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三ヶ月分の思い出ごと、何も無かったことにいたしましょう  作者: 九葉(くずは)


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8/8

第8話 何も無かったことに

推挙状は、文書館総裁の印が押された正式な書面だった。


テオ・ブルクハルトが文書室を訪ねてきたのは、午後の鐘が二つ鳴った直後だ。前回と同じように受付台の前に立ち、封書を一通差し出した。外交文書翻訳官への推挙状。王立文書館の官位で、署名入りの文書を扱う資格が付く。署名のない写本を書いてきた私に、署名を求める仕事を勧めている。その対比に気づいているのかどうか、この人の穏やかな表情からは読めない。


「受けても断っても、あなたの写本の価値は変わりません」


テオ・ブルクハルトはそう言って、封書を受付台の上に置いた。手を離し、一歩下がる。封書と私の間に、何の力も加えない。選ぶのは私だという意味が、その距離にある。前回の来訪のときも同じだった。この人は距離を縮めるのではなく、距離の中に選択肢を置く。


「拝見します。少しお時間をいただけますか」


「もちろんです」


会釈をして廊下に出ていく背中を見送った。来客記録簿を開き、日付と来訪者名を書く。所要時間の欄でペンが止まった。いつもなら書く。ディルク・ダナーのときは「五分」と書いた。


空欄のまま、記録簿を閉じる。所要時間を決めなかった。決めなくていいと思えたこと自体が、三ヶ月前の自分との違いだ。


その夜、自室で推挙状を読み直した。文面は簡潔で、推挙の理由として写本の質と外交文書への理解力が記されている。私の名前がある。ネル・クローゼ。署名のない写本を三年間書き続けてきた名前が、推挙状の上では正式な宛先になっている。


机の引き出しには、返送目録の控えがまだ入っている。十四行の目録。六行目に「押し花」と書いた夜のことを思い出した。


あの三ヶ月間の感情は本物だった。


ディルク・ダナーに頷いた夜、月明かりの庭で石畳の模様が崩れた一瞬を覚えておきたいと思ったこと。花束から値のつかない野花を一輪抜いて、目録の六行目に挟んだこと。毎朝、花弁が紙に溶けていくのを確かめたこと。手紙に書かれた鳥の名前を覚えて嬉しかったこと。文書室の前でインクの染みを隠したとき、隠さなくていいと思えた安堵。


全部本物だった。本物だったことを恥じてはいない。偽物と交換されていたとしても、私の側で起きたことは私のもので、誰にも値引きさせない。


だからこそ、同じ相手にもう一度差し出すことはできない。使い済みの本物を再利用するのは、自分の感情を自分で安くすることだ。あの夜の月明かりの温度を覚えている。覚えているまま、手放す。手放すことで守る。私の三ヶ月は、目録の控えと一緒に引き出しの中にある。引き出しは閉じたが、捨ててはいない。


推挙状を封筒に戻し、窓を開けた。夜風が入る。三ヶ月前と同じ風だが、同じ温度ではない。あの頃の風は誰かに会える予感を運んでいた。今の風は、自分の机に戻る静けさを運んでいる。どちらが好きかと聞かれたら、今の風だと答える。


三日後の午前、文書館の受付にディルク・ダナーが現れた。


今度は騎士団の正装だった。制服の襟を正し、背筋を伸ばし、受付台の前に立っている。前回の砕けた口調も、前々回の私服の外套もない。正装で来るということは、これを正式な場として扱うという意思表示だ。騎士としての礼節をもって来ている。その礼節が本物であることは、姿を見れば分かる。分かった上で、私の答えは変わらない。


「クローゼ殿。お時間をいただきたい」


来客記録簿を開いた。日付、来訪者名、所属、用件。手順通りに書く。所要時間の欄は空けておく。


「どうぞ」


ディルクが一歩前に出た。受付台の横に回り、私の前に片膝をついて座る。文書室の同僚が何人か顔を上げ、すぐに視線を戻した。


「あの賭けは間違いだった。今の気持ちは本物だ。やり直させてほしい」


声は低く、真剣だった。あの庭で「君は特別だ」と言った声に似ている。だが似ているだけだ。同じ喉から出た声が、庭と控室で違うことを言った。二つの声のどちらが本物かを判定する仕事は、もう私の手元にはない。どちらも本物だとしても関係がない。


「ダナー様」


立ったまま、声を上げず、下げず。


「賭けの景品に、後から値段をつけ直すおつもりですか」


ディルクの表情が崩れた。怒りの崩れ方ではない。理解の崩れ方だ。自分が何をしたかの重さが、言葉の形でようやく届いた顔をしている。


「……許してもらえないのか」


「許します。ただ、許すことと戻ることは別です」


許しは渡す。あの賭けが軽率だったことは分かっている。反省が本物であることも、全額寄付の話からも伝わっている。ディルク・ダナーは悪い人間ではない。悪い人間ではないことと、私がもう一度感情を差し出すこととは、同じ帳簿の話ではないだけだ。


「お体をお大事に。昇進の再審査、よい結果をお祈りしています」


最後に、業務上の挨拶を添えた。丁寧で、正確で、温度のない言葉だ。この温度のなさが三ヶ月前の温かさの反転であることを、ディルクは分かっているだろう。分かっているから、何も言わずに敬礼をして、文書室を出ていった。


扉が閉まったあと、しばらく受付台の前に立っていた。手は震えていない。声も揺れなかった。ただ、三ヶ月前のあの夜会の帰り、靴音を殺して廊下を戻ったときの足裏の冷たさを、一瞬だけ思い出した。あの冷たさはもうない。今の足裏は温かく、温かいまま次の手順に進める。


来客記録簿の所要時間の欄には、何も書かなかった。ディルク・ダナーとの最後の面会に、所要時間をつける意味がもうない。この人との時間は、計量の対象から外れた。


文書室に静けさが戻った。同僚たちはペンの音を立てて仕事を続けている。私も書見台に向かい、中断していた写本の続きを書き始めた。ペンの速度は変わらない。字の形も変わらない。ただ、三ヶ月前より筆が少しだけ柔らかくなっていることに、自分で気づいた。硬くなっていた筆が戻りつつある。テオ・ブルクハルトが指摘した変化の逆方向だ。


翌日、文書館の総裁室を訪ねた。


机の上には分類途中の古い写本が積まれている。ブルクハルト総裁は椅子に座ったまま、私が入るのを待っていた。整理中の写本に栞が挟まっている。待っている間も仕事を続けていた人の手元だ。


「推挙の件、受けさせていただきます」


顔を上げた総裁の目が少し動く。


「あなたに選ばれたから行くのではなく、私が行きたいから行きます」


この言葉は、前の晩に用意していた。三年間壁の花だったのは、選ばれなかったからだ。だが翻訳官を受けるのは、誰かに選ばれたからではない。私がこの仕事をしたいと思ったからだ。推挙がなければ機会はなかった。それでも、受けるかどうかの判断は私のもので、私はそこに自分の名前を書くことを選ぶ。三年間、署名欄を空白にしてきた手で。


ブルクハルト総裁が小さく微笑んだ。この人が笑うところを見るのは初めてだ。目元に皺が寄って、学者の顔が少しだけ年相応に見える。堅いばかりだと思っていた人が、笑うと温かい。


「では、よろしくお願いします、翻訳官殿」


総裁室を出て、廊下を歩いた。窓から午後の光が差している。文書室の方角から、同僚たちのペンの音がかすかに聞こえる。三年間通った部屋だ。あの机を離れることに未練がないと言えば嘘になるが、未練と決断は同じ引き出しに収まる。


翌月、翻訳官の辞令が下りた。


肩章のついた新しい制服は、文書室の制服より少しだけ重い。文書館の廊下を歩くとき、靴音が石に響く。底の薄い文書室の革靴ではない。官吏用の硬い靴底だ。あの夜会の帰り、控室の前で靴音を殺した廊下を、今は自分の足音で歩いている。殺す理由はない。隠す必要もない。この靴音は私のもので、私がここにいることの証明だ。


窓辺の机に、小さな瓶を置いた。瓶には野の花が一輪、生けてある。白い花だ。押していない。生きたまま水に挿して、生きたまま飾っている。枯れたら替える。押し花にはしない。花は生きているうちが一番きれいだと、今は思う。


翻訳官として最初の文書を仕上げたとき、署名欄にペンを走らせた。三年間空白だった欄に、ネル・クローゼと書く。筆圧はいつも通りで、速度もいつも通りだ。ただ、名前を書くという動作は、写本の手順とは違う場所に属している。これは記録ではない。署名だ。自分がここにいるという証明を、自分の手で、自分の名前で残す行為だ。


何も無かったことにしましょう、と私は言った。あの日は本気だった。今も本気だ。ただ、もう、あの人の話ではない。

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― 新着の感想 ―
作者のこのシリーズは、毎回『ざまぁ』に達していないの内容ばかりだが、この作品に関しては物語の結末として『ざまぁ』を書く余地が有る作品だと思うので、追加で物語を完結して欲しい。
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