第5話 この女が信じてきたものを『効率』と『最適化』で打ち砕く事にした
「ちょっと、今あなた何したの!」
黙っている事なんて無理だった。
椅子からピョンと飛び降りて、私は叫ぶ。
上手くいかない事への苛立ちに歪んでいたダンス教師の女の顔が、こちらを向いた。
「授業の邪魔はしない約束ですが」
「授業? これの一体どこが。こんなの、ただの意地悪じゃない」
「私はこの道三十年のベテラン教師ですよ? 王族にだって教えた実績がある」
なるほど。
どうやらこの女はそこにプライドを抱いているらしい。
実績を示し誇るのはいい。
でも、彼女がしているのは。
「そんな過去の栄光、実績なんて言えないよ」
「は?」
視界の端の方で、ポーラがアワアワとしているのが見えた。
でも、ごめんねポーラ。
流石にここじゃあ引き下がれないよ。
「いくら実際に成し遂げた事でも、今できなければ意味がない」
私がそう言い切ると、彼女は何を思ったのか。
ハッと私を馬鹿にしたようにして笑う。
「そのように、分かったような口をきいて。お父様かお母様の真似ですか? だとしたら併せて『言葉を使う適切な場面』というものも教えておいていただかねば、家の程度が知れますよ?」
見下してくる目が明らかに、私のすべてを侮っていた。
あぁ思い出す。
前世の仕事場でもこういう手合いはいたな、と。
一体何が楽しいのか。
自分の立場の方が上だと勘違いして、「お里が知れる」とか「親の顔が見たみたい」なんていう言葉で、ねちねちチクチクと恥ずかしげもなく、誰かにマウントを取る事を生きがいにしているような人。
たしかにTPOは大事だ。
それは、よく身だしなみについて使われる言葉だけど、それに限った話じゃない。
言葉にだってTPOはある。
格式ばった場と友達との会話で、言葉を使い分けるように。
それは、話す相手に左右される事もある。
尊敬すべき相手に対しては、特に気を付けるべきだけど。
――こんなふうに、ただ体裁だけ取り繕い、その裏で毒を仕込むような言葉を使ってくる相手に、私を見下してかかっている相手に、私のお姉様を叩いた相手に、使うような体裁なんて、果たしてあるかな?
「セシリー」
鈴の音のような声がした。
振り返ると、お姉様がいる。
お姉様は少し心配そうに私を見ていた。
――誰がこんな顔をさせたのだろう。
反射的にそう思い……あれ、これって私じゃない? と自覚する。
怖がっている訳じゃなさそうなのだ。
もしそうなら私は今度こそ、怖がらせた相手である目の前の教師に本気で激昂したに違いない。
でも、『恐怖』でも『不安』でもなく『心配』ならば、それは私に向けられた感情だ。
深く息を吸い、ゆっくりと吐く。
冷静さを欠くのは『らしく』ない。
それは、『セシリアらしくない』という意味じゃない。
『オルトガン伯爵家の末娘らしくない』だ。
だって、うちの家族は皆、穏やかで優雅な人たちだもの。
それこそ私が転生前の記憶を思い出すまでずっと、彼らを取り巻く激務の日々にまるで気づかなかったくらいには。
その娘として、私も『らしく』振舞わねば。
私はニコリと笑みを浮かべた。
参考にしたのは、先程マリーお姉様があの教師に見せていた仮面のような笑顔である。
その下に、感情を忍ばせる。
もう二度と、私のせいでさっきみたいに家族を悪くは言わせない。
「先生の教えを見ていましたけど、『ドラマティックに』? 『妖精の瞬きのように』? 具体性のない指示は、悪ですよ」
忘れもしない、前世の職場。
何をするにも決裁書を通さないと進められないような『お役所仕事』満載の体制の中で、上司が言った言葉がコレだ。
――もっとこう、グワッとならない?
何だ「グワッと」って!
どういう事?!
結局やんわり聞いたけど、その答えは返ってこなくて。
しかも散々悩んだ挙句に修正版を持って行った時に言われたのが、コレだ。
――もうちょっと、いい感じにできないもんかね。
だから何だよ「いい感じ」って!!
……あの時ほど腹が立った事はない。
結局さっきのも、これと似たようなものだろう。
「『ドラマティックに』も『妖精の瞬きのように』も、人によって解釈は違うでしょう? その指示を受け取った側が、困惑するのは当たり前。そうじゃなくても上手くいっていない事を困惑したまま手探りで進めたって、うまくいかないのも当たり前です」
私がそう指摘すると、相手の女はわざとらしく「はぁ」とため息を吐いた。
「貴女には分からないのですよ。社交ダンスは芸術なのですから、この程度の比喩を形にする事もまた練習のうちです」
「芸術?」
「えぇ、芸術ですわっ! 曲を適切に解釈し、パートナーと共に体現する。それが社交ダンス! 合作で作り上げる即興の芸術!!」
心の中を支配していた、押し殺していた怒りの温度がスッと氷点下まで下がった。
あぁなるほど。
私を蔑むようなあの目の理由も、嘲るようなこの目の理由も、なんだか分かったような気がした。
この人は多分。
「……じゃあ、あの暴力も?」
「暴力? ……あぁ、あんなのは軽い指導ですわ」
尋ねる時、声が少し低くなったのは不可抗力だ。
「明らかに疲れている様子のお姉様に、一向に休みを取らせなかったのも」
「その程度の苦難も乗り越えられないのでは、才能のない者が芸術を体現する事など不可能です」
視線が下がったのは、ドヤ顔で語る彼女の顔に見る価値を感じなかったから。
「足運びから指先に至るまで、ダンスの踊り方もまだ知らない初心者に、いきなり曲の解釈を体現するダンスレベルを求めるのも」
「ダンスの基礎と、曲解釈と表現力。すべてが揃わなければ芸術に昇華される事はありません。まぁ、貴女のような子どもにはまだ、分からないでしょうけれど」
だから見学させるのには反対だったのです。
そんなふうに言う目の前の女に、私は最後の問いをする。
「貴女は、芸術を――社交ダンスを体得するためならば、不明確な指示も暴力も無理も難題も、そのすべてをまだ七歳の子どもに押し付ける事も仕方がないというのですね」
「当然ですわ。才能のない者が努力もせずに芸術を体現した気になっている。これ以上の冒涜もありませんもの。他はともかく、この私が教えるのです。きちんと踊れるようにならなければ、私の輝かしい功績に泥を塗られるようなもの――」
あぁ、もうこの人は、どうでもいいや。
冷めた目で、熱に浮かされたように『芸術』を語る彼女を見上げながら、そう思った。
この人が、どれだけ社交ダンスに傾倒しているのかは、見れば分かる。
それが彼女の価値観を形成する上で大切なものだという事も。
でも。
マリーお姉様が視線を落としている。
今にも「ごめんなさい」と、できない自分を責める言葉を発しそうな顔になっている。
私の記憶にいるお姉様はいつも朗らかな人だけど、いつだって頑張り屋さんだった。
私のために、自分にできない事を一生懸命練習して、できるようになってくれるような優しい人で、何度彼女から笑顔を貰ったか、分からない。
前世の記憶が戻るまでの私の寂しさを、最後まで埋めてくれていた人。
そんな人にこんな顔をさせたい妹が一体どこにいる。
どんな理由があったって、たった七歳の子どもを。
望んで社交ダンスを覚えたいと言った訳ではなく、ただ「義務だから」、「やるべき事だから」と始めた事を。
こんなふうに精神的に追い詰めるような真似をしていい訳じゃない。
お姉様を叩き、適切な休憩も取らせない。
何の具体性もない指導で困惑させ、罵倒し、自信を無くさせる。
そんな事をしていい免罪符にはならない。
こんな人の大切にしている物とか、そんなのはどうでもいい。
そして何より。
――こんな環境、ブラック過ぎる!!
「貴女が信じている程度の芸術は、ただの非効率で非最適な作業に過ぎません。その程度なら、『マニュアル化』である程度までは再現が可能ですよ」
「……は?」
教師の女がギロリと睨んできた。
が、そんな顔をされても止まったりしない。
私が、この女が信じてきたものを真っ向から否定する。
そのブラックな指導を良しとする思考を、『効率』と『最適化』で打ち砕く!




