三章二十二話目
リシェンは心の中でそう叫んだのだが、思わず口に出てしまった。
「人殺し!」
短く叫ぶのと、そばのサライが低くうなり身じろぎするのが同時だった。
「サライ?」
リシェンはサライの顔をのぞきこむ。
白竜のサライがうっすらと目を開け、リシェンを見つめ返す。
「サライ、よかった」
サライは低いうなり声をあげ、自分が無事だと訴える。
リシェンはサライにすがりつく。
「よかった、サライが無事で」
さきまでの不安が嘘のように消える。
とても心強く感じられる。
サライが首を起こし、起き上がろうとしたので、リシェンはサライから離れる。
その倉庫は広く天井も高かったので、サライが立ち上がってもその頭は天上につかなかった。
立ち上がったサライを、リシェンは見上げる。
サライもリシェンを見下ろし、うれしそうに顔を近付ける。
リシェンはサライの頭をなでる。
その顔に寄り添う。
「ねえ、サライ。レインのところまでたどり着けば、きっと何とかなるよね? 二人で一緒なら、無事にレインのところまで行けるよね?」
リシェンの胸の中には、男性に対する疑念が渦巻いている。
人を殺したと言う男性と一緒の船にいるのは、今のリシェンにはとても耐えられなかった。一刻も早くこの場から逃げ出したかった。
サライは甘えるように鳴く。
「うん、わたしもサライと一緒なら、きっと何とかなると思うの」
リシェンはうなずき、倉庫の壁側に近寄る。
取っ手を見つけ、それをひねると大きな扉が開き、強い風が吹き込んでくる。
扉の先には物凄い速さで流れていく雲海が見える。
冷たい風にひるまず、リシェンは眼下の流れていく雲海をのぞきこむ。
サライを振り返る。
「サライ、飛べそう?」
リシェンが尋ねると、サライは承知したとばかりに翼を広げる。
背中に乗ってくれとばかりに、身を低くする。
「ありがとう、サライ」
リシェンはサライの背中にまたがり、手綱を握りしめる。
サライは開け放たれた扉に向かって走り、ものすごい速さで飛ぶ空船から翼を広げて飛び立った。
サライとリシェンは雲海に飲み込まれ、景色が真っ白に塗りつぶされる。
強い風の中、リシェンは何とかサライの体勢を立て直す。
風に乗って緩やかに滑空する。
その後、リシェンとサライは親切な教会の司祭に助けられ、数日の時を経てラスティエ教国の首都セラフに到着する。そこでラスティエ教国の認可をもらい、レインの通うジョゼ神学校への編入の手続きをする。
手続きが整うまでの数日間、リシェンは首都セラフの宮殿に滞在することになるのだが、そこでかつて自分を落としたフェデリコと出会うことになる。
リシェンが親切にしてくれたムスタファ司祭に伴われ、宮殿の廊下を歩いていた時だった。廊下の向こうからどこかで見た顔の相手が歩いてきたのだった。
リシェンは、あっと叫んで、足を止める。
「どうしたのですか、リシェンさん?」
温和なムスタファ司祭も驚いてリシェンを振り返る。
廊下の向こうから歩いてくるフェデリコも、リシェンに気が付いたらしい。
あからさまに不機嫌な顔をして、こちらに近寄ってくる。
「あんた、あの時の女!」
フェデリコは怒りに顔を紅潮させ、大股でこちらに歩み寄ってくる。
それには隣に付き添っていたムスタファ司祭もぎょっとする。
「こ、これは、フェデリコ大司教様」
慌てて頭を下げる。
フェデリコはまるでムスタファ司祭のことなど目に入らないかのように、真っ直ぐに歩み寄ると、怒りに満ちた目でリシェンを睨みつける。
「あんたよくもあたしの愛しい教皇様に色目を使ってくれたわね! 竜の民だからって、ちょっと教皇様に気にかけてもらっているからって、かわいいからって、いい気になるんじゃないわよ!」
てっきり男だと思っていたフェデリコの口から出たのは、女性のような甲高い声だった。
リシェンはとっさに返す言葉も思いつかず、硬直する。
これまでリシェンの育った村には、男性らしい男性と、女性らしい女性の二種類の人間しかいなかったので、こんな女のような言葉遣いの男性を見るのは生まれて初めてだった。
フェデリコはリシェンに詰め寄り、言い募る。
「あの時は部下たちの手前、何気ない振りをしていたけれど、本当はおしっこちびっちゃうくらい怖かったんだから! あんな巨大なトカゲが襲ってきたら、あたしじゃなくても法術使うわよ! 下にはジュリアーニもいるし、大丈夫だと思ったから、ああしたのよ。わかる?」
驚きの方が先に立ってしまったリシェンは、返事もできずにフェデリコの言葉を聞いていた。
そこへ廊下の向こうから一組の男女が歩いてくる。
「おおい、フェデリコじゃないか。女性に詰め寄って、何をしているんだい? 駄目だよ、女性には親切にしないと」
手を振る男性は以前会った、ジュリアーニだった。
その隣には清楚な印象の女性が付き添っている。
「なあに、フェデリコ。また美人な女の子に突っかかっているの? いい加減にしないとまたイヴン枢機卿に呼び出しをくらうわよ」
フェデリコは顔見知りらしい男女を振り返る。
「だって、ジュリアーニ、マグダレーナ。あんたも船の中で見ていたと思うけれど、あたし本当に怖かったんだもの。竜なんて巨大なトカゲみたいな生き物に襲われたら、誰だって怖いと思うでしょう? それをこの子、あたしを襲っただけでなく、教皇様にも親切にしてもらったのよ。だからあたし、一言この子に文句が言いたくて」
マグダレーナと呼ばれた女性は、あまり興味もなさそうに答える。
「ふうん、この子が竜に乗ってた子なの。そう言えば、ジュリアーニもこの子を口説いていたみたいだけど」
隣に立つジュリアーニを見る。
ジュリアーニはばつの悪い顔をして、視線を逸らす。
マグダレーナはジュリアーニの胸倉をむんずとつかむ。
「あたしは別にいいけれどね。婚約者のあんたが誰を口説こうが、熱を上げようが、女に入れ込もうが、どうだっていいけどね。だってこれはただの政略結婚だもの。ただ、家族として夫の役割だけはちゃんと果たしてもらって、家事や育児や仕事の分担だけはちゃんとしてもらいたいけれど。それとカノッサ家の一員として恥じない行動をして、カトリーヌおばあ様の顔に泥を塗るような真似をしたら、ただじゃおかないから」
ガラス細工のようなきれいな顔でマグダレーナは淡々と話す。
その隣ではジュリアーニが青い顔で小刻みに震えている。
「や、ややや、やっぱり、おれには結婚なんて、は、早いかな、なんてね。そ、そそ、それに、見目麗しいマグダレーナ嬢には、おれなんかより、もっとふさわしい相手が」
ジュリアーニは呂律が回らない口調で訴える。
「もっとふさわしい相手がいたら、とっくに結婚してるわよ。四名家で同じ年頃って言うと、ブルゴス家のフェデリコは女に興味ないし、ケルン家のあの兄弟は一生を信仰のために尽くすと言ってる堅物だし、残るはカノッサ家のあんたしかいなかったって訳」
マグダレーナは大仰に溜息をつき、肩をすくめる。
その物言いに、フェデリコは口を尖らせる。
「どうせあたしは女には興味がないわよ」




