最終話 祝福
王都でもっとも古い歴史を持つ大聖堂は、朝の光を受けて白く輝いていた。
高く伸びる尖塔。色鮮やかなステンドグラス。
幾重にも重なる鐘の音。王都中から、名だたる貴族たちが参列していた。
控室には、淡い花の香りが満ちていた。
磨き上げられた鏡の前へ座るリナリアを、侍女たちが最後の支度で整えていく。
純白のレース。繊細な銀糸の刺繍。長く床へ流れるヴェール。一切の乱れがないように。
そして、薄く傷跡の残る華奢な背中に、侍女が不安そうに視線を落とした。
「……本当によろしいのですか?」
このドレスなら、もっと隠すこともできた。けれどリナリアは、鏡越しに静かに微笑む。
「はい。隠したくないんです」
その声に、迷いはない。全てを受け入れ、覚悟を決めた、穏やかな声だった。
あの日負った傷は、確かに令嬢としては恥ずべきものかもしれない。けれど、後悔だけは一度もしたことがなかった。この傷があるからこそ、今、自分はここへ辿り着けたのだと思えるから。
すると後ろから、小さく鼻を啜る音が聞こえる。
「……お姉様?まだ式は始まっていないわ」
振り返れば、カメリアが既に目を真っ赤にさせてポロポロと涙を流し、目元を手巾で押さえていた。
「だって……こんなに綺麗になって……」
「もう」
苦笑すると、カメリアは泣き笑いのまま何度もリナリアの晴れ姿を見て頷く。
「綺麗よ、リナリア」
その言葉が、優しく胸へ落ちた。リナリアは少し照れたように微笑む。
「ありがとう」
今日は、結婚式だ。長い時間を経て、ようやく彼の隣へ立つ日。
厳かな鐘の音が鳴り響く。大聖堂の扉が、ゆっくりと開かれた。
瞬間。
ざわめきが止む。純白の光の中、リナリアは父に手を引かれ、一歩ずつ赤い絨毯を歩き出した。
ヴェールが揺れるたび、淡い光が零れる。純白のドレスが、一歩進むごとにまるで波のように揺れる。
息を呑む気配が広がった。美しい。誰もが、そう思った。
背中に残る傷痕さえ、今の彼女を損なうものにはなっていない。むしろ、その傷ごと誇るように、真っ直ぐ前を向いて歩く姿が、眩しいほど美しかった。
そして祭壇の前。
シルヴィオは、そんなリナリアから一瞬たりとも目を逸らせなかった。濃紺の瞳が、眩い光を見たかのように細められる。
ようやく。本当に、ようやく。彼女が自分の隣へ来る。
傷ついても、何度でも立ち上がり、最後には必ず前を向いた愛おしい人。その全てを、シルヴィオは誰より知っている。
リナリアが祭壇へ辿り着く。
視線が重なった瞬間、身体を包んでいた緊張が不思議なくらいなくなった。
「……綺麗だ」
小さく落とされた囁くような声に、リナリアが目を瞬き、照れたように微笑む。
「今、言いますか?」
「思ったから言った」
あまりにも自然で、リナリアは思わず笑ってしまう。厳粛な空気の中だというのに、シルヴィオはまるで緊張していないようだった。
神官の言葉が、静かに大聖堂へ響いていく。
永遠の誓い。
重ねられる言葉。
祝福。
その途中、不意に、リナリアの指先が小さく震えた。シルヴィオはそっとその手を包み込む。
「怖いか」
「いいえ」
リナリアは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに笑った。翡翠の瞳が、真っ直ぐにシルヴィオを映す。
「あなたの隣に、ようやく辿り着けたんですから」
その瞬間。シルヴィオの表情が僅かに崩れた。困ったように息を吐いて、どうしようもなく愛おしそうに目を細める。
「……ずるいな、お前は」
「ふふ」
指輪が嵌められる。銀の輪が、二人を永遠に結び付けた。
そして、祝福の鐘が鳴り響く中、シルヴィオはそっとリナリアへ口付けた。
壊れ物に触れるような、優しい口付け。けれどそこへ滲む執着も、愛情も、リナリアはちゃんと知っている。
大聖堂が拍手に包まれる。
第一王子派の貴族たち。アルヴェスト商会の人々。カメリア。アルベリク。皆が笑っていた。
ようやく辿り着いた幸福を、祝福するように。
式の後。
喧騒から少し離れた控え室で、リナリアは小さく息を吐いた。窓の外では、王都中へ鐘の音が響いている。
「……終わりましたね」
「まだ披露宴が残っている」
「そうでした……」
少し疲れたように笑えば、シルヴィオが当然のように肩を抱き寄せる。
リナリアはふと左手を見る。細い薬指には、シルヴィオと同じ銀の指輪。本当に夫婦になったのだと、ようやく実感が湧いた。
「……不思議です」
「何がだ」
「私が、シルヴィオの奥様になるなんて」
その言葉に、シルヴィオは一瞬だけ黙った。それから呆れたように目を細める。
「今更何を言っている」
「だって……」
言いかけた言葉は、そっと抱き寄せられて途切れた。耳元へ低い声が落ちる。
「最初から、お前を手放す気などなかった」
「ふふ、これからよろしくお願いしますね、旦那様」
心臓が甘く跳ねる。リナリアは顔を赤くしながら、くすぐったそうに笑った。そして静かに、彼の胸へ寄り添う。
王都の鐘が、祝福するように響いている。
傷も、痛みも、過去も。全てを抱えたまま、二人はこれから先を共に歩いていく。
その未来を祝福するように、光が優しく二人を包み込んでいた。




