傷跡の誇り
王城で開かれた夜会は、煌びやかな光に満ちていた。
天井一面へ吊るされた無数のシャンデリアが、金色の光を惜しみなく降り注いでいる。磨き上げられた大理石の床は、その光を鏡のように映し返し、広間そのものが輝いているようだった。
優雅な弦楽器の旋律。重なるグラスの音。甘い香水と花々の香り。華やかなドレスを纏った令嬢たちが笑い合い、貴族たちが政治と社交を織り交ぜながら談笑している。
その中心を歩くリナリアへ、幾つもの視線が向けられる。淡い白銀色のドレスは、柔らかな光を受けるたび繊細に煌めいた。
怪我をして以来、久しぶりに参加する大規模な夜会だった。ざわめきの中、リナリアの姿を見つけた令嬢たちが、ぱっと表情を明るくする。
「リナリア様!」
「ご無事で本当に何よりです……!」
第一王子派の令嬢たちが、次々と彼女の元へ駆け寄ってくる。
「もうお怪我は大丈夫なのですか?」
「はい。ご心配をおかけしました」
柔らかく微笑みながら答える。以前よりもどこか凛としたその佇まいに、周囲の令嬢たちがほっとしたように笑った。
けれど、背中には今も傷痕が残っている。今日はそれを隠すように仕立てられたドレスだった。
「お顔を見られて安心しましたわ」
「ヴァルクス公爵様も、きっと心配なさっていたのでしょう?」
「えぇ……過保護なくらいには」
リナリアが、屋敷でのシルヴィオの対応を思い出しながら返せば、令嬢たちが顔を見合わせてくすりと笑う。
「まぁ、羨ましいですわ」
「リナリア様、本当に大切にされていらっしゃるもの」
久しぶりの夜会への参加に、リナリアへ挨拶をしようと令嬢たちが集まる。それらに丁寧に対応し終えると、リナリアはふと周囲を見渡す。
シルヴィオは――。
先ほどまでアルベリクと共に、貴族たちへ囲まれていたはずだ。上背のあるシルヴィオはよく目立つが、今は人波の向こうに隠れて見えなかった。
少し探そうと歩き出した、その時だった。
どんっ、と。
不意に背後から強く肩をぶつけられる。
「どけよ、傷物」
身体がぐらりと揺れた。耳元へ落とされる、嘲るような声。
その瞬間。世界から音が消えた。脳裏へ蘇る。
石段。浮遊感。打ち付けられる身体。滲む視界。血の匂い。
びくり、と身体が強張った。ドレス姿では咄嗟に体勢を立て直せない。そのまま倒れかけた身体が、強く引き寄せられた。
「――リナリア」
耳朶を揺らす低い声。体勢を立て直すために伸びた腕が腰を攫う。気付けば、シルヴィオの腕の中だった。広い胸板へ抱き留められ、乱れた呼吸が少しずつ戻っていく。
「大丈夫か」
覗き込む濃紺の瞳が鋭く揺れていた。普段なら冷静なその瞳に、露骨な怒気が滲んでいる。リナリアは咄嗟に微笑みを作った。
「……はい。少し驚いただけです」
けれど、青ざめた顔色までは誤魔化せない。シルヴィオの視線がゆっくりとリナリアの背後へ向く。
そこには、数人の若い貴族たちが、シルヴィオの登場に顔色を悪くして立ち尽くしていた。
シルヴィオが柳眉を顰める。元第二王子派の貴族だった。かろうじて処罰が軽く済んだが、もう誰にも見向きもされない末端の貴族だ。第二王子派を壊滅に追い込んだシルヴィオへの恨みか、と即座に理解する。
周囲も異変に気付き始める。楽団の音楽は続いているのに、この一角だけ空気が張り詰めていた。
「私の婚約者に、何をした」
静かな、怒りを孕んだ声だった。だが、その場の空気を一瞬で凍らせるには十分だった。
「い、いや……その……」
「傷物とは、私の婚約者のことか?」
怜悧な濃紺の瞳に射抜かれ、男たちの喉が引き攣る。シルヴィオの周囲だけ温度が下がったようだった。
ヴァルクス公爵家次期当主。第一王子派の中枢。敵と分かれば容赦のないその手腕は誰もが知る所だ。リナリアはそっとシルヴィオの腕へ触れた。
「シルヴィオ」
「下がっていろ」
「……いいえ。私の獲物です」
その言葉に、シルヴィオが僅かに目を細める。リナリアは呼吸を整えるように一度だけ深く息を吸い、恐怖を追い払うように腹に力を込める。
いつまでも守られているだけでは駄目だ。
リナリアはシルヴィオの腕からゆっくり離れると、男たちへ向き直った。シャンデリアの光が、翡翠の瞳に宿った強い意志を輝かせる。
男たちは明らかに怯んだ。それでも、一人が強がるように口を開くと、堰を切ったように口々に罵る言葉が溢れ出る。
「じ、事実だろう。背中に傷が残った令嬢なんて!」
「ヴァルクス公爵家の婚約者としては、見苦しいのでは?」
リナリアは、ふっと笑った。静かで、艶やかで、男たちの非難など一切届いていないように。
「その程度の言葉で、私を傷付けられるとお思いで?ヴァルクス公爵家の婚約者を、安く見積りすぎでは?」
男たちの顔が強張り、一斉に口を噤む。リナリアは男たちに言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を続ける。
「この傷を見苦しいと仰るのですね」
ドレス越しに背中へそっと触れる。その仕草は不思議なくらい堂々としていた。
「けれど私は、一度も後悔したことはありません。この傷ごと受け入れてくださる方が、私の隣にいてくださいますから」
シルヴィオが静かに目を見開き、横に並ぶリナリアを見下ろす。手にしていた扇を広げ、口元を隠す。
「ですから、見知らぬ方々に何を言われようと、今更、痛くも痒くもありませんわ」
その言葉は、穏やかなのに圧倒的だった。男たちは怯んだまま、誰も口を開けない。
「それとも、傷を負った女は、俯いて泣いていなければ満足できませんか?……随分と、女性に対して都合の良い夢をご覧になっていたのですね」
リナリアが小首を傾げる。男たちの顔色が変わる。静かな笑み。けれど、一言ごとに相手を追い詰めていく。
「私は、ヴァルクス公爵家の婚約者ですよ?」
空気が完全に変わる。もう誰も、彼女を哀れな令嬢として見ていなかった。無粋な真似をした貴族たちに、非難の目が集まる。
シルヴィオは隣で静かに目を細める。誇らしげに、愛おしげに。
そして男たちへ視線を向けた。先ほどよりも、遥かに冷たい目だった。
「聞こえただろう。私の婚約者は、自分の傷から逃げないそうだ。ならばお前たちも、自分の発言の責任から逃げるな」
男たちの身体がビクリと震える。静かな宣告に、空気が張り詰める。誰もが察する。彼らの末路を。
「ヴァルクス公爵家の婚約者に手を出したんだ。その責任は重い」
その一言で、男たちの顔から完全に血の気が失せた。
シルヴィオは興味を失ったように、リナリアの肩を抱き寄せる。
「行くぞ」
「はい」
寄り添うように歩き出す。シャンデリアの光が二人を照らす。誰も、その背を止められなかった。
人気のない回廊まで歩き、リナリアは周囲に人がいないことを確認して、横に並ぶシルヴィオの胸板に額を預けた。
「はぁ……慣れないことを、言うものではありませんね」
「中々良い啖呵だったがな」
「ふふ、レイナード公爵夫人に鍛えられてて良かったです」
そう、レイナード公爵夫人や、上流貴族たちを相手にすることに比べたら、あんな男たちは怖くも何ともない。身体が強張ったのは、あの時の恐怖が全身を駆け巡ったから。
一瞬でも付け入る隙があると思わせてしまったことが、悔しい。
「あぁ。惚れ直した」
「っ……!!そ、それなら、良かったです……」
ずるい。もう何度思ったか分からない。熱が頬に集まるのを感じる。
シルヴィオは赤くなった頬に手を添え、そっと上向かせる。濃紺の瞳に真っ直ぐ見つめられれば、先ほどまでの毅然とした表情がみるみる崩れていく。
「お前は、結局いつまでも慣れないな」
「仕方ないじゃないですか……好きな人に言われてるんです……」
真っ赤な顔で目を逸らせば、シルヴィオが口端を緩める。反応まで全て手のひらの上で転がされてる気もする。
「新婚生活が楽しみだな」
「……手加減してください」
結婚式まで、あと僅か。まさかシルヴィオからそんな言葉を聞くと思ってなかったリナリアは、そのままへなへなと身体を預ける。
名実共に誰もが認めるシルヴィオが、リナリアにだけ特別甘いのを、リナリアは充分理解させられていた。
「胸を張っていろ」
「はい、シルヴィオが隣にいてくれるなら」
降ってくるリナリアだけを溶かす甘い声に、リナリアはふっと微笑んだ。




