選択の代償
Side:レオン
夜も更けた執務室は、冷えた空気だけが満ちていた。
レオンは婚約破棄を成立させた日から、ずっと胸の奥に薄い不安を抱えていた。
証言はすべて揃えた。エリシアやリリーナの証言、学園内の状況、積み上げられた事実。それらを元に正式な告発として提出し、カメリア・ローデリアとの婚約を破棄した。
だが、当のカメリアは何も言わなかった。
否定もしない。弁明もしない。ただ静かに、その決定を受け入れただけだった。
その無言が、なぜかレオンの中で引っかかり続けていた。
(……あれで、よかったはずだ)
公爵家に生まれた以上、自由など最初からなかった。何を学び、誰と会い、どの家と結ぶか。すべては家のために決められていく。
そんな窮屈な人生の中で、せめて婚約者くらいは、自分で選びたかった。
カメリアは優秀すぎた。冷静で、隙がなく、常に正しい判断をする。カメリアは兄とよく似ていた。昔から兄と比べられ、自分の未熟さを突きつけられるたびに、レオンの中には小さな劣等感が積もっていった。
その隙間に入り込んできたのがエリシアだった。
彼女は違った。優しく、寄り添い、レオンの言葉を否定しない。疲れた心をそのまま受け止めてくれる存在だった。
(これでいい。これが正しい選択だ)
そう思いかけた、そのときだった。
執務室の扉がノックもなしに重く開く。
「レオン」
低い声に、空気が一瞬で張り詰める。
そこに立っていたのは父だった。宰相として国政を担い、国王からも厚い信頼を受けるこの国の中枢。
その手には一通の書状があった。
見覚えのある紋章。カメリア・ローデリア家の封蝋。
「なんてことをしてくれたんだ」
静かな声なのに、怒気が抑えきれていない。書状が床に叩きつけられる。
「お前が勝手に破棄して良い縁談ではなかった。これでどれほどの損失と、貴族の中での信頼を失ったか分かっているのか」
レオンは初めて見る父の剣幕に息を呑む。
そこで初めて、貴族としての判断ではなく、自分個人のために動いていたことを自覚する。
「……父上、でもエリシアは僕を支えています。彼女は優しくて、僕の味方で……!」
言葉を重ねるほどに、父の目が冷えていく。
「だからお前は愚かだ」
一刀両断だった。
「カメリア嬢がどれだけお前を支えていたか分からないのか。分からないから、こんな真似ができる」
レオンは言葉を失う。
カメリアが、支えてきた部分。貴族としての自覚が薄いレオンを、陰ながら支えてきた。
父は続ける。
「カメリア嬢との婚約は、ただの縁談ではない。第一王子の基盤を固めるための政治的要だ。ローデリア家との結びつきがどれほど重い意味を持っていたか、理解していたはずだろう」
その言葉が、ゆっくりと胸に沈んでいく。
(政治……?)
「それを一時の感情で台無しにした」
沈黙が落ちる。レオンの中で、何かが軋む。
背中に冷たい汗が流れていく。父の言葉は、ゆっくりとレオンに罪の重さを刻み込んでいく。
父は一拍置いて、静かに言った。
「これはもう、家同士の問題ではない」
「第一王子派の均衡に関わる」
胸の奥にあった、薄い不安が、形を持ち始める。
「ローデリア家は表面上は受け入れた。だが、それは終わりではない。すでに別の動きが始まっている。お前にはこの件の当事者として、責任を取ってもらう」
その言葉が落ちた瞬間、レオンの顔から血の気が引いた。
数秒の沈黙のあと、膝から力が抜ける。
床に崩れ落ちるように座り込み、肩が震えた。
「……だったら最初から!最初からそう言ってくだされば良かったじゃないか! 私の意思など、最初からいらないと言ってくだされば——!」
理性が崩れたまま、言葉だけが転がる。気が動転した様子のレオンを見ても、父は同情すら浮かべなかった。ただ、息子の浅はかさに、一つため息を落とした。
「今からでも……今からでも婚約破棄をなかったことに出来ないでしょうか!?」
顔を上げたレオンの目は血走り、必死というより縋るようだった。
「カメリアは……まだ私を……愛しているはずだ!! だったら戻せるはずだ!!」
だが、その言葉は空気に沈んでいく。
父は一歩も動かない。ただ、物事の見通しが甘く、自分のことしか考えられないレオンを冷ややかに見下ろしていた。
「そんなことが罷り通ると思うか。一度切った縁を、感情ひとつで戻せるとでも?しばらくは、あの男爵令嬢にも近付くな」
その言葉に、わずかに肩が跳ねた。エリシアは、今のレオンにとって心の支えだ。エリシアまで失ったら、失ってしまったら。
「たかが男爵令嬢に踊らされて、この結果だ」
その視線が、冷たく突き刺さる。
その目は、兄と同じだった。常に正しく、常に期待の中心にいた兄。
レオンはずっと、あの視線の外側にいた。
(理由は分からなかったが、兄が家を離れた)
その空白ができたとき、初めて「自分にも順番が回ってきた」と思った。
カメリアとの縁談は、自分への期待の表れだと思っていた。なのに、それを自分で壊した。
今、自分に向けられている目は、あの頃と変わらない。
「……兄上を、兄上を呼び戻しましょう!兄上ならどうにかしてくれるはずだ!!」
父の眉がわずかに動く。だが、動揺ではない。
ただの確認だった。そして静かに言う。
「シルヴィオは、もう動いている」
その一言で、空気が終わる。
レオンは何も理解できないまま、項垂れることしか出来なかった。
ただ、自分だけが取り残されていることだけが、はっきりと分かった。




