第3話:峠の山賊と甘い分け前
国境を越えても、三人の旅にはまだまだ難所が待っています。
険しい峠で行く手を塞いだのは、武器を手にした山賊たち。けれど、みかんの目に映ったのは――。
頼もしい斧と、知恵者の思案。そして、籠いっぱいの甘いみかん。
それぞれの出番を乗せて、今日も幌馬車は進みます。
どうぞ、三人と一緒に峠の向こうを目指してください。
ゴツゴツとした岩肌が剥き出しになった険しい峡谷を、一台の粗末な幌馬車が軋んだ音を立てて進んでいた。
車輪が鋭い小石を弾くたび、荷台が激しく上下に揺れる。
すでにオランジュ公国の正規国境は突破したものの、隣接するヴェルデ王国との緩衝地帯——どちらの法も届かぬ無主の山岳路「断頭峠」である。落石の多さと治安の悪化により、今や一般の商隊の往来は途絶えて久しい。
「……随分と手荒な揺れ方だな。尻の皮が擦り切れそうだぜ」
御者台の横で腕を組み、フラッペが深紅の甲冑をガチャリと鳴らした。背中に背負った巨大な戦斧が、岩肌を切り裂く寒風に晒されて鈍い光を放っている。
隣で手綱を握るアルルが、眼鏡のブリッジを中指で静かに押し上げた。白銀の長衣の裾を風になびかせながら、鋭い視線を前方の断崖へと走らせる。
「贅沢は言えませんよ、フラッペ。ロドルフ公爵の私兵や息のかかった追手どもは、国境を越えた緩衝地帯の要衝や主要関所の手前にまで先手を打ち、潜伏網を敷いている可能性が極めて高い。公国の追跡部隊の目を眩ますには、あえて公権力の及ばないこの険路を強行突破するほかありません」
「へっ、そいつは百も承知だがよ。法の目が届かねえってこたぁ、無法者の巣窟になってるって噂だぜ?」
「ええ。ですが、ロドルフの部隊に捕捉されて姫様の身柄が割れる最悪の事態に比べれば、野盗の類などまだ対処のしようがあります。……いざとなれば、貴方の腕力で道をこじ開けていただくことになりますが」
「違いねえ。話の通じねえ追っ手より、山猿どもの相手のほうがよっぽど気楽だ」
そんな二人の緊迫した会話を遮るように、幌の隙間からぽんと丸い頭が飛び出してきた。
鮮やかなオレンジ色の髪を風に揺らし、みかんが満面の笑みで二人の間に顔を割り込ませる。
「ねえねえ、アルル、フラッペ! 見て見て、あの突き出た岩! おっきなみかんを一口かじった形にそっくりじゃない?」
「……姫様。今は呑気に岩の造形を鑑賞している場合ではありません。それに、周囲に誰が潜んでいるか分からないのですから、あまり大きな声を出さないでくださいとあれほど……」
「いいの! だって二人はアルルとフラッペなんだもん。それより、お腹空いちゃったな。さっき麓の集落の端っこで買ったみかん、もう食べてもいい?」
「駄目です。あれは万一の際の非常食として計上しています。それに——」
アルルが言葉を切り、手綱を力強く引き絞った。
馬が短くいななき、その場で前足を止める。
「……噂をすれば、お出ましのようですね」
ガラガラと激しい音を立てて、頭上の崖から丸太や手頃な岩が転がり落ち、馬車の行く手を塞いだ。
同時に、切り立った岩陰から、擦り切れた作業着にボロボロの革当てを縫い付けた男たちが十数人、鍬や錆びた鉈を手に姿を現した。
「止まれ! 馬車を停めろ!」
先頭に立つ体躯の大きな男——頭領らしき人物が、刃こぼれした古い剣を構えて前に進み出た。
しかしその声には、凶悪な山賊特有の卑劣な残忍さや下卑た嘲笑は微塵も含まれていなかった。むしろ、張り詰めた緊張と、自分自身に言い聞かせるような必死さが滲み出ている。
「お前たちに恨みはねえ! 手荒な真似もしたくねえんだ! おとなしく金目の物と、食い物を全部置いていってくれ! ……約束する、荷物を全部置いていきさえすれば、誰にも危害は加えねえ! 奥に子どもがいるのも見えてる、子どもにも絶対に手を出さねえから……頼むから、大人しく荷物を置いて立ち去ってくれ!」
必死に声を張り上げる男の手は、微かに小刻みに震えていた。
その様子を観察したアルルが、眉をわずかに動かす。
「……金品と食糧の要求。しかし、無用な殺傷は避けたがっているようですね。本業の凶賊というよりは、追い詰められた素人……」
「素人だろうが何だろうが、道を塞ぐってんなら話は別だぜ」
フラッペが低く唸り、御者台からドシンと重たい音を立てて飛び降りた。
深紅の甲冑に身を包んだ巨躯が大地を踏みしめ、背中から巨大な戦斧を片手で軽々と引き抜く。歴戦の猛者だけが放つ圧倒的な威圧感が、峡谷の空気を一瞬で凍りつかせた。
「ひっ……!?」
農具を構えていた男たちが息を呑み、思わず後ずさる。
「おいおい、兄ちゃん方。手荒な真似はしたくねえってのは、こっちの台詞だぜ?」
フラッペは獰猛な笑みを浮かべると、男たちには目もくれず、地を蹴って跳躍した。
巨体からは信じられない神速で空を裂き、山賊たちのすぐ脇にそびえ立っていた高さ三丈はある巨大な岩塊へと着地する。
——ズォッ!
紅い閃光が一筋、大気を薙ぎ払った。
大斧の刃が巨岩を一閃。次の瞬間、巨大な岩塊は音もなく真っ二つに両断され、左右へと地響きを立てて崩れ落ちた。切断面は鏡のように滑らかで、乾いた砂煙が立ち上る。
「ひ、ひぃぃぃっ!?」
「い、岩を……一撃で……!?」
男たちは武器を取り落とし、全員がその場にへたり込んだ。
頭領の男も顎が外れんばかりに目を見開き、腰を抜かしてガタガタと震えている。
「さて……」
フラッペが大斧を軽々と肩に担ぎ直し、ぎろりと鋭い眼光を向けた。
「子どもに手を出さねえって心意気は買ってやる。だがな、俺のお嬢の行く手を塞ぐってんなら、次はその薄っぺらい頭を薪みたいに両断するしかねえが……どうするよ?」
もはや抵抗する気力を完全に失った男たちは、地面に頭を擦り付けた。
「た、助けてくれぇ……! 悪かった、命だけは……命だけは助けてくれ……!」
殺伐とした空気が満ちる中、幌馬車から「よいしょ」と愛らしい声が響き、みかんがひょっこりと飛び降りてきた。
小走りでフラッペの横をすり抜け、震える男たちの前へと歩み寄っていく。
「姫様、いけません! 凶器を手放したとはいえ、まだ油断は……!」
慌てるアルルをよそに、みかんは一番前で震えている頭領の前にしゃがみ込んだ。
間近で見る彼らの姿は、あまりにも痛々しかった。着ている服は継ぎ接ぎだらけで袖口はボロボロに擦り切れ、頬は土気色に痩せこけている。握りしめられた手は骨と皮ばかりで、荒れた土を耕し続けてきた頑丈な農民の節くれだった手そのものだった。
「みんな、お腹が空いてるんだね」
みかんの口からこぼれたのは、怒りでも怯えでもなく、春の陽だまりのような温かい声だった。
「……え?」
頭領がおずおずと顔を上げる。
みかんは背負っていた竹籠を地面に降ろすと、白い布をぱっと外した。中には、アルルが几帳面に切り分けた上質な干し肉と、先ほど麓で買った、太陽のように鮮やかな橙色のみかんが山盛りに積まれていた。
「はい、これ! みんなで食べよう!」
みかんは一番大きく実ったみかんを手に取り、頭領の節くれだった両手の上にことんと載せた。
「ち、ちょっと待ってください姫様! あれは今後の配給計画に基づいた貴重な備蓄分で……!」
「アルル、いいの! ほら、フラッペも斧をしまって。みんなでお話しよ!」
有無を言わせぬ天真爛漫さに圧され、フラッペは苦笑しながら大斧を背中に戻した。アルルもこめかみを押さえ、「私の胃薬の備蓄も増やしておくべきでしたね……」と深くため息をつきつつ、警戒を解いて歩み寄る。
みかんは器用に皮を剥き、ぷっくりと実った果肉を一房、頭領の口元へ差し出した。
「甘くて美味しいよ。分け合って食べるとね、一人で食べるよりずっと、ずーっと美味しいんだから!」
爽やかな柑橘の香りが鼻をくすぐり、頭領は恐る恐るその房を口に運んだ。
噛み締めた瞬間、あふれ出す甘酸っぱい果汁が、乾ききった喉と五臓六腑に染み渡っていく。
「う……うめぇ……なんだこれ……すげえ、甘ぇよ……!」
大男の瞳から、ボロボロと大粒の涙がこぼれ落ちた。泥に汚れた頬を涙が伝い、地面に黒い染みを作っていく。
「すまねえ……すまねえ、お嬢ちゃん……! 俺たちだって、こんな真似したくなんかなかったんだ……!」
頭領は地面に両手をつき、むせび泣きながら語り始めた。
彼らはもともと、オランジュ公国の国境近くにあった貧しい開拓村で実直に土を耕していた農民たちだった。しかし、ここ数年で領主から課される税が何倍にも跳ね上がり、収穫した作物をすべて差し出しても到底足りない額を要求されるようになったという。
「畑も家も全部差し押さえられちまって……納める税がねえなら首を跳ねると脅された。逃げ出すしかなくて、着の身着のままで公国を脱出して、この峠の岩山に潜り込んだんだ……。だけど、木の実も野草も底をついて、仲間が一人、また一人と倒れていって……。もう、こうするしか生きる道がなかったんだよ……!」
他の男たちも、みかんから手渡された干し肉と果実を胸に抱きしめ、嗚咽を漏らしていた。
アルルが静かに歩み寄り、眼鏡の奥の瞳を険しく細める。
「……なるほど。過酷極まる取り立てですか。その法外な重税は、一体どこの誰に納めるものだったのですか?」
「オランジュ公宮の、ロドルフ公爵様直轄の徴税官だよ……! あの冷酷な公爵が実権を握ってから、俺たちみたいな貧しい末端の村にまで、途方もない軍備金だの臨時税だのが課されるようになっちまったんだ……」
その名が口にされた瞬間、三人の間に衝撃が走った。
「ロドルフ公爵……!」
アルルが息を呑み、フラッペの顎が怒りで硬く強張る。
自分たちを公都から追いやったクーデターの黒幕と、目の前で飢えに泣く名もなき民を追いつめた悪政の首魁——その二つが、一本の残酷な線で完全に結びついたのだ。
「……あの腐れ外道が」
フラッペが拳を握りしめ、ギリリと歯を鳴らした。
「自分たちの贅沢と野心のために、公都だけでなく、こんな辺境の民の血肉まで啜り上げてやがったのか……!」
みかんは、膝をついて泣きじゃくる頭領の姿をじっと見つめていた。
その胸に去来したのは、母を奪われ、城を追われた自分自身の悲哀だけではなかった。自分たち公族が気づかぬうちに、民がこれほどまでに理尽な苦痛に晒されていたという、激しい衝撃と申し訳なさだった。
小さな両手をぎゅっと握りしめる。その瞳には、いつもの無邪気な光とともに、強い決意の炎が灯っていた。
(ロドルフ公爵のせいで、こんなに真面目で優しい人たちが泣いている……絶対に、このまま放っておけない!)
みかんは涙を拭う頭領の背中を優しく撫でると、すっと振り返り、頼もしい青年の顔を見上げた。
「ねえ、アルル。何かいい方法はないかな? この人たち、どうしても助けてあげたいの!」
みかんの真っ直ぐな瞳に見つめられ、アルルは眼鏡を外して眉間を指で揉みほぐした。
深い思考の海へ沈むように、静かに息を吐き出す。
「……気持ちは痛いほど分かります、姫様。ですが、安易な同情はかえって彼らを滅ぼします。たとえば、彼らにこの峠で自警団を名乗らせたとしても、先立つ活動資金も糧食もここにはありません。かといって、この痩せた岩山を切り拓いて農地にしようとしても……越境して捜索を続けるロドルフの部隊に嗅ぎつけられれば、再びすべてを奪い取られるだけです。逆らえば、今度こそ見せしめに全員首を跳ねられ、家族ごと根絶やしにされるでしょう」
冷徹なまでに現実を突きつけるアルルの分析に、頭領たちは青ざめ、がっくりと肩を落とした。
その場にいた男たち全員が絶望に打ちひしがれ、重苦しい沈黙が広がる。
そんな中、フラッペが太い腕を組み、アルルの肩をドンと荒っぽく小突いた。
「おいおい参謀殿、できない理由を並べるだけで終わりってわけじゃねえだろ? お前は公都仕込みの天才なんだ。この連中が生き延びられるウルトラCの一つや二つ、その賢い頭ン中に隠し持ってるはずだぜ」
「フラッペ、貴方という人は軽々しく無茶振りを……」
アルルが苦い顔で振り返ると、そこには、みかんの澄んだ瞳があった。
みかんはアルルの衣の裾をきゅっと掴み、一切の疑いを持たない、純粋な信頼に満ちた目でアルルをまっすぐに見つめていた。
——アルルなら、絶対にこの人たちを助けてくれる。
言葉はなくとも、その強い眼差しが雄弁に語っていた。
二人の視線を浴び、アルルは観念したように短く息をこぼす。
「……まったく。お二人揃って、人使いが荒いにも程があります」
そう呟きながらも、その口元には薄い笑みが宿っていた。
静かに眼鏡を掛け直すと、アルルは懐から上質な革表紙の手帳と万年筆を取り出す。
「この峠に彼らの居場所がないのであれば、答えは一つしかありません。——ヴェルデ王国へ完全に身を寄せさせるのです」
「えっ、隣国へ……?」
「幸いにも、これから向かう隣国『ヴェルデ王国』の宰相は、かつて私が学府で机を並べ、ともに財政学と国家経営を学んだ無二の親友です。彼は極めて合理的で、かつ民草を愛する高潔な人物。現在、あちらの国境沿いでは広大な未開拓地の開墾計画が進められており、勤勉な労働力を喉から手が出るほど求めています。彼に事情を説明した手紙を認め、あなた方家族が受け入れてもらえるよう頼み込んでみましょう。彼ならば、決して無下にはしないはずです」
アルルは手帳から羊皮紙の一葉を丁寧に切り離すと、流れるような美しい筆致で紹介状を書き始めた。手紙を折りたたんで蝋で封じ、自らが身につけていた公妃直属の銀の印章をしっかりと押し付ける。
「この封書を、隣国の最初の正規関所で『ヴェルデ宰相宛ての親書である』と役人に託し、取り次ぎを願い出なさい。宰相にさえ届き私の名が伝われば、彼があなた方の身の安全と、開墾地での真っ当な生活の機会を保障してくれるでしょう」
さらりと語られた救済の糸口は、絶望の淵にあった男たちにとって奇跡の希望そのものだった。
アルルから差し出された封書を、頭領は震える両手で丁重に受け取った。
「ほ、本当か……? 俺たちみたいな逃散百姓を……隣国の大臣様が受け入れてくれるかもしれないなんて……!」
しかし、アルルはそこで険しい表情を崩さず、厳しい声音で釘を刺した。
「ただし——これには絶対の条件があります。関所の役人や宰相本人も含め、何人たりとも『私たち公女一行が同行していたこと』や『私たちの現在の行き先』については決して口外しないでいただきたい。……実を言えば、私たち自身もまた、そのロドルフ公爵の放った追っ手から逃れている最中なのです。力及ばず、申し訳ありませんが……今の私にできる手助けは、親友への手紙を託すことが最大限なのです」
アルルの重々しい告白に、頭領は息を呑み、そして隣に立つみかんの愛らしい顔を見つめた。
追われる身でありながら、見ず知らずの自分たちに分け隔てなく温かい果実を差し出し、微笑みかけてくれた少女。頭領の胸に、熱い感情が込み上げてくる。
「旦那方……そんな危ねえ状況だったのか……。それなら、いっそ旦那方や姫様も、一緒に隣国のお世話になったらいかがですか? 俺たち全員、その姫様にお仕えしてもいい! 命を救われた恩だ、骨を埋める覚悟で、あんたたちの盾にだってなりますぜ!」
頭領の必死の訴えに、後ろに控えていた男たちも「そうだ!」「俺たちも力になりたい!」と力強く頷き合った。
だが、アルルは首を静かに横に振った。
「お気持ちはありがたい。ですが、それはできません。……いらぬ戦の口実を、あの奸臣に与えかねないのです」
「戦の口実……?」
「ええ。ヴェルデ王国は小国であり、国力を高めるために今は必死で開拓を進めている最中です。いかに謀略によって不当に実権を奪ったとはいえ、現在のオランジュ公国を握るロドルフ政権の軍事力は、ヴェルデ王国を遥かに凌駕しています。もし正統な公女である姫様が隣国へ亡命したと知れ渡れば、ロドルフはそれを『反逆者の引き渡し』や『主権侵害』という大義名分に仕立て上げ、ヴェルデ王国へ軍を差し向けるでしょう。そんな火種を持ち込むわけにはいかないのです」
アルルの冷徹で広範な国際情勢の分析に、頭領はぐうの音も出ず、圧倒されたように口を閉ざした。
自分たちのことだけでなく、受け入れ先となる隣国の平和まで見据えた上での判断だと悟ったのだ。
「……旦那は、本当に底知れねえ御仁だ。わかりました。このご恩は絶対に無駄にしねえ。手紙のことも、あんたたちのことも、俺たちの命に代えても墓場まで持っていきます」
「感謝します。向こうへ着いたら二度と武器を他人に向けず、実直に大地を耕すと約束してくださいね」
「約束する……! 約束するよ! 骨が折れるまで働いて、今度こそ真っ当に生きてみせる……!」
頭領は涙を拭い、立ち上がると、決意に満ちた強い眼差しでアルルとみかんを見据えた。
「旦那方、お嬢様。それなら、俺たちも一緒に隣国ヴェルデ王国まで連れていってくだせえ! 道案内役として、俺たち全員がお供します!」
「道案内、ですか?」
「ああ。この先の本道には、ロドルフ公爵の配下が目を光らせる厳重な監視所がある。あそこを通ろうとすれば身ぐるみ剥がされ、怪しい者は容赦なく捕縛されちまう。……だが、関所を完全に迂回して隣国の穏やかな平原へ直接出られる、旧鉱山の抜け道があるんだ。ただ、その坑道の中には崩落しかけた足場や迷路のように入り組んだ分かれ道があって、初見の旅人じゃ通り抜けられねえ危険な難所なんだよ。俺たちなら、裏の裏まで知り尽くしてる。旦那方とお嬢様を、安全に隣国まで案内してみせます!」
「……なるほど。初見では通れぬ難所を、熟知した案内人つきで突破できるわけですか。公爵派の厳重な包囲網を完全に欺き、無血で国境を越える……。彼らに手紙を書いた投資のリターンとしては、あまりに破格ですね」
「ほらね、アルル! みかんをみんなで分けて、みんなで助け合ったら、ぜーんぶ大正解になったでしょ?」
胸を張ってえっへんと笑うみかんに、アルルは深々とため息をつきつつも、その口元には柔らかな苦笑が浮かんでいた。
「……まったく、恐れ入りました。あなたの無鉄砲な善意には、私の緻密な計算すら飛び越えて活路を切り開く、不思議な力があるようだ」
「がはは! さあ乗った乗った、頼もしい案内人たちと一緒に、日が暮れねえうちに峠を越えちまおうぜ!」
フラッペが豪快に笑いながらみかんをひょいと抱え上げ、幌馬車の荷台へと戻した。
一行はまず、旧坑道の入り口の手前にある切り立った岩陰の隠れ家へと向かった。
そこには、男たちが避難させていた家族たち——飢えと不安で青ざめた妻たちや、痩せこけた小さな子どもたち、腰の曲がった老人たちが身を潜めていた。
突然現れた見慣れぬ馬車に怯える家族たちへ、頭領が涙ながらに「もう怯えなくていい! 隣国へ行けるんだ、真っ当に畑を耕せるんだ!」と封書を掲げて告げると、隠れ家は歓喜と安堵の涙に包まれた。
こうして一行は、元山賊の家族全員を引き連れた大所帯となって、固く閉ざされた旧坑道へと足を踏み入れた。
坑道内は昼間でも漆黒の闇に覆われ、湿った冷気が肌を刺す。
松明の赤い揺らめきの中、男たちの先導で進んでいくと、やがて足元から水音が響く不気味な空間へと出た。
「止まってくれ! ここは古い採掘跡で、坑道の底が完全に抜け落ちちまってるんだ」
頭領が松明をかざすと、足元には底の見えない巨大な縦穴がぽっかりと口を開けていた。かつて掛けられていた木橋は朽ち果て、わずかに残る岩棚も脆くひび割れている。一歩踏み外せば、奈落の底へ真っ逆さまである。
「大丈夫だ、俺たちについてきてくれ! この壁伝いの岩棚は、手前の黒い鉱脈のラインを踏めば絶対に崩れねえ。荷車や馬は、俺たちがロープで岩壁に固定しながら一頭ずつ慎重に渡す!」
男たちは手慣れた連係で手すり代わりのロープを張り、子どもや老人を背負いながら、危険な底抜け地帯を確実に誘導していった。土地を知り尽くした彼らの案内がなければ、間違いなく転落して全滅していたであろう恐るべき難所だった。
しかし、底抜け地帯を無事に越えた先で、さらに深刻な難問が立ちはだかった。
過去の大落石によって岩壁が内側にせり出し、道幅が極端に狭まった「針の穴」と呼ばれる狭隘部である。馬が一頭ずつならなんとか通り抜けられるものの、荷物を満載した馬車の車幅では岩壁に引っかかり、到底通り抜けるスペースは残されていなかった。
「くそっ、ここまでか……!? 昔より落石が進んで、馬車の幅じゃ通れねえ!」
頭領が唇を噛んで悔しがった。馬車を乗り捨てれば、病弱な老人や子どもたちを抱えての移動は不可能になってしまう。
絶望が漂いかけたその時、アルルが眼鏡の位置を正し、静かに前に出た。
「諦めるのは早計です。道が広がらないのであれば、馬車のほうを道に合わせればいいだけの話です」
「あ、合わせるって……どうやって!?」
「馬車をここで完全に解体し、全部材を手分けして運び、狭隘部を抜けた先で再組み立てを行います。馬は一頭ずつ引いて通り抜けさせましょう」
アルルは手帳を取り出すと、万年筆で素早く馬車の骨組み図を描き上げ、的確な指示を飛ばし始めた。
「幌を外して骨組みのボルトを緩めなさい! まずは上部構造、次に座席、そして車軸と車輪の順です。木組みの接合部には番号を振っておきますから、決して力任せに引きちぎらないように。外したボルトと留め具は、紛失せぬようこの布袋にまとめて保管してください!」
理路整然とした無駄のない指示に、呆然としていた男たちが「お、おう!」と慌てて動き出す。
そして、最大の難関である車輪と車軸の取り外しに差し掛かった時だった。
長年の錆と泥で固着し、大人の男が四人がかりで引っ張ってもびくともしない巨大な鉄輪を前に、フラッペが腕をまくって前に出た。
「おいおい兄ちゃん方、腰が入ってねえぜ。邪魔だからそこをどきな!」
フラッペは深紅の甲冑を鳴らし、巨木のような両腕で馬車の台座をガシリと掴むと、ふんっと短く息を吐いた。
「——ぬんッ!!」
ギリギリと木枠が軋む音とともに、フラッペは重量数百キロはある馬車の後部を、たった一人で軽々と持ち上げてみせた。さらに、空いた片手で固着した大車輪の軸を掴むと、力任せにぐいっと引き抜く。
ゴキン! と重たい金属音が響き、頑丈な鉄輪が呆気なく外れた。
「「「う、嘘だろ……!? なんだあの馬鹿力は……!?」」」
男たちが腰を抜かさんばかりに目を剥き、顎を外して固まる。
フラッペは何食わぬ顔で大車輪を肩に担ぎ上げ、「がはは! 見てねえで手ぇ動かしな、日が暮れちまうぞ!」と豪快に笑い飛ばした。
解体された部材は男たち全員で手分けして担ぎ、目隠しをした馬を引いて狭い岩の裂け目を慎重に通り抜けていく。
そして、難所を越えた先の開けた坑道で、今度はアルルの緻密な差配のもと、部材の再組み立てが行われた。驚くべき手際の良さで、馬車は元の頑丈な姿へとみるみる復元されていく。
その大掛かりな作業の横で、甘く香ばしい匂いが漂い始めた。
広い岩棚のスペースでは、みかんが腕まくりをして、元山賊の妻や子どもたちと一緒に忙しく立ち働いていた。
「はい、おばちゃん! お水、これで足りる?」
「ありがとうねえ、お嬢ちゃん。本当に助かるよ」
みかんは小さな子どもたちに囲まれながら、持参した大鍋で干し肉と野草の温かいスープをことことと煮込み、器用に木の椀へと注ぎ分けていく。子どもたちには、麓で買った鮮やかなみかんを一つずつ手渡し、皮の剥き方を教えていた。
「はい、どうぞ! 食べる前に、皮の匂いをくんくんって嗅ぐとね、元気が出るんだよ!」
「わあ……! あまい! お姉ちゃん、すっごく甘いよ!」
「えへへ、でしょ? みんなで食べると、もっともっと美味しいんだから!」
暗く湿った坑道の中に、子どもたちの歓声と、母親たちの柔らかな笑い声が広がっていく。
汗だくになって馬車の組み立てを終えた男たちやフラッペ、アルルのもとへ、みかんは湯気の立つ椀を抱えて駆け寄った。
「アルル、フラッペ、みんな! ごはんできたよー! ちゃんと食べて力をつけなきゃ駄目なんだからね!」
手渡された温かいスープと甘いみかんを口に運び、男たちは再び目頭を熱くした。
重労働の疲れを忘れさせる温もりと、幼子たちの屈託のない笑顔。かつて絶望に沈んでいた彼らの心は、みかんの天真爛漫な優しさと、二人の頼もしい従者の力によって、完全に救い出されていた。
腹ごしらえを終え、再び動き出した一行。
男たちの熟練の先導と、確かなチームワークによって、坑道内の残る分岐や足場の脆い難所も難なく踏破していった。
やがて、前方に眩いばかりの白い光が見えてくる。
蔦で覆われた坑道の出口を押し広げると、そこには、どこまでも広がる穏やかで緑豊かな平原が広がっていた。
隣国「ヴェルデ王国」の領土である。
頭上にはどこまでも青く澄み渡る空が広がり、爽やかな風が一行の頬を優しく撫でた。
新天地の柔らかな日差しを浴びながら、頭領と家族たちは、胸に抱いた封書を握りしめて歩き出す。何度も何度も振り返り、深々と頭を下げて手を振る彼らの背中を、三人は御者台から見送っていた。
その時、腕を組んだフラッペが、横のアルルへぼそりと声をかけた。
「……おい、アルル。あいつら、本当に俺たちのこと喋らねえと思うか?」
アルルは手綱を握り直し、眼鏡のブリッジを押し上げながら涼しげに答えた。
「いいえ、無理でしょうね。幼い子どもたちも大勢いますし、生活が落ち着けばいずれ噂話から遅かれ早かれ足がつきます」
「おいおい、あっさり認めやがったぜこの参謀。追っ手が嗅ぎつけてくるってのか?」
「ええ。ですが、万が一の時にその追っ手を一掃するために——貴方の『烈火の無双斧』があるのでしょう?」
不敵に微笑むアルルに、フラッペは一瞬虚を突かれたように目を丸くし、次いで豪快に破顔した。
「ちげぇねえや! 追っ手だろうが軍勢だろうが、まとめて叩っ斬って薪にしてやるぜ!」
「あはははっ!」
並んで笑い合う二人を見て、幌の隙間から顔を出したみかんが、満開の花がほころぶようににっこりと笑った。
「ふふっ、二人はほんっと仲良しさんね!」
祖国を覆うロドルフ公爵の悪政の深さを知り、必ず祖国の民に笑顔を取り戻すという新たな覚悟を宿した三人。
かつて絶望に震えていた農民たちと家族の未来を切り拓き、新天地へと繋いだ松明の光の先には、甘いみかんの香りと、確かな希望が満ちていた。
(第3話・おしまい)




