第1話:夜陰の脱出と「みかん」の誕生
夜の静寂は、時として刃よりも鋭く人の心を刺す。
かつて太陽と果実の恵みに満ち、旅人たちが「微笑みの国」と称えたオランジュ公国の都は、いまや重苦しい暗雲に閉ざされていた。石畳を踏み鳴らすのは夜警の穏やかな靴音ではなく、冷酷な簒奪者ロドルフ公爵の手勢が帯びた、抜き身の刃の擦れ合う不穏な金属音であった。
その騒乱から遠く隔絶された、公宮の最奥――静謐な離宮の一室。
微かに揺れる蜜蝋の灯火の下、天蓋付きのベッドに横たわる公妃の顔は、抜きがたい病の影によって青白く透き通っていた。だが、枕元に寄り添う最愛の娘の手を包み込む指先には、まだ確かな母としての温もりが残されていた。
ベッドの傍らには、対照的な二人の男が静かに、しかし研ぎ澄まされた鋼のような緊張感をまとって跪いていた。
一人は、白銀の長衣を身にまとった怜悧な青年、アルベド。
大陸屈指の学府を最年少で修め、その明晰な頭脳と公平無私な精神から、宮廷では「清廉の知恵者」と畏敬を集める法官であり従者である。強欲な貴族たちが民から不当な重税を取り立てようとするたび、彼は分厚い法典と完璧な統計を武器に立ちはだかり、どれほど冷酷な権力者の恫喝にも眉一つ動かさずに退けてきた。そんな彼が今夜ばかりは、細縁の眼鏡の奥にある琥珀色の瞳を、抑えきれない苦渋に揺らしている。
もう一人は、巨躯に深紅の板金鎧をまとった無頼の偉丈夫、フラベド。
「烈火の無双斧」の異名をとる公国最強の重騎士であり、辺境の国境紛争を一騎当千の武勇で平定してきた歴戦の猛者だ。戦場では鬼神と恐れられる男だが、城下町の子供たちからは「ヒゲの熊さん」と慕われ、困っている民を見過ごせない情の厚さを持っていた。その剛腕が、今は悔しさにわななき、厚い手袋に包まれた拳を寝台の敷布の上で固く握りしめている。
「アルベド、フラベド……」
公妃の、掠れながらも鈴のように澄んだ声が、張り詰めた室内に落ちた。
「我が国が誇る、清廉の知恵者と、烈火の無双斧。民の暮らしを守り、不条理と戦い続けてくれたそなたたち二人に、この子を託せるのですもの……。私は、安心してあの子を送り出せます。どうか、オレンジを……私の大切な光を、ここではないどこか、安全な場所へ連れていってください」
「公妃殿下……」
アルベドが、いつもの怜悧な声を微かに震わせ、畳んだ膝の上で拳を握り直した。
「……臣下として、御身をお救いできぬ己の無能、万死に値すると恥じ入るばかりです。ですが、たとえこの身が千々に引き裂かれようとも、オレンジ様だけは必ずや、安全なる地へと導いてみせます。我が知恵のすべてを懸けて、姫様の行く末に影を差させはいたしません」
フラベドもまた、胸板を叩き、地鳴りのような低い声で床板を震わせた。
「殿下、滅相もねえ。俺のような流れ者の野良犬を拾い上げ、誇りある騎士の列に加えてくださったのは、他ならぬ殿下とお嬢だ。俺の斧が砕け、この首がへし折れるその瞬間まで、お嬢の爪先一つ触れさせやしねえ。……約束しますぜ」
公妃は痛ましげに、けれど春の陽光のような穏やかさで微笑んだ。
そして、ベッドの脇で不安そうに立ち尽くしていた少女――公女オレンジを、そっと胸元へと抱き寄せた。
オレンジは今年でまだ十歳。
鮮やかな橙色に波打つ豊かな髪と、琥珀を溶かしたような大きく澄んだ瞳を持つ少女だ。公女でありながら、城の庭師と土いじりに興じ、厨房に忍び込んでは料理番から焼き立てのパンをもらって町の子どもたちに配り歩くような、宮廷の窮屈な規則には収まりきらない天真爛漫な心の持ち主だった。その屈託のない笑顔は、病に苦しむ母にとって、そして冷徹な宮廷の権謀術数にさらされる従者たちにとっても、暗闇を照らす唯一の太陽だった。
公妃は震える手で、首元から細い銀鎖を外した。
その先には、露の雫をそのまま固めたような、透き通った小さな硝子のペンダントが揺れていた。公妃はその首飾りを、娘の華奢な首へと優しくかけてやる。
「オレンジ、よくお聞きなさい」
母の乾いた唇が、愛娘の額に触れる。
「これから先、あなたがどれほど暗い嵐の中を歩むことになろうと……あなたが笑っていれば、それは周りにいる人たちの足元を照らす温かな灯りになります。どんなときも、その笑顔を……人を想い、分け与えるその優しさを、絶対に手放してはなりませんよ。良いですね?」
「お母様……」
オレンジの大きな瞳に、大粒の涙が盛り上がった。
幼い彼女にも、これがいつもの「別荘への避難」ではないことが痛いほど分かっていた。母の冷たくなりゆく肌の温もりも、城の外から響く不吉な物音も、二度と戻らない日々の終わりを告げていた。
だが、母の澄んだ瞳に見つめられた少女は、唇をキュッと引き結び、小さな手で涙を拭った。
「うん……わたし、お約束する。お母様。絶対に笑顔でいるよ。みんなの、灯りになるよ」
その時、隠し扉の軋む鈍い音がして、部屋の影から一人の青年が姿を現した。
オレンジの従兄であり、公国の正統な後継者である若き公子クレマンであった。その仕立ての良い上着には返り血が点々と飛び散り、手にした細剣の切っ先は微かに刃こぼれしていた。彼の端正な面立ちには、焦燥と、それをねじ伏せる強固な覚悟が刻まれている。
「叔母上、アルベド、フラベド……もう時間がない! ロドルフの手勢が、公宮の東回廊を破った。近衛兵の半数が寝返り、残った忠臣たちも防衛線を維持できない」
クレマンは床に膝をつき、震えるオレンジの華奢な肩を力いっぱいに抱きしめた。
「すまない、オレンジ……僕がもっと抜け目なく立ち回り、あいつらの陰謀を先手で叩いていれば、君をこんな過酷な目に遭わせずに済んだのに……!」
「クレマンお兄様、泣かないで……」
オレンジが小さな掌で兄の頬の汚れを拭うと、クレマンは苦悶に満ちた笑みを零し、妹の額に自らの額を重ねた。
「僕は宮廷に残る。正統なる後継者として、奴らの前に立ちはだかり、少しでも多くの時間を稼ぐ。僕が必ず、この混乱を収めてみせる。ロドルフの不正を暴き、この国を元通りにして、君を笑顔で迎えに行く。だから……生きてくれ、オレンジ。僕の、大切な妹よ」
「お兄様も……死んじゃ嫌だよ!」
「死にはしないさ。君の兄だからね」
クレマンは無理に明るい笑みを作って立ち上がると、振り返って二人の従者を射抜くように見据えた。
「アルベド、フラベド。妹を……オランジュの未来を頼む!」
二人は無言のまま、深々と頭を下げた。言葉など不要だった。
フラベドが躊躇なくオレンジをその太い腕で抱き上げ、アルベドが暖炉の脇に隠された石壁のレバーを押し下げる。現れたのは、地下の暗渠へと続く漆黒の抜け穴だった。
「行け!」
クレマンの叫びとともに、隠し扉が重々しい音を立てて閉ざされた。
直後、背後の離宮の扉が凄まじい衝撃音とともに蹴破られ、叛乱兵たちの怒号と金属の打ち合わされる甲高い音が、厚い石壁の向こうへと遠ざかっていった。
兄妹の無事を祈る互いの温もりを残したまま、少年と少女の道はここで分かたれた。
暗渠の中は、氷のように冷たい地下水が膝下まで満ちていた。
滴る水滴の音と、濡れた衣擦れの音だけが、息苦しいほどの闇に反響する。
「……オレンジ様、寒くはありませんか」
フラベドの屈強な胸元で抱きかかえられたオレンジは、震えながらも首を横に振った。
「だ、だいじょうぶ……。お兄様、たたかってた……。お母様も、ひとりで……」
「公妃殿下とクレマン様のお覚悟を無駄にしてはなりません」
先頭を行くアルベドが、燐光を放つ小さな石をかざしながら小声で促した。
「この暗渠は公都の城壁下を抜け、外縁の廃水門へと通じています。ですが、ロドルフの手勢がすでに城外の街道を封鎖している可能性は極めて高い。一瞬たりとも気を緩めてはなりません」
出口が近づくにつれ、冷たい夜風とともに不穏な臭気が混じり始めた。
松明の煙の匂いと、甲冑の擦れ合う乾いた音。
アルベドが右手を挙げ、歩みを止める。
廃水門の鉄格子は、事前に手配されていた通りわずかにこじ開けられていたが、その外――城壁の外周路には、すでに篝火が焚かれ、ロドルフ配下の私兵たちが目を光らせていた。
「おい、水門のあたりを調べろ! ネズミ一匹逃がすなとの公爵閣下の命だ!」
「チッ、近衛の連中め、手間取らせやがって……!」
二人の武装兵が、長槍を構えて水門の出口へと近づいてくる。松明の赤黒い光が、暗渠の濁水を舐めるように照らし出した。光が届けば、三人の姿は露わになる。
「……フラベド」
アルベドが耳元で囁いた。声には一切の感情が削ぎ落とされていた。
「音を立てずに二秒で無力化できますか」
「一秒半で十分だ」
フラベドはオレンジをアルベドの腕へと預けると、深紅の甲冑を鳴らすこともなく、水面を滑るように影の中へ溶け込んだ。
兵士の影が水門の格子をまたいだ瞬間――。
ドッ、とくぐもった肉弾の衝突音が闇に吸い込まれた。
兵士が悲鳴を上げる暇すらなかった。フラベドの鋼のような太い腕が二人の喉元を同時に挟み込み、そのまま壁面へと縫い付け、意識を断ち切る。松明が泥水に落ちてジュッと音を立てて消えた。
二人の兵士が泥の上に崩れ落ちる。
「……手間取らせやがって。おいアルベド、抜け道はクリアだ」
「急ぎましょう。交代の見張りが来る前に」
三人は水門を抜け、城壁外の鬱蒼とした雑木林へと滑り込んだ。
あらかじめ林の奥に隠してあったのは、一台の粗末な幌馬車だった。野菜の屑や古びた樽を運ぶどこにでもある荷馬車に偽装されている。
「お嬢、荷台の藁の中へ潜り込んでな。何があっても顔を出しちゃいけねえぞ」
フラベドが甲冑の上にぼろぼろの旅外套を羽織り、深くフードを被って御者台へと飛び乗る。荷台の隅には、麻布で何重にも厳重に巻きつけられた、身の丈ほどもある巨大な戦斧が隠された。
アルベドも外套をかぶり、荷台の奥へ滑り込む。膝の上には、宮廷文庫から命がけで持ち出した偽造通行証、諸国の地勢図、そして最低限の路銀が整然と収められていた。
ギィィ……と車軸を軋ませ、幌馬車が夜の街道へと滑り出した。
だが、真の試練はここからだった。
公都を脱出する街道の要所には、ロドルフ公爵が急遽敷かせた臨時検問所が設置されていたのだ。
木製のバリケードが街道を塞ぎ、十数名の重装歩兵と、数騎の騎馬哨戒兵が松明を掲げて目を光らせている。
夜の街道を進む車輪の音を聞きつけ、騎馬兵が一騎、馬首を巡らせて近づいてきた。
「止まれ! 馬車を止めろ!」
フラベドが手綱を引き、わざと愚鈍な農夫のように背中を丸めて見せた。
「へ、へい……旦那、何の用ですかい? 俺ぁ都の市場に野菜を納めて、村へ帰る途中でして……」
「今夜は公都全域に夜間外出禁止令が出ている! 荷台を改める、幌を開けろ!」
騎馬兵が槍の穂先で幌の布を跳ね上げようとした。
荷台の暗がりの中、アルベドの手が静かに袖口の短剣の柄へとかかる。藁の中に潜むオレンジは、母から託された硝子の首飾りを胸に押し当て、息を殺して震えていた。もしここで戦端が開かれれば、周囲の伏兵を含めた乱戦となり、幼い姫の命を保証することは極めて困難になる。
その時、アルベドが静かに幌の隙間から身を乗り出した。
手には、白銀の光沢を放つ一枚の羊皮紙が握られている。
「……夜警の任、ご苦労様です」
アルベドの声は、凍りつくほどに冷徹で、傲然とした貴族の響きを帯びていた。
「私はロドルフ公爵閣下の命を受け、西方領への極秘伝令を帯びた監査官補佐である。貴殿のその無礼な槍先は、閣下の親書を汚すつもりか?」
差し出されたのは、ロドルフ派の有力貴族の印章が完璧に偽造された特務通行証であった。
学府で公国の法制と印章術を完璧に修めたアルベドの手による、寸分の隙もない偽造文書だ。
騎馬兵は松明を近づけ、羊皮紙に押された鮮やかな朱印を検めると、一瞬で顔色を変えた。
「こ、これは失礼いたしました! 特務監査官様とお見受けできず……!」
「構わぬ。今夜の混乱ゆえの警戒であろう。だが、我が任務は一刻を争う。……通してもらえるな?」
「は、ハッ! バリケードを開けろ! 通行を許可する!」
兵士たちの号令とともに、重い木柵が引き倒された。
フラベドが軽く手綱を打ち鳴らし、馬車はゆっくりと、何食わぬ顔で検問所の光の中を通り抜けていく。
背後の検問所の灯火が夜闇に小さく溶け去り、完全な漆黒の森へと入った瞬間、アルベドは深く、深く息を吐き出し、眼鏡のブリッジを震える指で押し上げた。その額には、びっしりと冷や汗がにじんでいた。
「……間一髪でしたね。書類の偽造が露見していれば、あの場で蜂の巣にされていた」
「へっ、肝が冷えたぜ。だが大したもんだ、アルベド。頭のいい奴ってのは、剣よりよっぽど恐ろしい武器を振り回すもんだな」
「……買い被りです。心臓が止まるかと思いましたよ」
極度の緊張から解放された瞬間、荷台の奥から小さな嗚咽が漏れた。
「……う、ぅ……」
敷かれた藁の上で、オレンジは膝を抱えて小さく丸まっていた。
旅用の橙色の小さなケープは泥と煤に汚れ、馬車がガタつくたびに、その華奢な体が小刻みに震えていた。
「オレンジ様」
アルベドが膝を寄せ、声を一段落として語りかけた。その手のひらが、震える少女の背中にそっと添えられる。
「……お辛いのは重々承知しております。ですが、もう大丈夫です。公都の防衛線を突破しました。このまま間道を進めば、夜明け前には国境の森へ至ります」
「お嬢」
前方の御者台から、夜風に乗ってフラベドの野太い声が低く届いた。
「心配すんな。俺の背中は、どんな城壁よりも分厚いぜ。追っ手の野郎どもが何十騎追ってこようが、このフラベド様がまとめてひき肉にしてやる。……なあにお嬢、泣きたい時はいくらでも泣いていいんだぜ。俺たちの前でまで、無理して笑うこたぁねえんだ」
二人の言葉は、それぞれに不器用で、けれど絶対の真情に満ちていた。
オレンジは顔を上げ、二人を交互に見つめた。
自分を守るために命を投げ打つ覚悟を決めている、白銀の知者と、深紅の戦士。
母の言葉が、耳の奥に優しく蘇る。
――あなたが笑っていれば、周りのみんなの足元を照らす温かな灯りになるの。
オレンジは袖口で乱暴に目元の涙を拭うと、鼻を小さくすすり、二人へ向けて精いっぱいの微笑みを作ってみせた。
「うん……ありがとう、フラベド、アルベド。でもわたし、笑うよ。お母様とお兄様に、心配かけないようにしなきゃ」
その健気な笑顔に、アルベドは胸を締め付けられるような痛みを覚えながらも、わずかに表情を和らげた。
馬車は深い森の獣道を抜け、国境へ続く間道を進む。
木々の隙間から、遠ざかっていく公都のシルエットが見えた。尖塔の群れが、月明かりの下で黒い牙のように冷たくそびえている。
「……ねえ、アルベド」
ふいに、オレンジが荷台から顔を出して言った。
「はい、オレンジ様。何でしょうか」
「これからのお話! ね、アルベド、わたし、これからなんて名乗ればいいの? 『オレンジ』って名乗ってたら、公都の追っ手のおじさんたちにすぐに見つかっちゃうんでしょう?」
アルベドは眼鏡の位置を押し上げ、小さく頷いた。
「左様でございます。よくぞ気づかれました。これより先は身元を完璧に秘匿せねばなりません。追手を欺くためにも、貴族の響きを一切持たない偽名を名乗っていただきます。街道沿いの村々でよく耳にするような、ごく目立たない名を……ご自身で決めていただけますか」
「目立たない名前ね……」
オレンジは小さな人差し指を顎に当て、「うーん」と真剣に首を傾げた。
彼女の視線が、荷台の隅に転がっていた小さな木籠に止まる。脱出の間際、厨房の料理番が持たせてくれた、旅の携行食――鮮やかな橙色の、小ぶりな果実がいくつか入っていた。
彼女は幼い頃から、高価な砂糖菓子よりも、庭の片隅で日差しを浴びて実るその素朴な果物が何よりも好きだった。手で簡単に皮が剥けて、甘酸っぱくて、誰にでも分け合える果物。
「きーめた!」
オレンジは両手をぽんと打ち鳴らし、満面の笑みを咲かせた。
「今日から私の名前は『みかん』にするね! だって、わたし、みかんが一番大好きなんだもん!」
夜の森に、車輪が落ち葉を踏みしだくカサカサという音だけが、虚しく響き渡った。
「……………………は?」
アルベドの手から、記録用の羽ペンがポロリとこぼれ落ちた。
大陸屈指の頭脳を誇る青年の端麗な顔が、かつて見たことがないほど見事に硬直している。
「み……みかん、ですか……?」
「そうよ! みかん! 響きも可愛いし、甘くて美味しいでしょ?」
「お、お待ちください姫様! いえ、みかん様!? 『オレンジ』から『みかん』など、何一つ変わっておりません! 姿も、色も、味も、学名上の分類に至るまで完全に柑橘の範疇ではありませんか! 柑橘から柑橘へ横滑りしただけで、偽装工作としての効果は皆無です! 追手に向かって『私はオレンジの親戚です』と看板を掲げて歩くようなものですよ!?」
青筋を立てて熱弁する知者に対し、オレンジ――改め「みかん」は、籠からみかんを一つ取り出すと、器用に皮を剥きながら小首を傾げた。
「いいの! だって私、みかんが好きなんだから。それにね、みかんって、皮を剥いてみんなで一房ずつ分けて食べられるでしょう? わたし、そういうの、すっごく好きだな」
「す、好き嫌いの問題ではございません! もう少しこう、例えば『マルタ』とか『ベルタ』とか、書類の上で埋もれるような名をお選びいただかないと……!」
頭を抱えて今にも気絶しそうなアルベドの背後で、御者台からドッと大地を揺るがすような大爆笑が轟いた。
「がーっはっはっは! いいじゃねえか、『みかん』! 最高だ! お嬢らしくて、みずみずしくて、一発で覚えられるぜ!」
「笑い事ではありませんフラベド! 貴方は護衛としての危機感が足りなすぎるのです!」
「がたがた抜かすなアルベド! 名前なんざ呼ばれりゃ何でもいいんだよ! 見つかったら見つかったで、追っ手なんぞ俺の斧で一人残らず叩き潰せば済む話だろうが!」
「そういう粗野で短絡的な暴力を避けるための偽名でしょうが……! ああ、頭が痛い……」
知者が額を押さえて天を仰ぐ横で、みかんは皮を剥いたみかんの一房を、ひょいとアルベドの口元へ差し出した。
「はい、アルル。怒ってばっかりだと頭痛くなっちゃうよ? あまくて美味しいよ!」
「もごっ……! ちょ、みかん様、私は今、極めて重大な安全保障上の議論を……ん、甘いですね……ではなくて! なぜ私の名まで『アルル』になっているのですか!?」
「だって、アルベドって呼んだらバレちゃうじゃない? だからアルル! そしてフラベドは『フラッペ』ね!」
御者台で笑い転げていた大男が、ピキリと凍りついた。
「……は? お、お嬢……? 俺が……『フラッペ』……?」
「そうよ! フラッペ! 涼しそうで、すっごく強そうで、可愛い名前!」
「か、可愛いって……! お嬢、勘弁してくれ! 俺はこの厳つい面と無精髭に、深紅の鎧をまとった『烈火の無双斧』だぞ!? 戦場で『フラッペ推参!』なんて名乗りを上げたら、敵兵が恐怖する前に腹抱えて笑い死んじまうじゃねえか!」
「いいの! みかんと、アルルと、フラッペ! なんだか楽しい旅の一座みたいで、すっごく素敵じゃない!」
みかんは二人の大きな手をそれぞれぎゅっと握りしめ、夜空の月よりもまばゆい笑顔を向けた。
その汚れなき無敵の笑顔を向けられては、いかなる理屈を積み上げる大秀才も、いかなる猛威を振るう無双の豪傑も、もはや反論の言葉をすべて喉の奥に飲み込むしかなかった。
「……承知いたしました。公の場では……その、不本意極まりありませんが、『アルル』とお呼びください……」
がっくりと肩を落とし、ため息をつく青年。
「くそっ、武士の沽券に関わるぜ……。だがまあ、お嬢がそう呼ぶなら仕方ねえ。俺が世界で一番凶暴な『フラッペ』になってやるよ!」
やけっぱちに手綱を鳴らす大男。
かつて公国を揺るがした「清廉の知恵者」と「烈火の無双斧」。
祖国で畏怖された二人の英傑は、一人の幼き少女の無邪気な一言によって、一夜にして奇妙で温かな旅の道連れへと塗り替えられた。
夜の闇の向こう、まだ見ぬ過酷な運命が待ち受ける世界へ向けて。
幌馬車は軋んだ音を立てながら、けれど確かな希望の光を乗せて、力強く進んでいくのだった。
(第1話・おしまい)




