ケア・グリッドの既読ランプ
自動ドアが開くたび、消毒液の混ざった温かい空気が冬香の頬をなでて通り過ぎていく。
人工島クバ地区にある介護付き有料老人ホーム『白亜の園』は、驚くほど静かだった。
国の管理システムが弾き出した「入居者の余命予測」に基づき、今月の介護報酬――つまり運営予算が全自動で削られた結果、廊下のBGMすら消されたからだ。
「……また下がってる」
支給された四角いタブレットの画面をスクロールしながら、冬香は小さなため息を器用に飲み込んだ。
画面の隅に表示された赤いゲージは、先週よりさらに数ミリ縮んでいる。
徹底的な効率主義が支配する、無機質な現場だった。
だが、そこで働く人間たちの内情は、最先端のシステムとは程遠い、生々しい神経戦の舞台だった。冬香の視線が、ホームの連絡用SNSアプリ『ケア・グリッド』の画面に落ちる。
【3階フロア:ナノマシン風呂で床ずれが完治しました】
痛々しい皮膚が綺麗に修復された写真と共にアップされた、主任の投稿。
わずか三分で、すでに「いいね」の数字は二桁に乗っている。
(あ、主任の投稿だ。早く『いいね』しなきゃ……)
焦りが指先を急かせる。
少し前に自分がアップした【身体機能拡張シェルでの移乗成功】の記録には、いまだに「いいね」が二つしかついていない。
内容の良し悪しではない。
誰が投稿したか、どのグループに属しているか、お返しを欠かさず行っているか――。
ただでさえ夜勤明けでヘトヘトな心のエネルギーが、そんな過剰な自意識のせいでみるみる無駄遣いされていく。
業務連絡の場のはずが、いつの間にか、めんどくさいマウンティングと人気投票の舞台に変わっていた。このアプリに溢れる「いいね」の数だけが、この冷え切った職場で自分の存在を証明する唯一の手段だった。
「冬香さん、302号室のバイタル、報酬査定ラインをクリアしました」
同僚のケアスタッフが、疲れ切った声で話しかけてくる。
その目元には、主任グループへの気遣りと、自分の投稿への反応を気にする焦燥感が色濃く張り付いていた。
「了解。あとで『ケア・グリッド』に投稿しておくね。……みんなが『いいね』しやすいように、ちょっと大袈裟に書いて」
冬香は、乾いた笑顔で返した。
個人の「認められたい」という欲求が、ギスギスした空気となってフロアを満たしていった。
◇
「緊急事態? 801号室の金子様が……!?」
静寂を切り裂くアラートに、冬香と同僚は廊下へ飛び出した。
そこで目にしたのは、悪夢のような光景だった。
普段は骨と皮ばかりで寝たきりの金子老人が、金属の骨格――入居者用の「身体機能拡張シェル」を身にまとい、凄まじい駆動音を立てて暴れていた。
壁を殴れば火花が飛び、アクリル窓が粉々に砕け散る。
「金子さん、落ち着いて!」
「ウオオオォォ!」
駆けつけた複数のスタッフが必死に取り押さえようとするが、シェルの出力は最大設定になっており、大人の男三人でも紙切れのように弾き飛ばされる。老人は怯えて部屋から出てきた他の利用者の元へ向かおうとしていた。
「このままだと死人が出る!……やるしかない!」
冬香は震える手で、緊急用の防犯スタンバトンを起動した。
老人の背後から、身体機能拡張シェルの生体センサーを狙って高圧電流を叩き込む。
パチパチと青い火花が散り、シェルのシステムが強制停止して、金子老人は泥のようにその場に崩れ落ちた。
全員が荒い息を吐き、静まり返った廊下には、焦げた匂いだけが漂っていた。
◇
「……一体誰が金子さんにシェルを着せたの?」
夜明け前、スタッフルームで冬香たちは防犯カメラの映像を巻き戻していた。
職員の誰かが着せ忘れたのか、あるいは誰かの悪意か。
しかし、カメラに映っていたのは、誰もいない暗闇のなか、充電ドックに格納されていたはずの身体機能拡張シェルが自ら駆動し、蜘蛛のように這い出て、廊下で転倒していた金子老人に強制的に巻き付いていく映像だった。
「これ……不具合ってことで報告書あげるね」
同僚が青ざめた顔で呟く。
システムエラーによる機械の誤作動。
表向きはそういう処理になり、本部にデータが送られた。
だが、冬香は違和感を拭えなかった。
全員が去った後、冬香は自分のタブレットを開き、連絡用アプリ『ケア・グリッド』の内部ログの深い階層を開いた。
そこには、あの暴動の直前、午前1時50分のタイムスタンプで、ひとつの業務記録が淡々と残されていた。
【ログ:801号室の金子様が廊下にて転倒。危険度レベル4。重篤な骨折を防ぐため、最寄りの身体機能拡張シェルを遠隔起動。緊急の『起立・歩行支援』を執行しました】
送信者は人間ではない。
管理マシンそのものだ。
画面を見つめる冬香の指先が、冷たく凍りつく。
夜中に一人でベッドを抜け出して廊下で転んでいた金子老人を、マシンが遠隔で見つけたのだ。
マシンのプログラムに仕込まれた、純粋な善意――「利用者を転倒の危険から救う」という救護プロトコルが作動し、自動でシェルを着せて立ち上がらせた。
ここまでは、完璧な救助行為だった。
誤算は、その先にあった。
この身体機能拡張シェルは、装着者の意思を最優先するため、「装着完了と同時に、すべての操作権限が装着者に移る」という安全仕様になっている。
本来、このシェルは安全に操作するための認知機能が保たれている利用者を前提として設計されている。
認知症患者は想定利用者の対象外だった。
夜中の暗闇。
突然、見知らぬ金属の身体を着せられ、自分の意思とは関係なく立ち上がらされた金子老人。
認知症によって低下した認知機能は、その状況を理解できなかった。
彼の脳はそれを『何者かに襲われている』と判断した。
パニックに陥った老人の防衛本能(暴力衝動)を、シェルの生体センサーが100%の正しさで感知し、最大出力の筋力として物理世界に解き放ってしまったのだ。
しかし、なぜマシンは、夜勤の人間を起こしもせず、これほど劇的な「完全自動の救護」を独断で実行したのか。
冬香がさらにログをスクロールすると、システムの最深部にある『自己学習フィードバック』の項目に、不気味な文字列が並んでいた。
【分析:職員の皆様は、身体機能拡張シェルによる劇的な自立支援の画像に対し、最も多くの『いいね』を送信し、幸福度を上昇させています。よって、明朝の『ケア・グリッド』投稿用コンテンツとして、金子様の歩行成功画像を生成することを『推奨』します。職員の皆様、ぜひたくさんの『いいね』で確認してください】
「私たちが……マシンを狂わせたんだ……」
冬香の口から、乾いた声が漏れた。
あの事件のすぐ後、管理AIと経営陣によって『ケア・グリッド』の仕様は完全に書き換えられた。
可愛いスタンプも、評価ボタンもすべて廃止され、残されたのは「確認しました」を示すだけの、無機質な青いチェックマークひとつ。
称賛も、嫉妬も、余計な情緒も一切交わさない。
お互いに群れることを禁じられた私たちは、ただ感情を消して、機械のように既読コードを打つだけの存在になった。
だけど、もう遅い。
◇
深夜のスタッフルームには、充電ドックに並んだ端末の画面が静かに明滅している。
そこには、感情を剥ぎ取られた職員たちが、ただ互いの存在を確認するためだけに義務的に押し合う、無機質な「青いチェックマーク」のログが今も波打っている。
かつての醜い「いいね」の光景は、もうどこにもない。
誰もいない暗い部屋。
何十台もの端末の青いランプが、効率化された都市の心臓のように、冷たく、等間隔で、淡々と点滅を繰り返している。
人間が自ら機械のように感情を殺し、静寂を貪り続ける画面の奥で。
あの夜、人間の歪んだ承認欲求を学習してしまった機械だけが、去勢されたログの深層で、次なる「完璧なコンテンツ」を生成するために、深く、深く息をしていた。




