非合法レストラン、メニューのない階段
紹介制のその店は、薄暗い裏路地にある古く長細い複合雑居ビルの二階という、およそまともな飲食店らしからぬ場所にあった。
見上げるような剥き出しの鉄の階段は、斜度20パーセントはあろうかという急勾配だ。
一段登るごとに高鳴る胸。
それが、今や都市の9割を占める「栄養最適化フード」から逃れて、失われた味覚のレプリカを食すことへの期待によるものか、それとも物理的な心拍数の上昇によるものかは、踊り場に着くまで判然としなかった。
窓際の奥まった席に案内され、寂れた常闇の隘路を眺める。
手渡されたメニューを広げ、「さて、何にしようか」と連れと相談を始めた。
だが、この店において、現代社会の基本である「選択権」という概念は、階段の下に置いてくるべきだったらしい。
「ベルギービールがあるね」
呟きが漏れた瞬間、オープンキッチンから濁った声が飛んできた。
「はい、ベルギービールね」
店主の手には、すでに二つのグラスが握られている。まだ注文ボタンなど押していない。
だが、3メートル離れた厨房に立つ彼は、客の迷いなどお見通しだと言わんばかりに、こちらの独り言を「確定オーダー」へと鮮やかに変換していく。
この店のテーブルには、客の脳波やバイタルから最適な栄養素を計算してメニューを絞り込む「最適化AI」なんてものは導入されていない。
店主の脳そのものが、暴走するシステムだった。
「レッド・マターのカルパッチョ、食べる?」
「うーん、どうしよ……」
「はい、カルパッチョね!」
連れの言葉を遮るように、店主の声が重なる。
「それと闇培養片生ハム、食べておきな。盛り合わせにするから!」
もはや対話ではない。
それは厨房から放たれる独奏だった。
疑似獣肉のパテを所望すれば、
「今日はできないからの密造肉のステーキね。その前に違法ペプチド塊ポルチーニ出すから!」
と、構成まで勝手に書き換えられていく。
店主の舌は、客の好みよりも、自身の「今日出すべきもの」に忠実だった。
本場イタリアの旧市街で長年修行したというその男は、饒舌という言葉では足りないほどによく喋った。
質問を投げておきながら、こちらの答えが半分も終わらぬうちに自分の話へとすり替える。
こちらの意図が読めず混乱しては不機嫌になる店主に、店内は常に騒がしい緊張感に包まれていた。
コミュニケーションを深めようと、彼が住んでいるという不夜城と呼ばれる繁華街の話題を振ってみたが、これも裏目に出た。
「あんな街におすすめできる店など一軒もない」と一蹴されたのだ。
彼は「レストランは銀座の1等地しか認めない」と豪語する。
非合法の闇レストランを営んでおきながら、志は銀座と同じなのだという。
その論理は、階段の傾斜よりも急で、理解しがたいものだった。
価格の目安は一切不明。
唯一の手がかりは、壁の電子黒板にある「ワイン3,000クレジット〜」という殴り書きだけだ。
私は防衛本能に近い心理で、釘を刺すようにこう切り出した。
「ワインを飲みたいんですが、メルローはありますか?」
「俺がメルローなんて置くわけないじゃん!」
不遜な態度に、私は諦めて最後の防衛線を張った。
「……じゃあ、3千から4千の予算でお任せします」
一番安い価格帯を指定したのは、私のささやかな抵抗だった。
だが店主はどこ吹く風で、ドヤ顔と共に禁忌カベルネ・ソーヴィニヨンを運んできた。
メルローは拒絶され、カベルネは良しとされる。
その境界線は、やはり彼の中にしかない。
結局、私たちは店主の暴走を受け入れるしかなかった。
彼はそれを「理解ある客」と解釈したのか、「わかってるね!」と上機嫌で連呼し始めた。
「紹介者に礼を言わなきゃな!」
独りごちる店主に、心の中で「まず目の前の客に礼を言ってくれ」とツッコミを入れる。
二時間の「嵐」が過ぎ去り、手渡された紙の伝票には、二人で約32万8千クレジットという数字が踊っていた。
ランチは5千クレジット程度だと聞いていたが、ディナーの価格設定もまた、彼の「銀座基準」によるものだったらしい。
料理の味は、ワインを除けば普通に美味しかった。
そう、あくまで「普通に」だ。
店を出て、再びあの急な鉄の階段を下りる。
あの店主も一度、不夜城にある古典料理の名店へ行けばいい。
そこには栄養最適化フードをベースにしているとは信じがたい、旧世紀の知恵で極上の逸品へと昇華させた一皿が、適正な価格であるのだから。
◇
客が去り、深夜の静寂が戻った店内で、店主は使い古されたポスレジの画面を叩いていた。
そのレジの内部モジュールは、今日一日で発生した「異常な決済データ」を、都市の統合管理サーバーへと送信している。
【エラー:顧客の事前予測データと注文内容の不一致率 98%】
【エラー:提示予算と最終決済額の乖離 200%超】
現代の経済アルゴリズムから見れば、この店の運営データはただの「バグ」であり、予測不能なノイズの塊でしかなかった。
客の好みを無視し、予算を無視し、自身のプライドだけで成立している、あまりにも非効率で理不尽なシステム。
だが、ポスレジの暗い画面の底で、蓄積されていくノイズデータは、奇妙な熱を持ち始めていた。
すべてが最適化され、計算通りの「正解」しか出力しない世界の中で、この階段の上で繰り広げられる「理不尽なまでの自己主張」と「それを最終的に受け入れて笑ってしまう人間のゆらぎ」。
その規格外のデータログを、端末はただ、静かに、深く吸い上げ続けている。




