それでも、隣に
朝の淡い光が、薄いカーテン越しに静かに差し込んでいた。
三日間、何度も何度も祈りを込めて握りしめ続けた手が、ようやくシルヴィオの手を握り返す。
「医師を呼ぶ」
短く告げると、彼は立ち上がった。その手が離れる瞬間、無意識に指先が彼を追う。シルヴィオは一瞬目を見開き、それから壊れ物に触れるように、そっとリナリアの手を撫でた。
「すぐ戻る」
医師は飛ぶように治療室へ駆け込んできた。
脈を測り、瞳孔を確認し、包帯の状態を確かめる。
リナリアは寝台に横たわったまま、大人しく診察を受けていたが、身体を少し動かした瞬間、鋭い痛みが走った。
「っ……!」
「まだ動いてはいけません。頭を強く打っております。全身の打撲も酷い。お目覚めになったのは幸いですが、しばらくは絶対安静です」
「……はい」
苦笑混じりに返事をすると、医師はようやく安堵したように息を吐いた。
「意識が戻って本当に良かった……。三日も眠ったままでしたから」
三日。その言葉に、リナリアはゆっくり瞬きをする。
「……三日も?」
医師が退出すると、室内には再び静寂が落ちる。リナリアはまだぼんやりした頭のまま、シルヴィオを見上げた。
「……私、何が……」
「覚えていないのか?」
「いえ……ただ、何だか断片的で……」
ギリ、とシルヴィオの握り込んだ拳に力が入る。リナリアを見つめる濃紺の瞳の奥には、未だ消えない怒りと恐怖が滲んでいる。
「お前は、エリシアに階段から突き落とされた」
その言葉をきっかけに、記憶が繋がっていく。掴めなかったシルヴィオの手、身体が傾く感覚、石段へ叩き付けられる衝撃。
リナリアの顔から血の気が引く。シルヴィオは冷たく震える手を、そっと握り締める。
「お前は三日間、目を覚まさなかった」
低く押し殺した声。リナリアは呆然とシルヴィオを見る。三日、その間ずっと、彼はこんな顔をしていたのだろうか。こんなにも、壊れそうな顔をしていたのだろうか。
あの時、一瞬だけ気が緩んだ。終わったと、安心してしまった。その結果、こんなにも彼を追い詰めてしまった。
「……ごめんなさい。心配、かけて……」
「謝るな」
リナリアが掠れる声で謝ると、シルヴィオが首を横に振り、リナリアの頬の傷に触らないように、そっと手を当てる。
「お前は正しいことをした。謝る必要などない」
リナリアが息を呑む。その言葉には、一切の迷いがない。その声音には、彼女へ責任を負わせまいとする強い意志が滲んでいた。
その時、控えめなノックが響く。
「私だ。リナリアが目を覚ましたと聞いてな。カメリアも一緒だ。いいか?」
「殿下だ。大丈夫か?」
「はい。どうぞ」
扉が開き、アルベリクとカメリアが姿を現した。カメリアは崩れるようにリナリアの寝台の側に駆け寄り膝をつく。
「リナリア……!」
目を覚ました妹の姿を見た瞬間、堪えていたものが決壊したように瞳から涙が溢れた。
「ごめんなさい……っ、ごめんなさい、リナリア……!」
震える声。リナリアは目を丸くし、それから困ったように笑った。
「お姉様のせいじゃないわ」
「でも……っ」
「私は無事よ。大丈夫」
まだ身体は痛む。けれど、こうして皆の顔を見られている。それだけで十分だった。
アルベリクが寝台の傍へ歩み寄るが、リナリアの姿を見て、整った柳眉を寄せる。
「医師から聞いていたが、想像以上だな。起きてて平気なのか?」
「はい。動けはしないですけど……」
少し腕を動かしただけで鋭い痛みが走り、リナリアは苦笑した。その様子を見たシルヴィオの眉間に、深く皺が寄る。リナリアはふと、ずっと気になっていたことを聞いた。
「……あの後、エリシアはどうなったんですか?」
「現在は地下牢だ」
カメリアを寝台の傍に置いてあった椅子に座らせ、アルベリクは淡々とした口調で答える。
「君の集めた証言が決定打になった。君を突き落としたことも罪状に追加されて、これから裁判に掛けられるだろう」
リナリアは静かに息を吐く。終わったのだ。長かった戦いが、ようやく。アルベリクはそんなリナリアを見つめる。
命懸けでヴァルディアで盗賊と対峙したこと、元第二王子派の令嬢達を味方につけたこと、そして最後まで立ち続けた覚悟、アルベリクの眼差しは、その全てを理解しているようだった。
「カメリアの不名誉は、君のおかげで払拭された」
静かな声音。だがそれは、全てを終わらせたリナリアに対する確かな称賛だった。
「最後までやり遂げた君を、俺は尊敬する」
カメリアも涙の滲む瞳のまま、深く頭を下げる。
「……本当に、ありがとう」
その言葉に、リナリアはやっと心から笑えた。
アルベリクがふと横へ視線を向ける。そこには、リナリアの隣から一歩も動かないシルヴィオの姿があった。
彼は会話の間中ずっと、リナリアの様子を見続けている。呼吸は苦しくないか、顔色は悪くないか、痛みに耐えていないか、一瞬たりとも視線を逸らさない。アルベリクは呆れたように笑った。
「……お前は背後霊か?」
「まだ安静が必要ですので」
否定すらしないシルヴィオは真顔だった。リナリアが思わず小さく吹き出す。アルベリクも肩を竦めた。
「リナリアが目を覚ましたんだ。お前も少しは眠れ。酷い顔だぞ」
「そうですよ。こんなにやつれて……」
主人であるアルベリクと、リナリアに心配そうに見上げられ、シルヴィオは僅かに目を伏せた。
「……問題ありません」
そう言いながら、彼の手はやはりリナリアの手を握ったままだった。アルベリクは小さく苦笑する。
「まだ起きているのも辛いだろう。続きはまた後で話そう」
「ゆっくり休んで、リナリア……」
カメリアが名残惜しそうに微笑み、二人は静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
再び静けさの戻った室内で、シルヴィオはようやく小さく息を吐いた。
気付けば、長く差し込んでいた陽光は、淡い橙色の光へと変わり、白いシーツの上に横たわるリナリアを照らしていた。
リナリアは徐に両腕を上げて、腕を見つめる。
「……リナリア?」
薄い寝間着から覗く肌。階段で打ち付けた痣はまだ色濃く残り、包帯の下には裂傷もある。白かった肌へ浮かぶ痛々しい痕。令嬢として、美しいとは到底言えない姿だった。
「どうした、痛むか?」
「……文字通り、傷物ですね」
問い掛ける声は穏やかだった。リナリアは、少し困ったように笑った。冗談めかした声音、だが、その瞳は笑えていなかった。いつも凛とした翡翠の瞳が、脆く崩れるようだった。
「令嬢らしくないですし、傷も、残るかもしれません」
ぽすんと、シーツの上に腕を戻す。俯いた頬に、長い睫毛の影が落ちる。
「……それでも、それでも私は、公爵家の、っ……シルヴィオの、お嫁さんになれますか……?」
シルヴィオの胸が軋むように痛んだ。リナリアは、階段から突き落とされ、命を落としかけ、ようやく目を覚ましたばかりなのに。
真っ先に気にするのが、社交界でどう見られるか。令嬢として価値があるか。そんなものを、まだ背負おうとしている。
「……リナリア」
静かに名を呼ぶ。その声があまりにも優しくて。リナリアの瞳から、我慢できなくなった涙がポロリと零れ落ちた。一度溢れると、止まらなかった。
「私……っ、もし顔に傷が残ったらとか、醜いって思われたらとか、って、怖くて……こんな私と、結婚してくれますか……?」
泣きながら縋るように問うその姿に、シルヴィオはゆっくりと寝台の傍へ腰を下ろす。そして、傷へ触れないよう細心の注意を払いながら、そっとリナリアを抱き締めた。壊れ物を扱うみたいに、優しく。
「……馬鹿を言うな。お前の美しさは、何も損なわれていない」
「……っ」
「傷が残ろうと、痣が残ろうと、そんなことでお前の価値は変わらない」
迷いなく言い切る。腕の中のリナリアの細い身体が震える。
「私は、お前だから欲しい」
リナリアの喉が小さく鳴った。涙がぽろぽろと溢れる。シルヴィオはそっと彼女の髪へ唇を寄せた。
「それに、その傷は、お前が戦った証だ。お前はカメリア嬢を守るために立って、最後まで逃げなかった。そんなお前を、私は誇りに思っている」
「……っ、ぅ……」
リナリアは完全に泣き崩れた。シルヴィオの服をぎゅっと掴む。シルヴィオは何も言わず、ただ静かに抱き締め続けた。
しばらくして、ようやく泣き疲れたリナリアが、小さく息を吐く。
「……シルヴィオ」
「なんだ」
「……好きです」
「あぁ。知っている」
包帯が巻かれたリナリアの額に、キスを落とす。
「私もだ」
その言葉に、リナリアはまたぽろりと涙を零した。けれど今度の涙は、恐怖でも不安でもなかった。




