三章二十一話目
故郷の神官ならば絶対に口にしないその言葉を聞いて、リシェンは無意識のうちに手が出た。
気が付けば、男性の頬を平手打ちしていた。
乾いた音が船内に響き渡り、リシェンははっとした。
「わ、わたし、あの、その。と、とにかく、ごめんなさい!」
取り乱しながらもひっぱたいた男性に頭を下げ、リシェンはその場から逃げ出した。
部屋の扉を開け、通路に出ると、訳も分からず階段を降りていく。
無我夢中で走り、船の一番奥にある倉庫のような場所にたどり着いた。
扉を開けて中に入ると、薄暗い船倉に竜の巨体が横たわっている。
「サライ」
リシェンは眠っているサライに近付くと、鱗だらけの肌に手を置く。
肌に触れるとかすかな温かさと、サライの呼吸する低い音が聞こえてくる。
リシェンはほっと息を吐き出し、寄り添うようにそばに座り込んだ。
床に座り込み安心したのだろう。
深緑の両目から涙があふれ出した。
両手で顔を覆い、体を震わせてしゃくり上げる。
故郷を出てから数時間しか経っていないにも関わらず、リシェンは一刻も早く家族の元に帰りたくなる。
とても心細い気持ちになる。
――やっぱり、わたしが守り手だなんて無理だったんだ。わたしがレインを守るなんて、とてもそんなこと出来る訳がない。
リシェンは小さい頃から竜が好きだった。
いつかは竜の背に乗って、大空を飛び回るのが夢だった。
しかし島の掟では、竜に乗るためには守り手にならなくてはならない。
それで仕方なく、リシェンは守り手に名乗りを上げ、学問や護身術を身に付けることになる。
何事にも真面目に一生懸命取り組む性格のリシェンである。
学問の面では兄のエトスには及ばないまでも、護身術を一通り身に付け、念願かなって自分の竜を手に入れることが出来た。
その竜にサライという名前をつけ、以来リシェンはサライと寝食を共にする。
リシェンと同じ年頃の少女たちが、化粧や身だしなみに気を遣っている時、リシェンはサライの背にまたがって空を飛ぶ訓練をしていたし、少女たちが気になる異性の話に花を咲かせている時、リシェンは大人達に混じって護身術の訓練に励んでいた。
その忙しさのせいか、リシェンはこれまでほとんど異性を意識したことがなかったし、自分の外見を気にしたこともなかった。
母親譲りの妖精のような整った顔立ちや白い肌も、父親譲りの深緑の澄んだ瞳も、リシェンは自分の魅力をまだ何も知らなかった。
着飾って人前に出れば、彼女が嫌でも人目を引く容貌であることも、まだ自分の可能性も何も知らなかったのだ。
リシェンはサライの隣でうずくまって泣いていた。
今のこの状態も、この先のことも、頭が真っ白になって何も考えられない。
どのくらいそうしていたのか、部屋の外から階段を降りる足音が聞こえてくる。
リシェンはびくりと肩を震わせて、サライの体に寄り添う。
訳も分からず落ち着かない気持ちになる。
足音は部屋の外で止まる。
部屋の外からさきほどの男性の声が聞こえてくる。
「その、さっきはすまなかった。お嬢さんにとても失礼なことを言ってしまったらしい。どうもこの年ともなると、若者の気持ちに鈍感で。先ほどの非礼を、どうか許して欲しい」
リシェンはサライに寄り添ってじっと黙っている。
気持ちの整理がつかず、まともに返事をすることもできない。
男性は話し続ける。
「その、こんな老いぼれが今更若かりし過去の話をするのもなんだが。先ほどの、君が初恋の相手に似ているというのは本当のことなんだ。つくづく未練がましいと自分でも思っているのだが、付き合って欲しいと言う気持ちは本当なんだ。君が空から落ちてきた時、イプシェがわたしに会いに来てくれたかと思った。わたしもこれでようやく許されて、天空神ラスティエの元へ召され、あの世で死んだ兄や家族に謝罪できると喜んだものだ」
リシェンは男性の声に耳を澄ませ、ゆっくりと顔を上げる。
――イプシェ?
それは千年前の大樹ラスティエの代替わりの時に、リタ・ミラの種を宿していずこかへ消えたと言う村娘の名前ではなかっただろうか。
リシェンの村の伝承では、その村娘はラスティエの怒りに触れ、村を追放されたとされている。
千年前の代替わりの時期は、村でも天変地異が頻発したため、残っている資料も数少なく、その伝承が事実であったことを知る術はない。
「でも、竜とともに落ちてきた君を見て、わたしの早合点だったことを悟ったよ。わたしが最後にイプシェと会った時は、彼女は君より年上だった。それに彼女はわたしを恨んでいるだろうからね。恋人を手に掛けたわたしを、彼女は決して許しはしないだろう」
独白じみたその一言は、リシェンを震え上がらせた。
――手に掛けた、って。つまり殺した、ということ?
リシェンが男性を見て得体が知れない、と思ったのは、つまりそう言うことだったのだ。
恐怖のために全身の毛が逆立つ。
――人殺し!




