ、喉が渇いたぜ……酒だ酒、親方ァ、樽ごと持ってきてくれ……!」
フラッペが呻きながらなんとか自力で起き上がろうと腕に力を込めるが、筋肉がピキピキと痙攣して起き上がれない。すかさず、クエンがその逞しい胸元を両手でそっと押し留めた。
「いけません、フラッペ様! このままでいてくださいまし。二日連続で街のために命懸けの奇跡を起こしてくださったのですから、お疲れなのです! ほら、動いては駄目ですよ……ふふ、重たくて素敵……」
うっとりとした笑みを浮かべたクエンは、そのまま後ろに控えていた後輩の侍女たちへキリッと凛々しい顔を向けた。
「そこのあなた! フラッペ様のお喉が渇いておいでです。極上の冷えた美酒を、大至急大杯でお持ちして!」
「は、はいっ、ただちに!」
手際よく指示を飛ばしたクエンは、再び蕩けるような顔に戻ると、フラッペの口元へ酒杯を運びながら額の汗を手ぬぐいで優しく拭い始める。
「さあ、フラッペ様。私が飲ませて差し上げますからね……ふふっ」
「お、おう……至れり尽くせりで助かるが……なんか妙に居心地が悪ぃっていうか……」
真っ赤な顔で目線を泳がせる無双の巨漢と、その頭を甲斐甲斐しく愛でる侍女。その様子を少し離れた席から見つめていたみかんが、レモンの肩を小突いてくすくすと笑った。
「ねえねえ、見て見て、レモンちゃん! クエンさん、もうフラッペにメロメロだよ!」
「きゃー、本当だわみかんちゃん! なんだか見ているこっちまで恥ずかしくなっちゃう!」
頬を赤らめてキャッキャと盛り上がる二人の少女。
その背後で、すっかり膝枕のまま甘やかされている大男と、完全に出来上がっている二人の世界、そして笑い転げる少女たちを眺めながら、アルルの深いため息が夜空に静かに溶けていった。
(第4話・おしまい)




