第55話 言えない理由
リゼルの王国軍駐屯地に届いた報告書を、オスカー大佐は二度読み返した。
『敵拠点の無力化に成功。ただし、進軍は一時延期』
「成功しているのに、進めないのか」
隣で書類を整理していたセドリック大尉が、別紙を差し出した。
「ドルガ砦の跡地で街道が崩れ、補給馬車が通れないそうです。工兵は復旧作業に回されています」
「砦を奪還するための作戦だったはずだが」
「砦そのものが、なくなったと」
オスカーは地図を開いた。カレナからドルガ市街へ延びる街道。その途中には、確かにドルガ砦が描かれている。
「……ここを通せるようにするには、どれだけ工兵が要る?」
「現地の調査が済まないと見積もれません」
「だろうな。まずは通行可能な区間を確認させろ。補給物資を送り込んでも、途中で立ち往生しては意味がない」
命令を書き留めながら、セドリックはもう一通の書面へ目を移した。王都軍本部からは、司令部をリゼルへ前進させるという通知も届いている。受け入れの準備を進めていたところへ、この戦果報告である。
「本部の方々には、なかなか景気のいい報告になりそうですね」
「戦果だけ読めばな」
オスカーは地図の砦に置いた指を動かさなかった。
「中将閣下がお着きになるまでに、現地の被害と復旧の見通しをまとめておけ。細かいところまで聞かれるぞ」
「……この報告を、直接ご説明するんですね」
「俺も一緒だ。心配するな」
セドリックは書類を見下ろした。二人で説明しても、砦が戻ってくるわけではない。
◇
司令部の先行隊は、街道の宿場で何度も馬を替えながらリゼルに着いた。軍が用意した護衛のおかげで途中の手続きに足止めされることは少なかったが、馬を降りたメルディアの脚は少しふらついた。
「……しばらく馬はいいかな」
「お久しぶりです、メルディアさん」
聞き覚えのある声に振り向くと、セドリックが立っていた。
「セドリック! ここにいたんだ」
「ここが勤務先ですから。王都からの連絡は受けています」
「ねえ、ドルガの前線には、どうやって行けばいい?」
「再会して最初の質問がそれですか」
「だって、みんなに会いに来たんだもの」
セドリックは苦笑しかけたが、すぐに表情を改めた。
「その前に、お伝えしておくことがあります」
執務室に案内されたメルディアは、ドルガからの報告書を開いた。
「……砦、消滅?」
信じられず、もう一度同じ行を確かめた。
「『城壁と建物を含め、砦の構造物は確認できず』……どういうこと?」
「記載どおりです。賢者ユリウス・フォルケン殿の大魔法の後、砦は跡形もなくなったそうです」
「ユリウスさんが?」
メルディアは書類に目を戻した。賢者の大魔法が強力なのは知っている。だが、城壁の上を制圧する作戦で砦全体が消えるというのは、どう考えてもおかしい。
「……エイルたちは? 無事なの?」
「負傷したという報告はありません。ただ、全員の安否をこちらで直接確かめたわけではありません」
「そっか……。じゃあ、やっぱり行かなきゃ」
オスカーが地図の前に立った。
「砦跡より西側までは軍の連絡路が使える。だが、現地では復旧と救助が続いている。単独で先へ入るのは認められん」
「はい。護衛の方と一緒に行きます」
「話が早いな」
「私、もう一度みんなに聞きたいことがあるんです」
オスカーはその理由を追及せず、前線行きの手配を指示した。メルディアも、王都で調べた祝福の仮説を口にはしなかった。
書類を受け取ったセドリックが、首を傾げた。
「それにしても……メルディアさんが関わる戦いは、どうしてこう、報告書が信じがたい内容になるんでしょうね」
「私が聞きたいよ……」
◇
ドルガ砦があった場所には、まだ瓦礫が広がっていた。街道の脇では工兵が目印を立て、通行できる場所と危険な場所を分けている。荷車が通れるようになるには、もう少し作業が必要そうだった。
メルディアは護衛の兵から四人の所在を聞き、砦跡の西側に設けられた救護所へ向かった。
「……メルディア?」
先に気づいたのはエイルだった。
「えっ、本当に?」
振り返ったルシエラが、ぱっと顔を明るくした。
「メルディア!」
駆け寄ってきたルシエラを受け止め、メルディアはようやく息を吐いた。
「みんな、無事だったんだね」
「うん! メルディアも、おかえり!」
「王都からもう戻ったのか。ずいぶん早かったな」
ロディオが驚くと、メルディアは少し疲れた顔で笑った。
「軍の人たちと一緒に来たの。替え馬があったから助かったけど……しばらく馬に乗りたくない」
「そりゃ大変だったな」
クラウスもほっとしたように笑った。
「お疲れさまです。怪我はありませんか?」
「大丈夫。それより、あれ……本当に砦があった場所なの?」
メルディアの視線の先には、崩れた地面が続いていた。エイルはその方を見て頷いた。
「俺たちも、最初は信じられなかった。城壁の上を狙った魔法だったんだ」
「ユリウスさんは、何て?」
「威力を抑えようとしたけど、制御できなかったって。原因はまだ分からないらしい」
砦跡をしばらく見つめていたメルディアは、ルシエラへ向き直った。
「……あの時、祝福は使った?」
「うん。ユリウスさんが緊張してたから、少しでも助けになればと思って」
「そっか……」
それだけで決めつけることはできない。けれど、王都で見た報告が次々に頭に浮かんだ。ガルベルトの火炎魔法。ミゼリアの異常な移動。ディモスの鎧。
そして今度は、砦が消えた。
「あのね、メルディア」
ルシエラが小さく声をかけた。
「砦の人たち、今も探してるの。でも、一人だけ、生きてる魔族の兵士さんがいたんだよ」
「……魔族の兵士?」
「うん。脚を怪我してたから治したの。ちゃんと歩けるようになって、帰っていった」
ルシエラは少しだけ笑った。
「一人でも助けられて、よかった」
メルディアは返事をしようとして、できなかった。グランデル山脈でも、ルシエラは倒れたグランのそばを離れず、どうにかして助けようと何度も手をかざしていた。
あの時の攻撃まで、祝福で強くなっていたのだとしたら。
まだ分からない。証拠も足りない。それなのに、何を伝えようとしていたのだろう。
「メルディア?」
「……ううん。助かってよかったね」
「うん!」
ルシエラは救護所から呼ばれた声に振り返った。
「あ、私、向こうも手伝ってくるね。みんな、あとでゆっくり話そう!」
「……うん」
ルシエラが小走りで戻っていくのを、メルディアは見送った。王都を出た時には、直接話すつもりだった。今も、それが間違いだとは思えない。
けれど、さっきの笑顔を見た後では、何から話せばいいのか分からなくなっていた。
◇
救護所の裏手で、メルディアは三人に王都で調べたことを話した。
「……つまり、ルシエラの祝福が、敵にも効いてたかもしれないってこと?」
メルディアは頷いた。
「まだ仮説。でも、いくつも同じようなことが起きてるの」
メルディアは指を折り、調べた事例を挙げていった。
「ドルガでは、ガルベルトの《ブラストフレア》がハルツの時よりずっと強くなってた。魔王軍が後で再現しようとしても、同じ規模にはならなかったって」
「確かに、あの時はひどかったな」
「それからミゼリア。あの人、《風走》を使った直後に消えたでしょう?」
「ああ。急にいなくなった」
「王国軍の調査隊がね、あの戦場から二十キロ先まで、ほぼ一直線に続く破壊痕を見つけたんだって。終点の岩場には衝突した跡もあったそうなの」
「……二十キロ?」
ロディオが思わず聞き返す。
「だから、ミゼリアは転移したんじゃなくて、《風走》で速くなりすぎて、私たちには見えなかった可能性があるの」
「待て待て。消えたんじゃなくて、走っていったのか?」
「まだ可能性だけど」
「あいつ、自分で三倍速くなるって言ってたよな。……三倍で二十キロ先の岩まで行くのかよ」
エイルも目を丸くした。
「俺たち、てっきり転移したと思ってたぞ」
「僕もです。……しかも、その先でぶつかったんですか」
「そういう痕跡があったって」
ロディオは何か言いかけたが、口を閉じた。
「……あんなに得意げだったのにな」
四人の間に小さな笑いが漏れた。だが、メルディアにはまだ話さなければならないことがあった。
「山脈のディモスも、《アースアーマー》が分厚くなりすぎて、自分で動きにくくなってたでしょう。どの戦いにもルシエラがいて、祝福を使ってた。偶然かもしれないけど……もし関係があるなら」
笑いはすぐに収まった。
「……敵まで、そんなふうに強くしてたかもしれないのか」
メルディアは頷いた。
「それだけじゃないの」
メルディアは少し言葉を探してから続けた。
「私、昔、自分の《ファイヤーボール》で、祝福を受ける前と後を比べたことがあるでしょう。あれで味方が強くなるのは確かめた。でも、最近起きてることは、強くなるっていうだけじゃ説明しにくいくらい、大きすぎるの」
エイルの目が砦跡へ向いた。
「ユリウスさんの魔法みたいにか」
「うん。本人が抑えようとしても抑えられない。もし祝福が関係してるなら、効果そのものが、私たちの思ってるよりずっと強くなってるのかもしれない」
「最近になって強くなったってことか?」
「それも考えられる。でも、昔と今で同じ条件の実験はしてないから、どれくらい変わったのかは分からない」
メルディアは手を握りしめた。
「問題は、その強さが敵にも及ぶかもしれないこと。ディモスの攻撃まで強くしてたなら……」
そこで声が途切れた。三人ともグランの最期を覚えていた。誰もすぐには答えられなかった。
「……ルシエラには話したのか?」
エイルが尋ねる。
「まだ」
「話した方がいいんじゃないか。危ないことなら、本人が知らないままなのは……」
「そう思ってた。王都では、話すって決めたんだよ」
メルディアは俯き、言葉を選んだ。
「でも、あの子、まだ砦にいた人たちのことを心配してる。グランのことだって……。本当かどうか確かめてもいないのに、『あなたの祝福が敵を強くしてたかも』なんて、言っていいのかな」
クラウスはすぐに返事をしなかった。
「……言わないままにするのも、違う気がします。ルシエラには、自分のことを知る権利がありますから」
「うん」
「でも、まだ結論じゃないんですよね。まず僕たちが確かめられることを整理しませんか」
ロディオが手を上げた。
「それはいいけど、一つ聞いていいか」
「なに?」
「仮に敵まで強くなってるとして、祝福をかけたら俺たちも敵も強くなるんだろ? じゃあ、そのまま殴り合うとどうなる?」
「元の力の差だけなら、大きく変わらないかもしれない。でも、魔法まで制御できなくなるくらい強くなったら……」
メルディアが砦跡に目を向けると、ロディオもつられてそちらを見た。
「……殴り合う場所の方が、先になくなるか」
「笑えませんね」
クラウスが真顔で答えた。
「いや、笑ってねえよ」
エイルはしばらく考え込んでから、口を開いた。
「だったら、今は無理に祝福を使わない方がいい。それは本当のことだろ?」
「うん。少なくとも、使えば何が起こるか分からない」
「ユリウスさんの魔法が制御できなかったことなら、ルシエラにも話せる。まだ分からないことを、分かったみたいに言わずに済むし」
「……それで全部隠していいとは思わないですけどね」
クラウスが言うと、エイルも頷いた。
「分かってる。まずは、次に同じことが起きないようにしよう」
それなら今すぐできる。メルディアも小さく頷いた。四人は、祝福の異常な強さを警戒し、敵にも作用するという仮説を確かめるまでは不用意に広めないことで一致した。
ただし、ルシエラ本人にいつ、どう話すのかは決められなかった。
「……戦いになって、ルシエラが使おうとしたら?」
ロディオが尋ねると、三人は顔を見合わせた。危険だからやめてくれと頼めば、ルシエラはきっと理由を聞くだろう。仲間が危ない時ほど、彼女は助けようとする。
「……その時は、俺たちが何とかする」
エイルが言った。
「何とかって、どうやって?」
「……これから考える」
答えのないまま、四人はしばらく黙っていた。
その時、救護所の方からルシエラが歩いてきた。
「あ、みんなここにいたんだ!」
「そっちはもう終わったのか?」
エイルが尋ねると、ルシエラは首を振った。
「怪我をした人の手当ては一段落したよ。でも、砦の方はまだ探すんだって。私も行こうと思って」
「無理はしないでくださいね」
「うん。兵士さんたちと一緒に行くから大丈夫!」
そう言って笑ったルシエラは、ふと崩れた砦の方へ目を向けた。
「……あの魔族の兵士さん、ちゃんと帰れたかな」
「脚は治ってたし、歩けてた。大丈夫だろ」
ロディオの答えに、ルシエラは少し安心したように頷いた。
「よかった。……でも、まだ誰かいるかもしれないよね」
ルシエラは砦跡を見つめたまま、ぽつりと続けた。
「私ね、聖女になれた時、すごく嬉しかったんだ。困ってる人を助けられるようになりたかったから」
言ってから、ルシエラは少し照れくさそうに笑った。
「今日はあの人を助けられた。だから、もう少し探してみたい。ほかにも助けられる人がいるなら、助けたいなって」
四人は答えられなかった。
助けたい。ただそれだけの願いで、ルシエラは祝福を使ってきた。
もし、その祝福が敵の力まで強めていたと知ったら。グランの命を奪った攻撃も、あの砦を消し去った魔法も、彼女の善意によって強くなっていたかもしれないと知ったら。
この少女は、どれほど悲しむだろう。
――言えない。
エイルも、メルディアも、クラウスも、ロディオも、同じ思いに行き着いていた。
ルシエラは四人の沈黙を、疲れているせいだと思ったらしい。
「みんなは少し休んでてね。私、行ってくる!」
エイルは呼び止めかけたが、言葉を飲み込んだ。
「……気をつけてな」
「うん!」
ルシエラは手を振り、救護所の方へ駆けていった。
四人はその後ろ姿を見送った。誰も、すぐには動けなかった。




