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第5話:砂塵の老客と星降る夜の問答

エル・カルドに水と笑顔を取り戻し、再び旅へ出たみかんたち。

街道で出会ったのは、杖をついた一人のおじいさんでした。


「どうぞ!」と迷わず馬車へ招くみかんに、護衛の二人は気が気ではありません。

そして夜、焚き火の傍らで、その穏やかな出会いが思わぬ顔を見せ始めます。


誰かを大切にする優しさと、大切な人を守り抜こうとする覚悟。

笑いあり、緊張ありの第5話。少し賑やかになった旅路に、どうぞお付き合いください。


乾いた砂漠の熱気と喧騒が、背後へと遠ざかっていく。 交易都市エル・カルドの巨大な石造りの城門をくぐり抜けた幌馬車は、見渡す限りの赤茶けた荒野を貫く街道を、規則正しい車輪の音を立てて進んでいた。


「ふあぁ……。街のみんな、すっごく喜んでくれたね! 水があんなにドバーッて噴き出したとき、まるで噴水のお祭りみたいだった!」


御者台のすぐ後ろ、幌の隙間から身を乗り出したみかんが、晴れ渡る青空を見上げて眩しそうに目を細める。泥だらけになってスコップを振るった疲れなど微塵も感じさせない、はじけるような笑顔だった。 そして、手綱を握る大男の逞しい背中を、悪戯っぽく人差し指でツンツンとつつく。


「ねえねえ、フラッペは寂しくないの? お別れのとき、クエンさん目いっぱいに涙ためて『また必ず来てくださいまし』って言ってたよ? 昨日の夜だって、ずーっと膝枕して頭なでなでしてくれてたじゃない!」


「ぶっ……!? な、何を蒸し返してやがるお嬢! あれはだな、二日連続で大技ぶっ放して全身が鉛みたいに動かなかった俺を、レモンお嬢さんの侍女殿が手厚く介抱してくれただけだ! 膝枕を頼んだ覚えはねえ!」


首の根っこまで真っ赤にして手綱を強く握りしめるフラッペに、みかんは「えー、本当にそれだけかなあ? すっごく嬉しそうな顔してたのに〜」とくすくす笑い声を上げた。


「わたしも、もっとレモンちゃんとお話ししたかったなぁ。水路の工夫さんたちのお手伝い、最後まで一緒に頑張ってくれたもん。……でもね、出発する前にぎゅーって手を繋いで、『親友の誓い』を立ててきたんだ! だから離れてても、ずっとお友達だよ!」


胸の前で両手をぎゅっと握りしめて誇らしげに語るみかんの姿に、フラッペも照れ隠しに太い顎を撫でながら、ふっと表情を緩めた。


「違げえねえ。泥だらけになってスコップ握るお嬢を見るたぁ思わなかったがな。街の連中、『奇跡のみかん一座』なんて拝むような顔で見送ってくれやがったぜ」


「逃亡の身でなければ、もっと滞在したいところですがね」


御者台のフラッペの隣で羊皮紙の地図を広げていた知的な青年、アルルが眼鏡のブリッジを指先で押し上げ、深く、重いため息をついた。


「街のためとはいえ、我々があれほどの大騒ぎを起こしてしまったのです。もしオレンジ様の存在が明るみになれば、オレンジ様ご自身のみならず、匿ってくれたエル・カルドの住民たちすらロドルフの追手に巻き込みかねません。ここは情を脇に置いて、先を急ぐしかないのです」


「…………うん」


みかんのこぼれるような笑顔が、すっと消えた。 握りしめていた両手を胸元へ引き寄せ、服の下にある母の形見の硝子の首飾りにそっと触れる。 俯いたその横顔には、年相応のあどけなさを覆い隠すほどの、張り詰めた真剣さと痛ましさが滲んでいた。


「……そうだよね。わたしがここにいたせいで、レモンちゃんや、工夫のおじさんたち、クエンさんまでひどい目に遭わせるわけにはいかないもんね。……オランジュの街の人たちだって、いまロドルフに苦しめられてる。わたしが笑って前に進まなきゃいけないのに、浮かれちゃってごめんね、アルル」


逃亡者としての自らの存在が他者に及ぼす重圧。それを真っ向から受け止めるみかんの痛切な言葉に、アルルはわずかに目を見張り、窘めるような声音をすっと引っ込めた。


「……いいえ。姫様のその優しさが街を救ったのもまた、紛れもない真実です。ただ、今はどうかご自愛を」


「うん! ありがとう、アルル。……あ、見て! あそこに誰かいるよ!」


胸中の痛みを自らの強い意志で振り払うように、みかんは顔を上げ、前方を用心深く指さした。 その街道の先、蜃気楼の揺らめく路肩に、ぽつんとひとつの人影があった。 使い古された砂塵除けの外套をすっぽりとまとい、節くれだった旅の杖にすがって、こちらへ向かって頼りなげに足を運んでくる老人だ。


馬車がすれ違いざまに速度を落とすと、老人は杖を止め、外套のフードの奥から白髭に覆われた顔を上げた。深く刻まれた皺の奥にある瞳は、どこか底知れぬ静けさを湛えている。


「やあ、旅の御方。少々お尋ねしてもよろしいかの」


嗄れた、しかしよく通る声だった。


「わしは、上流の諍いでこの街が干上がったと聞き及び、様子を見に来たのじゃが……。城門の内からは、まるで祭りのような歓声が響いておった。まこと、干ばつなど起きておったのかの?」


アルルが素早くフラッペに目配せし、身構えながら口を開く。できる限り平凡な、通りすがりの旅人を装う声音だった。


「ええ、確かに一時は深刻だったようですが……なんでも奇跡的に、地下深くの伏流水脈が噴き出したそうでして。我々のような通りすがりの旅人には詳しいことは分かりかねますが、街の工夫たちの努力が実を結んだのでしょう」


完璧な受け答え――の、はずだった。 老人は細い目をさらに細め、白髭を撫でながら「ほう」と口元を緩めた。


「伏流水脈とな。……しかし奇妙なことじゃ。街の商人が話しておったぞ。『白銀の衣をまとった若き知恵者』が地質を読み当て、『山をも砕く怪力の大男』が一撃で岩盤を穿ったと。お主ら、何か知らぬか?」


ピキリ、とアルルの表情が凍りついた。額に冷たい汗が一筋流れる。 御者台のフラッペは、愛用の烈火の無双斧を幌の布で慌てて覆い隠すと、あからさまに明後日の方向を向いて口笛を吹き始めた。


(まずい……! もしや、ロドルフの手の者がもうここまで嗅ぎつけてきたというのか……!?)


だが、目の前の老人が自分たちの活躍を知らない様子でただの噂として語っているのを聞き、みかんは仲間たちの見事な働きぶりを誇らしく思い、思わず口を挟んでしまった。


「知恵者と怪力? アルルとフラッペのことだね!」


からりと晴れた鈴のような声が、すべてを吹き飛ばした。 みかんが幌から身を乗り出し、満面の笑みで老人に手を振っている。


「でもね、おじいさん、一番頑張ったのは街のみんなと、この二人なんだよ! アルルが地図を読んで、フラッペがすごいパワーで岩を割ったんだ!」


「お、お嬢っ……!? それ言っちゃあ……!」


「お嬢様、何をあっさりと……!」


頭を抱えるフラッペと、絶望に天を仰ぐアルル。 だが、秘密をあっけらかんと暴露された老人は、驚くでもなく、怪しむでもなく、ただ何事もなかったかのように深く頷いた。


「ほほう、そうだったのか。お主らもこぞってこの娘と一緒にスコップを握られたのですね、ご親切に……。いやはや、歩き通しでちと疲れてしもうた。次の街まで、その馬車に一緒に乗せていってもらえんかの?」


「め、滅相もございません!」


アルルが慌てて割って入る。


「我々の馬車は荷物も多く手狭でして、それに――」


「どうぞ! おじいちゃん、足痛いんでしょ? よいしょっと!」


アルルの制止が間に合うはずもなかった。 みかんは身を乗り出すと、躊躇うことなく老人の節くれだった両手を握り、軽やかな力加減で馬車の座席へと引き上げてしまったのだ。


「ほっほっ、若い娘さんの手は温かいのう。……ありがたく厄介になるとしようかの」


「ちょ、お嬢様……!」


青ざめる知者と苦笑する巨人を乗せた馬車は、奇妙な同乗者を迎えたまま、再び砂塵を巻き上げて走り出した。


昼下がりの馬車の中、みかんの甲斐甲斐しい世話焼きは止まらなかった。


「おじいちゃん、疲れてない? はい、これ街道で買った甘い干し果物! 喉渇いてるなら水もあるよ!」


「おお、これは美味い。かたじけないのう」


「あ、腰の革袋……お酒の匂いがする! おじいちゃん、お酒はほどほどにしなきゃダメだよ? お腹冷えちゃうからね」


「かっかっか、手厳しいのう。娘さんに叱られては敵わん、控えめにするとしよう」


穏やかに笑い合う二人を、アルルは鋭い観察眼で終始見つめ、御者台のフラッペも時折背後へ油断のない視線を送っていた。老人の身なりはみすぼらしいが、馬車の揺れに対する身のこなし、ふとした瞬間の視線の鋭さに、拭いきれない違和感があった。


やがて荒野に夕闇が迫り、冷たい砂漠の風が吹き始める。一行は街道から少し外れた岩陰に馬車を止め、野宿の準備を整えた。 焚き火の温かい光の中、みかんが作った素朴な野菜スープを分け合い、夜が更けていく。


旅の疲れが出たのか、みかんは毛布にくるまると、すやすやと穏やかな寝息を立て始めた。


しん、と静まり返った荒野の夜。 パチパチと爆ぜる焚き火の向こうで、老人が静かに目を閉じて座っている。


――その時だった。 微動だにしなかったはずの老人が、いつの間にか音もなく荷台のすぐ傍らへ歩み寄っていた。眠るみかんの肩口からずり落ちていた毛布に気づき、そっと掛け直してやろうと手を伸ばした、その瞬間。


御者台からその異様な移動を目撃したフラッペの背筋に、冷たい稲妻が走った。 (いつの間に……! 護衛の間合いを完璧に踏み抜いたぞ! このじいさん、一歩でも動けばお嬢の喉元へ手が届く……!)


「――何者だ!」


フラッペの巨躯が岩場を蹴り砕き、夜風を切り裂く轟音とともに老人の間合いへ踏み込む。 背中から抜かれたのは、黒剛石の岩盤をも両断した『烈火の無双斧』。


低く地を這う猛獣の咆哮。 空気を灼くような闘気が赤黒い刃に宿り、老人の首筋を剃刀のように掠め取る必殺の薙ぎ払いが放たれた。愛する姫に危険が迫ったと判断したゆえの、神速かつ一撃粉砕の軌道――!


大気を引き裂く甲高い風切り音。 並の剛の者であれば、放たれた気迫だけで竦み上がり、回避の初動すら奪われる死の刃。


だが――。


ゴオッ、と火花を散らして刃が通過したその場所から、老人の姿がかき消えていた。 いや、消えたのではない。 老人は立ち尽くした姿勢のまま、ただ煙のように、あるいは夜風にそよぐ柳の枝のように、わずかに上体を揺らしただけだった。


刃が首筋を通過する「その瞬間」、老人の輪郭が蜃気楼のようにブレて二重に見えた。 残像――!? 烈火の無双斧は、老人のほつれた外套の糸一本すら断つことなく、虚無の空間を空しく切り裂いていた。完全に刃の軌道を読み切った上で、寸分の狂いもなく紙一重でかわされたのだ。


「なっ……!?」


フラッペの額に、凍りつくような冷や汗が吹き出した。 自分の全力の太刀筋が、老人に羽虫を払うような最小限の身のこなしで無効化された。 しかも、空振りの体勢のまま固まりかけたフラッペの眼前で、老人がふわりと杖を握り直した。 カツン。 乾いた木音が小さく夜気に響いた瞬間、老人の全身から放たれたのは――深淵のような、底知れぬ剣気。


(馬鹿な……! 刃を交えてすらいねえのに、首筋に冷たい切っ先を突きつけられているようなこの錯覚はなんだ……!?)


フラッペの背筋に凄まじい悪寒が走る。歴戦の肉体が本能で「死」を警告していた。 しかし、後ろには眠るみかんがいる。フラッペは奥歯を噛み砕かんばかりに食いしばり、再び大斧を振り上げた。


「やっぱり只者じゃねえな……! ロドルフの手先なら、この場で叩き斬るまで――」


「引いてください、フラッペ!!」


悲鳴にも似た、しかし研ぎ澄まされた鋭い制止が響いた。 馬車の中から飛び出してきたアルルが、すでに抜き放っている細剣を構えながら、フラッペと老人の間に割って入る。 その青ざめた顔は硬直し、眼鏡の奥の瞳は驚愕と畏怖で見開かれていた。


「アルル、邪魔すんな! こいつは――」


「駄目です、構えを解いて下がりなさい! 貴方一人で勝てる相手ではありません……!」


アルルは震える息を呑みながら、老人の足元と、無造作に握られた旅の杖の構えを凝視していた。 実体を持たない残像を残し、敵の知覚を欺く極限の体さばき。 そして、ただの杖を握っているだけにもかかわらず、間合いに入った者すべての神経を両断する無形の剣気。


(残像で間合いを狂わせ、触れることなく相手を制する……あれは……噂に名高い失われた絶技……!)


アルルの脳裏に、かつて王宮の最高機密書庫で目を通した大陸諸国の武官録が電光のように閃いた。


(砂漠の民でも、ロドルフの雇った暗殺者でもない。あの神技を使う者は、大陸全土を探してもただ一人しかいない……!)


アルルは細剣の切っ先を震わせながら、確信に満ちた、しかし恐怖で掠れた声を絞り出した。


「……幻影剣。触れることすら叶わぬ幻影の太刀筋で、かつて若き日の現皇帝を武と智の双方で鍛え上げ、今や西方の覇権国家を裏から動かすと言われる御仁……」


老宰相はふっと焚き火のほうへと一歩戻り、薪を杖で軽く突きながら静かに佇んだ。 焚き火の炎が赤く揺らめき、老人の顔に深い影を落とす。 アルルは喉を鳴らすと、その名を紡いだ。


「……ソレイユ帝国の、影の老宰相閣下ですね」


しじまが戻った荒野の夜。 老人はゆっくりと顔を上げた。昼間の頼りなげな好々爺の表情は完全に消え去り、大陸の覇権を揺るがす者にふさわしい、底知れぬ静謐な眼光が二人を射抜いた。


「……ほう。オランジュ公国の若き知恵者よ、よく見抜いたな」


老宰相の静かな声音に、アルルは細剣を握る手に力を込め、研ぎ澄まされた敵意を露わにした。


「ソレイユ帝国も、ロドルフのような悪党に手を貸すのですか!? ……それならば、このアルベド、フラベドとともに、刺し違える覚悟で戦います!」


「そうか……! 聞いたことがあるぜ、帝国の『幻影剣』の使い手か!」


フラッペ――歴戦の重騎士フラベドが再び大斧を構え直し、獰猛な闘志を滾らせる。


「だが、二人掛かりならどうだ。お嬢に指一本触れさせやしねえぞ!」


二人の忠臣が放つ殺気を受け止めながらも、老宰相は身じろぎもせず、静かに片手を上げた。


「待たれよ。……わしはお主たちの動向を探りに来たのではないわ。もっとも、あの街であれだけ派手な騒ぎを起こしては、追手に嗅ぎつけられるのも時間の問題じゃろうがな」


老人は焚き火の薪を杖でつつき、小さく息を吐いた。


「わしの目的はそうではない。……エル・カルドの水脈の上流にある都市が、巨大なダムを築いて水路を遮断したという話は聞いておろう?」


「ええ……。それが原因で街は干上がっていました」


「エル・カルドを干上がらせ、兵糧攻めにして屈服させ、かの地を裏から征服しようと目論む者がおるようなのじゃ。わしはその陰謀の探索で動いておったのよ。……ところがじゃ。現地に着いてみれば、エル・カルドは干上がるどころか、お祭り騒ぎの真っ最中であった」


老宰相は口元に微かな笑みを刻み、眠るみかんのほうへと視線を向けた。


「あの状況下で、誰にも従わず、ただ地面を掘り進めて伏流水を引き当てる阿呆がおるとは思わなんだ。……帝国としても、周辺諸国の不穏な動きは正確に把握しておかねばならんのでな」


「……では、我々を捕縛しに来たわけではないと?」


アルルが問いかけると、老宰相は眼光を鋭く光らせた。


「現時点では、な。……オランジュ公国から落ち延びてきた公女に味方するか、それとも実権を握りつつあるロドルフを味方に引き入れ、帝国の国益とするか。……帝国内でも、意見は真っ二つに割れておるのじゃよ」


冷徹な大国の論理。 その言葉の重みに、アルルとフラッペは息を詰まらせた。 だが、老宰相はすぐに全身から張り詰めた剣気をすっと消し去り、焚き火の前にあぐらをかいて肩の力を抜いた。


「まあ、そう怖い顔をするでない。もしわしが今この場でお主らを害するつもりなら、さっきの大男の太刀をかわした瞬間、とっくに首を落としておるわい。……ほれ、お嬢ちゃんもスヤスヤ眠っておることじゃし、剣を収めてそこに座ったらどうじゃ」


老人の言う通りだった。先ほどの交錯の一瞬、老宰相がその気であれば、フラッペですら無傷では済まなかっただろう。 アルルとフラッペは互いに視線を交わし、やがてフラッペが「……ちっ、違げえねえな」と吐き捨てて大斧を背中へと戻した。アルルもまた、警戒の糸は張ったままながらも、細剣を鞘へと収めて焚き火の向かい側に腰を下ろした。


「……非礼をお詫びいたします。ですが、我々にとっても姫様の命が懸かっておりますゆえ」


アルルは眼鏡の位置を正し、改めて正面の老人を見据えた。


「ところで……これからしばらく言葉を交わすにあたり、何とお呼びすればよろしいでしょうか。素性を隠して巡察されているのであれば、表立って『老宰相閣下』とお呼びするわけにもいきませんし、かといって一国の重鎮であられる方を、みかん様のように『おじいちゃん』とお呼びするのもあまりに不躾かと」


「おう、そういやそうだな。俺たちはお嬢のつけた偽名で通してるが、あんたはどう呼べばいいんだ?」


フラッペも腕を組みながら問いかける。 アルルはさらに言葉を継いだ。


「実のところ、歴史の裏に潜み、大陸の覇権を操る『影の老宰相』については、我が宮廷の最高機密文書にさえ『肩書き』しか記されておらず、誰もその本名を知らないと聞いております。……よろしければ、お名前をお伺いしてもよろしいですか?」


誰一人としてその本名を知らぬ、生きる伝説。 だが、老宰相は焚き火の爆ぜる音の中で、夜空へ向けて軽やかに笑い声を上げた。


「かっかっか! 名前など、ただの符丁に過ぎんよ、若き知恵者殿。今のわしは、ただの旅の老いぼれじゃ。お嬢ちゃんと同じように『ご隠居』とでも『じいさん』とでも、好きに呼ぶがよい」


老宰相は杖を置き、毛布にくるまってすやすやと眠るみかんの寝顔を、まるで孫娘を見るような温かな眼差しで見つめた。


「ただ……そうじゃな。もしもこの先、帝国として正式にお前たちの味方をする日が来れば、その時はわしの名を明かそう。あのお嬢ちゃんは、ちと気に入っておる、あはは!」


先ほどまでの凍りつくような威圧感が嘘のように霧散し、屈託のない笑い声が星空に溶けていく。 その掴みどころのない巨魁の態度に、フラッペは呆れたように鼻を鳴らした。


「けっ、食えねえじいさんだぜ。だがよ、お嬢を気に入ったってんなら、悪いようにはしねえって言葉、半分くらいは信じてやるよ」


「ほっほっ、手厳しいのう。……それとじゃ、このまま内陸を進むのはおすすめせんな」


老宰相の声色が、再び静かな真剣味を帯びた。 アルルが眉をひそめる。


「……どういう意味でしょうか。我々は内陸の交易路を経て、中立地域へ抜ける算段ですが」


「その内陸の要衝にはすでに、ロドルフの手の者と、奴の鼻薬を嗅がされた私兵どもが網を張っておる。いくらそこの大男が一騎当千の猛者でも、昼夜を問わず四方から追手に囲まれれば、あのお嬢ちゃんを守り切ることはできまい」


「なっ……! すでに内陸のルートまで封鎖されていると……?」


アルルが唇を噛む。エル・カルドでの一件が、予想以上の速さで周囲の勢力を刺激していたのだ。 老宰相は白髭を撫でながら、焚き火の向こうから悪戯っぽく片目を閉じてみせた。


「わしの情報と取引せんか? このまま、馬車に乗せて港町の方に行ってほしい。ただの旅の一行として、のんびり物見遊山でもしようかの」


「港町へ……? ご隠居を我が馬車でお連れする代わりに、追手の網を抜ける安全なルートを教えてくださる、と?」


「左様。お主らにとっては追手を欺く隠れ蓑になり、わしにとっては都合のよい足になる。悪い話ではなかろう?」


アルルとフラッペは視線を交わした。帝国最高峰の重鎮であり、『幻影剣』の達人が同行してくれるとなれば、これほど心強い後ろ盾はない。


さらに老宰相は、焚き火に新しい小枝をくべながら、ふっと表情を曇らせた。


「それと、おぬしらに耳に入れておきたいこともあってな。これは馬車に招待してくれた、お嬢さんのお礼じゃ。……ほかあろう、オランジュ公国のことじゃ」


その言葉に、アルルとフラッペの全身が弾かれたように強張った。 公都を脱出して以来、自分たちの逃亡と目の前の人々を救うことに精一杯で、遠く離れた祖国が今どうなっているのか、確かな情報はほとんど入ってこなかったのだ。


「オランジュが……公妃殿下と、クレマン公子様が、どうなられたのですか!?」


思わず身を乗り出したアルルの問いに、老宰相は静かに眠るみかんの方へ一度だけ視線をやり、起こさぬよう声を潜めて語り始めた。


「……公都は今、ロドルフの完全な独裁下に置かれておる。重税と弾圧で民は苦しみ、さらにはロドルフの奴め、周辺の列強国に対して裏切りとも言える不遜な外交を繰り返し、国境付近には不穏な戦雲が垂れ込めておるわ」


「くそっ、あの野郎……! クレマン様はどうなった!? あの晩、俺たちを逃がすために殿(しんがり)に残られたんだ!」


フラッペが拳を握りしめて詰め寄る。老宰相は重々しく首を横に振った。


「公宮の奥深くの連絡は完全に遮断されておってな、公妃殿下とクレマン公子の生死については、我が帝国の諜報網をもってしても未だ確たる報せは届いておらん。……じゃが、希望はあるぞ」


老宰相は二人の目を見据えた。


「ロドルフに屈しなかった古参の忠臣たちが、密かに公都を抜け出し、唯一の希望である『オレンジ公女』を探し出すために探索隊を国外へ送り出したそうじゃ。お主らが各地で蒔いた善意の種は、確実に奴らの耳にも届き始めておる」


「忠臣たちが、姫様を探して……!」


アルルの瞳に、わずかな安堵と強い決意の光が宿った。祖国は完全に死んだわけではない。まだ共に戦おうとしている仲間がいるのだ。


「情報、感謝いたします、ご隠居殿。……取引に乗りましょう。海沿いの自由港まで、我々の馬車で案内いたします」


「うむ、話が早くて助かるわい」


こうして、奇妙な四人旅が始まった。 翌朝から、一行は内陸の街道を離れ、老宰相の案内する間道を通って海沿いの港町へと向かった。


夜の緊迫したやり取りなど微塵も知らないみかんは、「おじいちゃん、今日も一緒だね!」と大喜びだった。 道中、彼女は馬車が揺れると老人の背中をさすり、休憩のたびに一番冷たい水を汲んで差し出し、道端に咲く名もなき野の花を見つけては「おじいちゃんに似合うよ!」と笑って杖の先に飾った。


そこには、打算も、権力への媚びも、逃亡者としての卑屈さも一切なかった。 ただ純粋に目の前の人を思いやり、自分が笑うことで周囲を温めようとする天真爛漫で裏表のない優しさ。 そして、そんな少女の笑顔を守るためならば、自らの命すら塵芥のように投げ出す覚悟を秘め、昼夜を問わず盾となり続けるアルルとフラッペの一途な忠義。


長年、帝国の頂点で血塗られた権謀術数と欺瞞ばかりを見続けてきた老宰相にとって、三人の姿は、乾ききった大地に染み込む清流のように眩しく、深く心を揺さぶるものだった。


(……なるほど。砂漠の街の連中が、こぞってこの娘と一緒にスコップを握ったわけじゃな)


旅が数日を経たある昼下がり。 みかんが馬車の荷台でうつらうつらと昼寝をしている間に、御者台のすぐ後ろへ顔を出した老宰相が、手綱を握るフラッペと地図を見ていたアルルへ低く声をかけた。


「おい、お主ら二人。この数日、お主らの立ち居振る舞いと、初日の夜の太刀筋をじっくり見させてもらったがの」


老宰相の瞳に、達人としての鋭い光が宿る。


「フラッペとやら、お主の斧は確かに凄まじい剛力じゃが、闘気が外へダダ漏れで隠しきれておらん。力を解放するたびに周囲へ気が散り、己の肉体にも過剰な反動が返っておるじゃろう。そしてアルルよ。お主の細剣は、まっすぐに相手を見据え、奇麗な型にはまった剣じゃ。無駄がなく美しいが、裏を返せば『これからどこを突くか』が達人の目には丸わかりなのじゃよ」


図星を突かれ、フラッペがギクリと肩を揺らし、アルルは悔しげに唇を噛んだ。


「どちらも、世間一般で見れば間違いなく一流の武じゃ。……じゃが、これから先、あの『みかん嬢』を守り抜くには、ちと足りんわ。どれ、わしが稽古をつけてやるかな」


「稽古を……!? ですがご隠居殿、ここで剣や斧を振り回せば、みかん様に気づかれて余計な心配をかけてしまいます」


アルルが慌てて後ろの幌を気にすると、老宰相は白髭を撫でてニヤリと笑った。


「なあに、お嬢ちゃんにバレんようにやればよいのじゃ。これから馬車を止めて休憩するたび、『森へ食料を採りに行ってくる』とでも言ってお主らが一人ずつ順番にわしと出かければよい。一人が馬車でお嬢ちゃんを守り、もう一人がわしと特訓じゃ。どうじゃ?」


「……! 願ってもない機会です、ぜひお願いします!」


「へっ、あの日の一太刀のお返しってわけじゃねえが、ご隠居の胸を借りるぜ!」


こうして、みかんには絶対秘密の「交互特訓」が幕を開けた。


その日の夕方、渓流の近くで馬車を止めると、まずはフラッペが「おうお嬢、ご隠居と一緒に晩飯のイノシシでも狩ってくるぜ!」と豪快に笑って森の奥の川辺へと向かった。


みかんの目が届かない渓流の浅瀬に着くや否や、老宰相はフラッペに大斧を構えさせた。


「いいか、大男。お主の闘気は暴れ馬と同じじゃ。振り回すから力が外へ逃げ、水面が爆ぜ、己の筋繊維まで引き裂かれる。闘気を外へ漏らすな。すべてを刃の『内』へ閉じ込め、斬る瞬間のわずか一点にのみ凝縮させるのじゃ。――この渓流の水面を、波ひとつ立てずに全力で振るってみせよ」


「水面を揺らさずに全力だと……!? 無茶言うぜ、こんな鉄の塊を振れば、風圧だけで水が吹き飛ぶだろうが!」


フラッペが渾身の力で大斧を振るうたび、ゴォッという暴風とともに川水が激しく飛沫を上げて吹き飛び、そのたびに老宰相の杖が電光のように閃いて、フラッペの脇腹や手首のわずかな力みを容赦なく叩いた。


一時間後、全身ずぶ濡れでたんこぶを作ったフラッペが、川魚を数匹ぶら下げて馬車へと戻ってきた。


「あれーっ!? フラッペ、なんでそんなにびしょ濡れなの!?」


「お、おう……ちょっとばかし、威勢のいい大魚と取っ組み合いになっちまってよ……!」


苦しい言い訳をして目を泳がせるフラッペと、すました顔で「いやあ、大漁じゃったのう」と頷く老宰相。


そして翌日の昼休憩には、今度はアルルが「ご隠居殿が薬草と木の実の群生地をご存じだそうで、少し採取してまいります」と籠を下げて林の奥へと消えていった。


木立の広場で、老宰相はアルルに細剣を鞘へと収めさせた。


「知恵者よ、お主は頭が良すぎるゆえ、剣を抜く前に『目』と『肩』が次の型を語っておる。真っ向から見据えるな。視線も、殺気も、呼吸すらも日常の立ち姿の中に溶かし込め。剣が鞘を走るその瞬間まで、己自身すらどこを斬るか忘れるのじゃ。――剣の出所が一切分からぬ、『居合』の極意を叩き込んでやる」


老宰相が手本として、ただの木の杖を腰だめからスッと動かした。予備動作も、風切り音も、殺気すらなかった。にもかかわらず、気づいた時にはアルルの喉元すれすれに杖の先端がピタリと止んでいた。 そこからアルルは、老宰相が放つ幻影のような杖の撃ち込みをかわしながら、何百回と抜刀と納刀を繰り返した。


一時間後、白銀の長衣を土と落ち葉だらけにし、眼鏡をわずかに歪ませたアルルが、山菜の入った籠を抱えてフラフラと戻ってきた。


「ええーっ!? アルルまでどうしたの、服が葉っぱだらけだよ!?」


「い、いえ……少々高い枝にあった木の実を取ろうとしまして、足を滑らせただけです。問題ありません……」


真っ赤になって咳払いをするアルルを見て、事情を知るフラッペが腹を抱えて笑いを堪え、みかんは「もう、二人ともドジなんだから!」と呆れながらも楽しそうに服の葉っぱを払ってやった。


そんな微笑ましくも過酷な日々が続き、いよいよ明日には海沿いの自由港へ到着するという前日の夕暮れ。 すでに潮の香りが風に乗って届き始める中、最後の休憩地となった水辺で、二人はついにその領域へと辿り着いた。


まずはフラッペの番だった。 幾千回と振り続けた大斧。荒ぶる紅蓮の闘気を無理やり抑え込むのではなく、自らの骨肉と斧の芯へと深く、静かに沈み込ませていく感覚が、今の彼にははっきりと掴めていた。 フラッペが深く息を吐き、無音のまま水面すれすれへ大斧を振り抜いた、その瞬間。


――スッ。


大斧の刃が神速で通過したにもかかわらず、渓流の水面にはさざ波ひとつ立たなかった。それでいて、対岸にあった枯れ木の太い幹だけが、一拍遅れて音もなく斜めに滑り落ちた。一切の反動もない、極限まで凝縮された『静かなる一撃』だった。


「……できた。水も揺れねえし、手が、ちっとも痺れてねえ……!」


自分の掌を見つめ、驚愕と歓喜に目を見張るフラッペ。 そして交代で林へと入ったアルルもまた、ひとつの到達を迎えていた。


アルルは眼鏡の奥の瞳から一切の力みを消し、ただ風に吹かれる旅人のように自然体で立っていた。 老宰相が掛け声もなく、鋭く三つの小石を同時に弾き飛ばした、その刹那。


――シュン。


鞘から銀閃が走ったのかどうかすら、定かではなかった。 アルルが鞘の鯉口を親指で切った次の瞬間には、すでに細剣はカチリと鞘の中へと戻っており、宙を飛んでいた三つの小石がすべて真っ二つに割れて地面へ落ちていた。


「ほう……!」


老宰相が感嘆の息を漏らし、白髭を撫でて満足げに目を細めた。


「港町に着く前に、わしの言わんとした理(ことわり)を完全にモノにするとはな。大した筋じゃよ、お主ら。どんな難敵に立ち向かっても、その技がお前たちを救う手助けになるはずじゃて」


野営地へ戻った二人は、みかんの背後でひそかに視線を交わし、確かな手応えに力強く頷き合った。さらにその夜、みかんが眠りについた後、二人は老宰相の前で並んで膝をつき、深々と頭を下げた。


「ご隠居殿……万一敵となったら、この技で切りかかるかもですが」


「ああ、あんたのおかげで、もう二度と情けなくぶっ倒れずに済むぜ!」


「かっかっか、礼には及ばん。お嬢ちゃんの美味いスープの駄賃じゃよ」


そして翌朝――遠くにカモメの鳴き声が響き、海沿いの自由港へと続く街道の分岐点が見えてきた頃。 老宰相は馬車を止めさせると、ひょいと荷台から飛び降りた。


「さて、わしはここまでじゃ。港町に入る前に、ちと寄らねばならん場所があってな」


「えーっ、おじいちゃん、ここでお別れなの? 港町で一緒にお魚食べようよ!」


名残惜しそうに幌から身を乗り出すみかんに、老宰相は優しく微笑みかけ、懐から一枚の奇妙なコインを取り出した。 それは通貨ではなく、まばゆい黄金の陽光が精緻に刻まれた、重厚な紋章入りの証のコインだった。


「お嬢ちゃん、スープも干し果物も、まこと美味かったぞ。これはその礼じゃ。……いつかお主たちが深い霧の中で道に迷い、どうしても力が必要になったとき、これを掲げて示しなさい。きっと太陽が道を照らしてくれるはずじゃ」


「わあ、ピカピカのお日さまのコインだ! ありがとう、おじいちゃん! わたし、ずっと大事にするね!」


みかんが小さな両手でその証のコインを大切に包み込むと、老宰相は満足げに頷き、アルルとフラッペにだけ分かるような鋭くも頼もしい一瞥をくれた。


「ではな、みかん嬢ちゃん。それと、頼もしき二人の従者よ。……また会う日まで、達者でな」


老宰相は杖を突きながら、潮風の吹く脇道へと静かに歩み去っていった。 その小さな背中が陽炎の向こうへ消えていくまで、みかんはいつまでも大きく手を振り続けていた。


(第5話・おしまい)

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