第2話:森の薬草と冷たい水
誰かに差し伸べた手の温もりは、時が過ぎても、その人の心に残っているのかもしれません。
公都を逃れたみかんたちを待つ、国境の関門と深い森。
まだ不安の尽きない旅路で、小さな公女は、誰かのために自分ができることを見つけていきます。
第2話は、冷たい水と、温かな心のお話です。
夜の帳が西の山並みへと引き下がり、冷たい朝靄が針葉樹の深い森を白く染め上げていた。
公都オランジュから逃れ出た一台の幌馬車は、獣道を抜け、ようやく公国最外縁――隣領との境を区切る「ヴェルデ国境関門」の手前へと差し掛かっていた。
頑丈な石造りの砦と、道を塞ぐ幾重もの鉄柵。
昨夜の公宮での政変はすでに早馬で伝わっているのか、関門には十数名もの重装歩兵が物々しく槍を並べ、出入りするわずかな商人や農民たちの荷を容赦なくひっくり返して検問を行っていた。
「……関門の警備が、こちらの予想以上に増強されていますね」
幌の隙間から前方をうかがい、アルル――アルベドが、眼鏡の奥の切れ長な瞳を険しく細めた。
彼の膝の上には、宮廷文庫から持ち出した白紙の羊皮紙に、隣領へ交易に向かう「乾物商人」の印章を完璧に偽造した通行証が載せられている。
「書類の偽造に不備はありません。ですが、関門を束ねる守備隊長がロドルフ派の息のかかった者であれば、荷台の隅々まで暴かれるでしょう。……戦端を開く覚悟も必要です」
「おう、いざとなりゃあの柵ごと叩き割って、一気に駆け抜けるまでよ」
御者台でぼろ布の外套を深く被り、手綱を握るフラッペ――フラベドが、低い声で応じた。荷台の隅に麻布で巻かれて隠された巨大な戦斧が、主の静かな闘志に呼応するかのように微かに重い光を放っている。
荷台の藁の中では、みかん――オレンジが、母から託された硝子の首飾りを小さな両手で包み、息を殺していた。
十歳の少女の胸は早鐘のように打っていたが、彼女は唇をキュッと結び、二人の邪魔をすまいと必死に耐えていた。
「おい、そこの馬車! 止まれ!」
関門の鉄扉の前で、革鎧を着込み、腰に長剣を佩いた厳つい門番兵が槍を突き出してきた。
フラベドが手綱を引き、わざと背を丸めて馬車を止める。
「へ、へい……旦那方、朝早くからご苦労様でさあ」
「どこへ行く。積荷は何だ」
荷台からアルルが静かに顔を出し、丁寧に折り畳んだ通行証を差し出した。
「隣領の自由市場へ、乾燥キノコと木の実を納めに向かう商人にございます。こちらが正規の商用通行証。検めを」
門番兵は通行証をひったくるように受け取り、目を走らせた。印章にも記載内容にも不備はない。
だが、門番兵の視線が、御者台に座る大男の顔へと向けられた瞬間――。
ピキリ、と男の動きが止まった。
フードの陰から覗く、鋭い眼光と無精髭。並外れた太い首筋と、外套の上からでも隠しきれない異様な筋骨の隆起。
門番兵の目が、見開かれた。
「おい……貴様、顔を上げろ」
「……へ? あっしはしがねえ馬車引きでさあ」
「顔を上げろと言っているんだ!」
門番兵が激高し、腰の長剣の柄に手をかけた。その叫び声に、周囲で検問を行っていた他の兵士たちや、関門の櫓の上にいた弓兵たちが一斉にこちらへ視線を向け、ざわりと緊張が走る。
荷台の中で、アルルの右手が外套の袖口に隠した投擲用の短剣へと伸びた。
フラッペもまた、外套の下で拳を固く握り、足元の戦斧の柄へ指をかける。みかんは胸の前で手を組み、祈るように瞳を閉じた。一触即発の空気が、凍てつくように張り詰める。
門番兵は、周囲の兵士たちにもはっきりと聞こえるような怒号を響かせた。
「ここを通すわけにはいかん! おい、貴様……名を何という! どこから来て、どこへ行く気だ!」
怒声が関門に木霊する。他の兵士たちが槍を構え、馬車を取り囲もうと足を速めた。
絶体絶命の危機。フラッペが戦斧を抜き放とうと身じろぎしたその時――門番兵がぐっと身を乗り出し、フードの奥のフラッペの目元へ、ほんの数寸の距離まで顔を近づけた。
門番兵の瞳が、激しく揺れていた。
怒りではない。それは、驚愕と、畏敬と、そして込み上げる熱い感情の揺らぎだった。
男は周囲の兵士たちに背を向け、フラッペの耳元だけに届くような微かな震え声で、早口に囁いた。
「……俺は、あの御仁の顔を忘れたことなど一度もない。公国最強の武人、『烈火の無双斧』フラベド様……見間違えるはずがない」
フラッペの眼が、わずかに見開かれる。
「三年前、城外の深い森で野盗に襲われ、虫の息だった私の母を背負い、夜通し歩いて都の施療院まで運んでくださったのは、他ならぬ貴方様だ。名も告げず立ち去られたが、あの大斧と、そのお顔を忘れるものか……。かの御仁は高貴なお方で、俺たちのような名もなき一市民の命すら、決して見捨てない真の英雄だった……」
門番の喉が、熱い呼気で震えていた。
王宮で何が起きたのか、末端の兵卒である彼にも薄々伝わっていたのだ。ロドルフ公爵の私兵たちが宮廷を荒らし、正統なる血筋と忠臣たちが追われているという凶報が。
男は、フラッペの目を見つめた。
そして、周囲を取り囲みかけた同僚の兵士たちを振り返ると、わざとらしく大きく首を振り、甲高い声で呆れたように笑い声を上げた。
「……あ、あれえ!? なんだ、フラベド様かと思ったが……よく見りゃ、フラベド様のお顔には、もっとこう、右の頬に豪快な刀傷があったはずだ! なんだ、人違いじゃねえか!」
兵士たちの足が止まる。
「なんだよ、人違いか?」「脅かすなよ、おい」
門番兵は通行証をアルルの胸元へ乱暴に押し戻すと、わざと忌々しそうに馬車の車輪を蹴飛ばしてみせた。
「まったく、紛らわしい面構えをしてやがる! 荷台の野菜もカビ臭くてたまらんわ! おい、開門しろ! とっとと通しちまえ!」
ギギギ……と鈍い音を立てて、関門の重い鉄柵が引き上げられていく。
「……すまねえな、旦那」
フラッペが、掠れた低い声で言った。
門番兵は背中を向け、腰の長剣をガチャリと鳴らしながら、小さく呟いた。
「……よく似た御仁ですな。道中、くれぐれもお気をつけられよ」
その横顔を、朝靄の光が照らし出していた。
厳つい無骨な門番の頬を、一筋の熱い涙が、人知れず静かに伝い落ちていた。
「出発すぞ!」
フラッペが手綱を鋭く打ち鳴らした。
幌馬車は軋んだ音を立てて関門をくぐり抜け、公国の外へと続く広大な森の街道へと滑り出していった。
背後で、重々しい鉄柵が再び閉じられる音が響く。
冷たい朝風が吹き抜ける中、フラッペは前方を睨み据えたまま、手綱を握る革手袋で乱暴に目元をこすった。
「……ちくしょうめ。都にゃ、まだ骨のある奴が残ってやがる」
「……ええ。貴方がかつて救った小さな命が、今、私たちの命を繋いでくれましたね」
荷台の中で、アルルが深く息を吐き出しながら、静かに微笑んだ。
藁の中から顔を出したみかんも、母の首飾りを握りしめ、遠ざかる関門の砦を見つめていた。
名も知らぬ門番のおじさんが見せた、あの涙。
人を助けるということの尊さが、幼い少女の心に、消えない温かな火を灯していた。
国境を告げる石柱を越えたとき、空は完全に白み始め、夜の冷気を含んだ朝霧が森の木立を濡らしていた。
公国の領域を脱したことで、張り詰めていた空気はようやく緩みを見せ始めていた。
「……ひとまず、第一関門は突破ですね」
馬車の幌の隙間から後ろを振り返り、アルルは眼鏡の位置を直しながら静かに息を吐いた。
公宮を出てから一睡もしていないはずだが、その怜悧な顔立ちには疲れを見せず、手元の帳面にこれからの補給地点や山道の高低差を素早く書き留めている。
一方、荷台の奥に敷かれた藁と粗末な毛布の上で、みかんは小さなあくびをひとつ漏らした。
「ふあぁ……。アルル、もう追っ手のおじさんたちは来ない?」
「油断は禁物ですが、この先の森は隣領の管轄です。あからさまな兵の捜索は入り込めません。少しばかり、体を休められますよ」
「よかったぁ! 見て見て、フラッペ! お日さまが出てきたよ!」
みかんは幌から顔を出し、朝日を浴びて黄金色に染まる針葉樹の梢を指さした。
昨夜あれほど怯え、涙をこぼしていた少女とは思えないほどの切り替えの早さと屈託のなさだ。
御者台のフラッペが太い首を巡らせて、白い歯を剥き出しにして笑った。
「おう、綺麗だな、お嬢! 朝飯にすっか。昨日の残りの干し肉と、固焼きパンがあるぜ」
「私、木の実探してくる! ほら、あそこに赤いのいっぱい生えてる!」
馬車が小川のほとりに止まるや否や、みかんは軽やかな足取りで跳ねるように飛び降りた。草露で靴を濡らしながら、小さな手で野イチゴの茂みへ駆け寄っていく。
「あ、これ甘い! アルル、口開けて!」
「ひ、姫様、いえみかん様! 洗いもせず野生の実を口にするなど……むぐっ」
「美味しいでしょ?」
「……確かに甘いですが、衛生管理というものがですね……」
不服そうに口をもごもごさせる知者と、それを見て腹を抱えて笑う大男。
過酷な逃亡の旅であるはずなのに、みかんの瞳がきらきらと輝いているだけで、まるで賑やかな遠足のように森の空気がやわらいでいく。
だが、そんな穏やかな時間は、森の奥へと進むにつれて静かに影を落とし始めた。
午後の日差しが木々の間から斜めに差し込む頃、街道の脇に、数軒の丸太小屋が身を寄せ合うように建つ小さな集落が見えてきた。木材を切り出して生計を立てている木こりたちの村のようだが、広場にはただならぬ混乱の気配が満ちていた。
煙突から煙は上がっておらず、大人たちが青ざめた顔で小屋を出たり入ったりと右往左往している。母親たちの泣き叫ぶ声と、父親たちのやり場のない怒号が木霊し、村全体が途方に暮れていた。
「……おかしいな」
フラッペが馬の手綱を引き、荷台の戦斧の柄に手をかけた。
「野盗の襲撃じゃなさそうだ。だが、村中がひっくり返ったような騒ぎだぜ」
「様子を見ましょう。ただし警戒は怠らずに」
アルルが短剣を帯に忍ばせ、馬車を降りた。
みかんも二人の後ろから、そっと顔を覗かせる。
村の広場の中央にある古びた井戸のそばで、十歳ほどの少年が粗末な筵の上に寝かされ、苦しげに肩を上下させていた。その周りを囲む親たちは、ただ手を握り、神に祈るしか術がない様子で泣き崩れている。
「あの子……!」
アルルが制止の声をかける間もなく、みかんは駆け出していた。
「危ない、みかん様!」
「大丈夫だよ! すっごく苦しそうなんだもん!」
駆け寄ったみかんが少年の額に触れると、掌に、熱湯のような熱気が伝わってきた。唇は渇いてひび割れ、荒い息が漏れている。
「すごく熱い……! アルル、フラッペ、早く来て!」
二人が駆け寄り、アルルが少年の首筋に指を当てて素早く脈を測った。眼鏡の奥の瞳が鋭く細まる。
「ひどい高熱です。脈が異常に速い……」
杖をついた白髪の老人が、涙を拭いながらふらふらと歩み寄ってきた。この集落の長らしい男だ。
「旅のお方……すまねえが、あまり近寄らねえほうがいい……。二日前から、村の『子どもたちだけ』が、次々にこの火吹き熱に倒れちまってな……。大人にはうつらんようだが、小さな体じゃ耐えきれねえ……。どう介抱してやりゃいいのかも分からず、ただ見守ることしかできねえんだ……!」
老人の言葉通り、集落の小屋という小屋から、うなされる子どもたちの弱々しい泣き声が漏れ聞こえていた。大人たちは薬の知識もなく、熱に焼かれる我が子を前に、完全に途方に暮れていたのだ。
「みかん様、離れてください!」
アルルが切迫した声でみかんの肩を引き寄せ、険しい眼差しで告げた。
「子どもだけが罹患する病であるならば、十歳のみかん様も感染する危険が極めて高い。追手に見つかるリスクを差し置いても、即刻この場を立ち去るべきです」
公女の身の安全を最優先に誓った従者として、アルルの進言は痛切で、至極もっともなものだった。
だが、みかんは立ち上がらなかった。
引き戻そうとするアルルの手をそっとほどき、少年を木陰へ抱き起こした。自分の水筒から冷たい水を掌に受けて、少年の渇いた唇を優しく潤してやりながら、アルルをまっすぐに見上げた。
「アルル。私、お母様と約束したの。『どんな暗闇の中でも、笑顔を忘れないで、誰かの灯りになりなさい』って」
少女の澄んだ大きな瞳には、一筋の迷いもなかった。
「この子たちを見捨てて逃げたら、私、もう二度と心から笑えなくなっちゃう。お願い、アルル……あなた、すごく物知りでしょう? この子たちを助ける方法、知ってるんでしょ?」
「……っ」
アルルは言葉を詰まらせた。
幼き公女の純粋な信頼の眼差しが、痛いほど真っ直ぐに突き刺さる。
横で腕を組んでいたフラッペが、やれやれと太い肩をすくめて息を吐いた。
「おいおい、アルルよ。お嬢にあんな目で見つめられて、背中向けて逃げ出せるようなタマだったか、お前は? さっきの関門のあんちゃんにも、顔向けができねえぜ」
「……貴方に言われる筋合いはありませんよ、単細胞」
アルルは小さくため息をつき、懐から小さな帳面と炭筆を取り出した。
「……症状と経過から見て、これは深林特有の『湿毒熱』です。抵抗力の弱い子どもだけが発症し、放っておけば内臓が焼かれ、三日と持ちません。解毒には、強い抗菌作用を持つ『紫光草』を煎じて飲ませる必要があります」
「紫光草!」みかんの顔がぱっと明るくなった。「どこにあるの!?」
「問題はそこです。紫光草は極めて日光を好む植物。この深い森では、街道から北へ半里ほど登った先にある、あの切り立った岩山の断崖絶壁にしか生息しません」
アルルが指さした先には、霧の向こうにそそり立つ、鋭利な刃物のような灰色の岩壁があった。
「あそこを登るなど、常人には不可能です。滑落すれば即死――」
「おいおい、アルル。誰に向かって言ってんだ?」
ドスン、と地面を鳴らして前へ出たのは、フラッペだった。
彼は深紅の甲冑の籠手を締め直し、ニヤリと豪快な笑みを浮かべた。
「俺はな、『烈火の無双斧』なんてもったいねえ二つ名をもらう前は、山の猟師の小倅だったんだ。あんな岩肌、赤子の階段みたいなもんよ」
「フラッペ……!」
「お嬢。ちょいと水でも汲んで、坊主の頭でも冷やして待ってな。日暮れまでには絶対に戻ってくる。ひとっ走り、草むしりに行ってくらあ!」
フラッペは軽やかな身のこなしで大地を蹴り、風のように岩山へと駆けていった。
フラッペが去った広場で、みかんはすぐに動き出した。
井戸へ駆け寄り、小さな体には重すぎる木桶を両手でしっかりと抱え、冷たい水を汲み上げる。手ぬぐいを濡らして絞ると、倒れていた少年の額へ、そっと丁寧に当てた。
「大丈夫だよ。お薬はすぐ来るからね。痛いの、飛んでいけー」
何度も、何度も、みかんは手ぬぐいを冷やし直し、少年の荒い息に耳を傾け、小さな両手でその手を握りしめ続けた。汗ばむ額を拭い、ひび割れた唇を潤し、決して諦めることなく笑顔で語りかけ続ける。
その幼い少女の一途な姿を、呆然と立ち尽くしていた大人たちが見つめていた。
名も知らぬ旅の少女が、泥にまみれ、息を切らしながら、自分たちの子どものために必死で冷水を運び、手を握り続けている。
「……何を呆けているんだ、俺たちは!」
少年の父親が、ハッと我に返ったように叫んだ。
「あんな小さな子が、諦めずにあの子の手を握ってくれてるんだぞ! 親の俺たちが泣いてどうする!」
「そうだ! 水だ、井戸からもっと水を汲んでこい!」
「手ぬぐいと布を全部持ってきて! 氷のように冷たい川の水も使おう!」
絶望と混乱に支配されていた村の空気が、一変した。
みかんのひたむきな祈りと行動が、大人たちの胸に灯火を灯したのだ。
父親たちは次々に木桶を担いで井戸や川へ走り、母親たちは家々の戸を開けて、うなされる子どもたちの体を冷やし始めた。広場を覆っていた絶望は吹き飛び、村中が一つになって子どもたちを救うための戦いが始まった。
アルルはその光景を見つめながら、村の広場にかまどを築き、大鍋に湯を沸かして準備を進めていた。
大人たちに混ざり、額に汗を浮かべて無心に走り回るみかんの小さな背中。
それを見つめるアルルの瞳が、柔らかく細められた。
(……そうだ。私もかつて、宮廷で不条理に泣く民の姿を見て、この知恵を誰かのために使おうと決めたはずだった)
公女の安全だけを考えるあまり、視野を狭めていた己の心を、みかんの真っ直ぐな瞳が解き放ってくれたのだ。
「……『助けるべき人を見落とさない』。忘れかけていた大切なことを、教えられましたね」
アルルは独りごち、小さく微笑んだ。
だが、時は無情にも過ぎていった。
高く昇っていた太陽はゆっくりと西へ傾き、森の木立が落とす影は長く伸びていく。
木こりたちにとって、あの鋭利な岩山がいかに登攀困難な魔境であるかは、誰よりも身に染みて分かっていた。
「……まだ、戻られねえのか」
「いくら豪傑のお方とはいえ、あの絶壁だぞ……」
「もしや、滑落でもされたのでは……」
冷水を運ぶ大人たちの足取りに、焦りと疲労が滲み、囁き声が広がり始める。
鍋の湯からは白い湯気が虚しく立ち上り、うなされる子どもたちの息は、依然として荒く苦しげだった。
アルルもまた、遠く茜色に染まり始めた北の岩峰を仰ぎ、眼鏡の縁を押し上げながら固く唇を結んでいた。常人の足ならば往復に丸一日はかかる険路。いくらフラベドとはいえ、日没までに戻るのは至難の業だった。
しかし、みかんの手だけは、決して止まらなかった。
冷え切った井戸水で赤くかじかんだ両手で、何度も桶を抱え、村中の子どもたちの枕元を走り回る。
汗と泥で汚れた小さな頬に、笑顔を絶やすことはない。
「大丈夫、フラッペは絶対に帰ってくるよ!」
みかんは、不安げに俯く母親たちの手をぎゅっと握り返した。
「フラッペはね、すっごく強くて、約束を絶対に破らないの! だからみんな、諦めちゃだめ! 私たちがあきらめたら、この子たち寂しくなっちゃうよ!」
少女の澄んだ、力強い声が広場に響き渡った。
母から託された言葉――「あなたが笑っていれば、周りのみんなの足元を照らす温かな灯りになる」。
その言葉を胸に、みかん自身がひとつの太陽となって、暮れゆく闇を押し返していた。
そのひたむきな瞳に見つめられ、村人たちは涙を拭い、再び力強く頷き合った。
「……そうだ。あのお嬢ちゃんが信じてるんだ。親の俺たちが信じなくてどうする!」
「水だ! 冷たい水を絶やすな!」
村中が再び一丸となり、必死の介抱を続けていたその時――。
太陽の残光が森の稜線を赤く染め、黄昏の紫が濃くなり始めた頃、地鳴りのような重い足音が森の奥から轟いた。
「おいおいおい! 湯は沸いてんだろうな、アルルゥッ!」
森の木々を割り、泥まみれになりながら姿を現したのは、深紅の偉丈夫――フラッペだった。
甲冑のあちこちが鋭い岩肌に削られて擦り傷だらけになり、全身から立ち上る湯気のような汗をまといながらも、その手には、紫色に淡く発光するみずみずしい薬草が、根こそぎ一抱えも握りしめられていた。
「フラッペ……!」
みかんが叫び、駆け寄る。
フラッペは白い歯を剥き出しにしてニカリと笑うと、豪快に親指を立ててみせた。
「へへっ、約束通り、日暮れ前に大漁だぜ、お嬢!」
「うわぁぁっ! 帰ってきた!」「本当にあの崖から薬草を採ってきてくださったぞ!」
広場に、歓喜と安堵の叫びが爆発するように沸き起こった。
「フラッペ、すごい! さすが私のフラッペ!」
「よせやい、お嬢が信じて待っててくれたんだ、這ってでも日没前に戻ってくるさ!」
「お喋りは後です。直ちに煎じます! 火力を最大に!」
アルルが鮮やかな手際で薬草を刻み、調合し、煮立たせた大鍋へ投入した。
瞬く間に、広場いっぱいに清涼感のある爽やかな香りが立ち込める。
大人たちが手分けして薬を受け取り、みかんも一碗ずつ、丁寧に子どもたちの口元へと運んだ。
最初は飲み込む力さえ失っていた子どもたちが、喉を鳴らして温かな薬を飲み干していく。
夜が訪れる頃には、村を覆っていた重苦しい熱気が嘘のように引き始めていた。
子どもたちの荒い呼吸は穏やかな寝息へと変わり、額の熱も平熱へと戻っていった。
「おお……熱が下がった……! 息が、穏やかになったぞ……!」
小屋のあちこちから、むせび泣くような歓声が上がった。
長老をはじめ、看病を終えた大人たちが広場に集まり、涙を流して三人の足元に額づいた。
「旅のお方……何とお礼を申し上げたらよいか……! これはこの村の全財産です、どうか、どうか受け取ってください……!」
差し出された小さな布袋には、銀貨が数枚と、多くの銅貨が詰まっていた。貧しい木こりたちが、日々の暮らしの中で爪に火をともすようにして貯めた全財産だろう。
アルルはその袋を押し戻し、静かに首を振った。
「金銭は受け取れません。我々はただ、通りすがりの旅の者にすぎませんから。ただ……もし余分な干し肉や麦粉があれば、数日分の食料として分けていただければ幸いです。残りの金は、病み上がりの子どもたちの栄養をつけてやるために使ってください」
「そんな……それだけでは、あまりに恩義が……!」
「皆さんの暮らしが元通りになることが、我らにとって何よりの報酬です」
アルルの落ち着いた、しかし温かい声に、村人たちは胸を打たれ、深々と頭を下げた。
広場の端で、そのやり取りを見ていたみかんが、嬉しそうに駆け寄ってきてアルルの袖を引っ張った。
「ねえ、アルル!」
「……何でしょうか、みかん様」
「アルルって、やっぱりすっごく優しいね!」
満面の、一点の曇りもない笑顔。
その笑顔を間近で浴びた知者は、眼鏡の奥で一度だけ目を丸くし、それから観念したように、小さく口元をほころばせた。
「……滅相もございません。私はただ、合理的な判断を下したまでです」
「へっ、照れ隠しちゃってよ!」
フラッペが豪快にアルルの背中を叩き、アルルが「痛いでしょうが!」と怒声を上げる。
夜空には、満天の星が瞬いていた。
村のあちこちの家から漏れ出る、温かな笑い声と安堵の吐息。
母から託された硝子の首飾りに触れながら、みかんは夜空を見上げた。
誰かを笑顔にすることは、こんなにも胸を温かくしてくれるのだ。
関門の門番が見せた涙と、村の子どもたちの寝顔。
その確信を小さな胸に灯し、みかん一座の旅は、翌朝、清々しい朝日とともに再び動き出していくのだった。
(第2話・おしまい)




