第7話 壁の花の席は空いていた
ネル・クローゼの名前を久しぶりに聞いたのは、夏の夜会の開場前だった。
控室で髪を直していたら、隣の令嬢が言った。「文書室のクローゼ殿が、文書館の翻訳官に推挙されるそうですわ」。私は鏡越しに聞き返した。クローゼ殿。壁際の長椅子にいつも座っていた、あの地味な子爵令嬢のことだ。翻訳官。外交文書を扱う専門職で、宮廷の正式な官位が付く。
「あの壁の花の方が」と言いかけて、隣の令嬢の表情が少し硬いことに気づいた。
「壁の花、ではないようですわ。王宮文書室でも有数の写本師だと聞きました。王立文書館の総裁が直々に推挙されたそうです」
文書館の総裁。ブルクハルト公爵家の次男だ。学者気質で社交に顔を出すことは少ないが、公爵家の名で動く推挙は軽くない。あの地味な写本係に、公爵家の名が動くとは。私は驚いた。驚いた自分にも驚いた。何に驚いているのか、うまく整理がつかない。あの方が優秀だったことに驚いているのか、それとも、優秀だと知らなかった自分に驚いているのか。
夜会の広間に出ると、別の噂が回っていた。近衛騎士ディルク・ダナーが、あの賭けの賭け金を全額慈善に寄付したという。昇進審査で保留になった件は社交界にも伝わっている。賭けで令嬢の恋心を弄び、酒の席で武勇伝にした騎士。噂の輪郭はそう描かれている。夜会の令嬢たちの間では、同情と軽蔑が半々に混じった空気が漂っていた。
ただ、全額寄付という話を聞くと、少し印象が揺れる。反省が形になっている。賭け金がいくらだったかは知らないが、全額を手放すのは覚悟がいるはずだ。あの騎士は軽薄だったが、根は悪人ではなかったのかもしれない。
それでも、とすぐに思い直した。反省しても、あの方は戻らないだろう。全額寄付しても、全件返送した目録の一行は消えない。
なぜそう直感するのか、自分でも正確には分からない。ネル・クローゼとは夜会で数回隣り合わせた程度の付き合いだ。話したことはほとんどない。私は彼女を「可哀想な壁の花」だと思い、心の中で同情していた。同情することで自分の位置を確かめる。あの方が何を考え、何を感じていたかは、同情の対象にする必要がなかったので考えもしない。そういう付き合い方だった。
翌日、用事で王宮の文書館棟を訪ねた折、廊下の奥に二人の姿を見つける。
ブルクハルト総裁とネル・クローゼが、窓際に並んで立っている。距離は腕一つ分ほど。近すぎず、遠すぎない。仕事の話をしている間柄の距離に見えるが、二人の間に流れている空気が少し柔らかい。総裁の肩の力が抜けていて、クローゼ殿の立ち方もいつもの文書室の姿勢とは違う。
ブルクハルト総裁が話していた。声は低く、窓の外に目を向けている。
「選ばれなかったから、自分で場所を作りました」
公爵家の次男がそう言った。家督を継がなかった人間の言葉だ。選ばれなかった側の経験を、選ばれなかった側の女性に話している。社交の場では聞いたことのない種類の会話だった。互いの傷を見せ合うのではなく、傷の形が似ていることを確認しているような静けさがある。
ネル・クローゼは黙って聞いていた。頷きもせず、相槌も打たず、ただ同じ窓の外を見ている。その沈黙が、ブルクハルト総裁の言葉を受け取っている形に見えた。受け取っている。拒絶でも同意でもなく、ただ受け取っている。
私はその場を離れた。見るべき光景ではないと思ったのだ。
次の夜会で、広間に入ったとき、壁際の長椅子が目に入った。花瓶の隣の席。いつでも空いている、誰も座りたがらない席だ。
空いている。
当たり前だ。ネル・クローゼはもう夜会に来ていない。いつから来なくなったのか。あの賭けの夜からだろうか。もっと前からかもしれない。花瓶の水を替える給仕のほうが、あの椅子をよく知っている。私はあの席が空いていることに、今夜まで一度も気づかなかった。三年間、あの椅子の前を何十回と通り過ぎて、空いていることに一度も。
隣にいた令嬢に聞いた。「クローゼ殿は、いつ頃から夜会にいらしていないのかしら」
あの方の席がいつから空いていたのか、誰も答えられなかった。
花瓶の水は給仕が替えている。花は新しい。椅子も磨かれている。席の準備だけが続いて、座る人間がいない。そのことに夜会の誰も気づかず、気づかないまま何度もあの椅子の前を通り過ぎていた。私も通り過ぎていた。何度も。
帰りの馬車の中で、窓の外の灯りを見ながら考える。私はあの方を「壁の花」と呼んでいた。壁際に座って、踊りもせず、誰とも話さず、ただいるだけの人。いるだけの人がいなくなっても、誰も気づかない。それは、いないことと同じだ。だが本当にいないことと同じだったなら、ブルクハルト総裁が推挙することはない。あの方には、私たちの夜会とは別の場所に、別の価値があった。私たちが見ていなかっただけだ。
壁の花は、騒がなかったのではない。私たちを相手にしなかったのだ。




