夜の帰路と、見えない手
夜も更けきった頃、アルヴェスト商会は、すっかり静まり返っていた。
昼間は絶えず人と金と情報が行き交う場所も、今はランプの淡い光が机の上を照らすだけで、広い室内のほとんどは影に沈んでいる。紙の擦れる音も、人の気配もない。
その中で、ただ一人。
リナリアだけが机に向かっていた。
外套を羽織ったまま、帰ってきてすぐに座ったのだろう。設計図と帳面が広げられ、指先が紙の端を軽く押さえている。
視線は落ちているが、思考は止まっていない。
(情報は揃っている)
エリシアが意図的に仕掛けた接触。
香水もドレスも偶然ではなく、あの場で起こるように作られていた。
リリーナはそれを見ていた。
そして証言として形を整え、周囲に流した。
それを聞いた令嬢たちは、自分の記憶を曖昧なまま上書きし、見た気がする、という証言を積み上げていった。
筋は通っている。
だが、
(軽すぎる)
リナリアはゆっくりと息を吐いた。
ここまで、あまりに簡単に情報を集められた。
まるで、ここに答えがある、と最初から置かれているような感触。
(それに……)
なぜ、あの二人なのか。
エリシアとリリーナ。
役割としては成立している。だが、ここまで精密に組める存在かと言われれば違和感が残る。
(この二人だけで、ここまで整えられる?)
思考が、わずかに止まる。
そのときだった。
「……まだやってたのか」
低い声が、静寂を崩した。
リナリアは顔を上げる。
入口に立っていたのは、シルヴィオだった。
「こんな時間に、どうされたんですか?」
「それはこっちの台詞だ」
彼は室内に入り、リナリアの机の前まで来る。
その瞳には僅かな不機嫌さが滲み出ていた。
「商会の力は使うな、と言ったはずだが?」
静かな圧。
リナリアは視線を逸らさず答える。
「通常業務の範囲内です」
「お前の通常業務に、学園の催事設営は入ってないはずだが?」
即座に返ってくる正論。夜の冷気を纏ったシルヴィオは、決して嘘は見逃してくれない。
リナリアは小さく息を吐いた。
「……手を回しただけよ。業務そのものは正当だわ」
「言い訳としての理屈は通っているな」
それ以上は追及されない。
シルヴィオは視線だけで続きを促した。
リナリアは今日まで掴んだ情報を整理して言葉を落とす。
「エリシアという男爵令嬢が仕掛けてる。接触も、その後の混乱も全部意図的。リリーナはそれを見て、証言として整えてる。周囲はそれに乗った」
そこで一度切る。
「でも、それだけじゃない」
シルヴィオは黙っている。
リナリアは視線を帳面に落としたまま続けた。
先ほどまでの違和感を、そのまま口に出す。
「ここまでが簡単すぎるのよ。見つけさせるために置かれているみたいに」
シルヴィオがわずかに目を細める。
「それで?」
短く促される。
リナリアは顔を上げた。
不思議だ。昔から、シルヴィオに話すだけで、頭の中が整理されていく。
明確な線引きをしているはずなのに、リナリアの話を聞いて、助けてくれる。だからこの人を信頼して、頼りたくなってしまう。
「個人じゃない」
その言葉で、思考が一段深く沈む。
「誰かが、あの二人を使ってる」
そしてふと、視線がシルヴィオに向いた。
「……シルヴィオ、あなたどこまで知っているんですか?」
「さぁな」
静かな問い。
シルヴィオは肩をすくめる。既にリナリアが何で行き詰まっているのかを察している顔。
「帰るぞ」
「……は?」
「その顔で考えても、同じ場所を回るだけだ」
否定ではない。区切りだ。
リナリアは一瞬だけ考え、帳面を閉じる。
「……分かりました」
商会の外に出ると、夜の冷気が静かに肌を撫でた。
用意されていた馬車に乗り込み、向かいにシルヴィオが座る。
馬車が動き出すと、車輪の音だけが長く響いた。
窓の外には、等間隔に流れる街灯の光。沈黙は重くない。ただ、思考の余白になっていた。
「……やっぱり、引っかかる」
リナリアが静かに言う。
「エリシアとリリーナの動き、全部が揃いすぎてる。偶然にしては形が出来すぎてる」
シルヴィオはすぐには答えない。
リナリアは続ける。
「香水、ドレス、証言の流れ、噂の広がり方……全部同じ方向を向いてる。ここまで、物証も、証言も、リリーナとエリシアの企みも、全部簡単に揃いすぎました」
言葉が途切れる。
「でも、その先が見えないんです。誰が、何のためにここまでやったのか…」
その瞬間だった。シルヴィオが口を開く。
「では、考えろ。得をするのは誰だ」
それだけ。
リナリアの思考が一度止まり、シルヴィオの言葉をゆっくり反芻させて、そして動き出す。
「……得をするのは、誰か」
繰り返した瞬間、線が浮かぶ。シルヴィオはそれ以上言わない。ただ、続きを待つ。
リナリアはゆっくり息を吸った。
「ヴァルクス家と我が家は第一王子派の重要な家」
そこで一度止まる。
(第一王子派)
その単語が意味を持ち始める。
「婚約破棄そのものじゃない。その結果で何が動いた?」
シルヴィオが、思考を整理させるかのように静かに問い直す。
そして、
「……派閥」
その言葉で、全てが繋がる。
「婚約破棄で、第一王子派の一角が崩れた。これは恋愛の問題じゃない。勢力の削り合い」
リナリアの声は静かに鋭くなる。
シルヴィオはようやく目を向ける。
「やっとそこか」
「……最初から、分かってました?」
無言。肯定も否定もしない。だが、それで十分だった。
リナリアはもう一度整理する。
「この件で一番得をするのは——どの派閥?」
その問いに、シルヴィオは少し間を置く。
そして静かに言った。
「お前の考えてるところだろうな」
その一言で、答えは確定する。
リナリアは息を詰めていたことを思い出して、ゆっくりと息を吐く。窓の外の光が流れていく。
(これは個人の破滅じゃない。派閥の戦い)
やがて馬車がゆっくりと止まる。リナリアの屋敷の門が見えた。
「降りろ」
シルヴィオが差し出した手を頼りに、ゆっくりと馬車から降りる。
降りる前、リナリアは一度だけ振り返った。
「シルヴィオ、ありがとうございます」
シルヴィオは少しだけ目を細める。
「次は自分で辿り着け」
馬車はそのまま夜へと戻っていく。
リナリアは屋敷の前に立ち、静かに息を吐いた。




