翡翠の瞳が開くまで
王城の治療室前には、張り詰めた静寂が落ちていた。
深夜だというのに、廊下の燭台は一つも消えていない。
橙色の灯りが白い石壁を照らし、磨き上げられた床へ長い影を落としている。侍女たちは息を潜めるように行き交い、騎士たちもまた、鎧の擦れる音さえ抑えていた。
誰も、大きな声を出さない。出せなかった。
たった数刻前まで、あれほど華やかな祝宴だった場所とは思えないほど、空気は重く沈んでいる。
閉ざされていた扉が、静かに開いた。軋む音に、その場にいた全員が弾かれるように顔を上げる。
現れた医師は疲弊しきった顔をしていた。額には汗が滲み、白衣の袖口には薄く血が付いている。それがリナリアのものであるという現実に、カメリアは崩れ落ちそうになった。
誰もが口を開けない中、アルベリクがカメリアの肩を支えながら、目の前の医師に尋ねる。
「……どうだ」
低く抑えた声だった。だが、その一言に滲む焦燥は隠し切れていない。医師は深く頭を下げた。
「命は……取り留めました」
廊下を満たしていた緊迫した空気が、ほんの僅かに緩む。誰かが安堵の息を漏らした。カメリアは胸元を押さえ、小さく肩を震わせる。
「……よかった……」
「しかし、頭部を強く打っております。全身の打撲も深く、出血量もかなりのものでした」
医師の言葉に再び重い沈黙が訪れる。医師は目を伏せ、言いにくそうに、しかし伝えるべきことを伝える。
「……いつお目覚めになるかは、分かりません」
――ガンッ!!
鈍い衝撃音が、静まり返った廊下へ叩き付けられた。侍女が小さく悲鳴を呑み込む。
壁へ拳を打ち付けたのは、シルヴィオだった。白い壁に赤が滲む。握り締めた拳の隙間から、血が一筋、床へ滴り落ちた。
それでも彼は声を荒げない。濃紺の礼装は未だリナリアの血で汚れていた。乾き始めた赤黒い染みが、余計に生々しい。やがてシルヴィオはゆっくりと拳を下ろした。
「……失礼した」
低い声。いつも通り、静かで、冷静だった。だが、その場にいた誰もが理解してしまう。いつも通りに振る舞おうと、必死に自分を抑えようとしたけれど、今の一撃は、抑え切れなかったのだと。
アルベリクが静かに旧友の名を呼ぶ。
「シルヴィオ」
「問題ありません」
即答だった。だが、その声は掠れていた。無理矢理押し殺したような声だった。カメリアが真っ青な顔で震える唇を開く。
「……私の、せいですわ」
「違う」
アルベリクが即座に遮る。カメリアは涙を滲ませながら、顔を手で覆い俯く。
「ですが……っ」
「リナリア嬢は、君のため“だけ”に動いていたわけではない。分かっているだろう?」
本来ならば、今夜は勝利の夜だった。
第二王子派は壊滅した。エリシアの罪は暴かれ、カメリアの潔白は証明された。第一王子派の完全勝利。誰もが、そう終わるはずだと思っていた。
なのに。笑っている者は、一人もいない。
静まり返る廊下で、シルヴィオだけが無言のまま立っていた。そして短く一礼すると、治療室の扉へ手を掛ける。
「……少し、彼女の傍へ」
静かに扉が閉まった。
部屋の中は、薬草の匂いで満ちていた。薄暗い室内。静かに揺れる灯りが、寝台を淡く照らしている。
リナリアはそこにいた。白いシーツの上で、真っ白な顔で静かに目を閉じている。
シルヴィオの足が止まった。脳裏に、鮮明に蘇る。階段から投げ出される細い身体。石段へ叩き付けられる鈍い音。飛び散る赤。
『リナリアッ!!』
伸ばした手は、届かなかった。掴めなかった。間に合わなかった。
「……っ」
呼吸が浅くなる。一歩、踏み出そうとして、足が止まった。次の瞬間には、膝が床へ落ちていた。
ゆっくりと視線を上げる。頭には白い包帯が巻かれ、服から覗く白い腕は赤黒い痣で斑らに染まっている。
流血していたのは、頭だけではない。全身の至る所に包帯が巻かれている。綺麗だった肌が、傷だらけだった。
『ねぇ、公爵様。あなたも、大切なものを失えばいいわ』
エリシアの甘く粘つくような声が耳の奥で蘇る。
「……やめろ」
掠れた声が零れた。考えたくもない。なのに、一度浮かんだ想像は簡単には消えてくれない。
もし、このまま目を覚まさなかったら。もし、本当に失ったら。
「……っ」
シルヴィオは震える指で顔を覆う。怖かった。こんな感情を知る日が来るなど、思っていなかった。
震える指先で、リナリアの傷に触れないよう、壊れ物へ触れるように手を握る。冷たい。その温度に、胸の奥が軋んだ。
「……ずっと、隣にいた」
低い声が落ちる。懺悔のような口調だった。
「お前を一人で戦わせたことなんて、なかった」
陰謀を追っていた時も。盗賊たちと対峙した時も。泣きそうな顔で笑っていた時も、隣にいた。
なのに。
「最後の、あの瞬間だけ……守れなかった」
後悔が滲む。彼女が一人で立つ姿を、誇りに思ってしまった。もう、守られるだけの存在ではないと、安心していた。
シルヴィオは顔を伏せ、祈るようにリナリアの手を額へ押し当てた。
「……頼む。置いていくな」
リナリアが怪我をしてから一日目。
リナリアは目を覚まさない。シルヴィオは治療室から一歩も出なかった。運ばれてきた食事にもほとんど手を付けず、ただ彼女の傍に座り続ける。
時折、医師が包帯を変え、様子を見に来る。薬を塗るたび、リナリアの細い身体へ新しい包帯が巻かれていく。
その様子を、シルヴィオは一言も発さず見つめていた。
二日目。
カメリアが見舞いに訪れた。眠ったままの妹の、ボロボロの姿を見た瞬間、彼女は泣き崩れそうに顔を歪めた。
「……ごめんなさい……っ」
震える声。シルヴィオは首を横に振る。
「謝るな」
短い言葉。だが、その顔は酷く憔悴していた。目の下には濃い隈が浮かび、常に整えられていた黒髪も乱れている。完璧だった男が、見る影もない。
それでも彼は、リナリアの手を離さなかった。
三日目。
朝日が薄く部屋を照らしていた。静かな室内。椅子へ座ったまま、シルヴィオはリナリアの手を握っている。
疲労は限界だった。それでも眠れない。目を閉じれば、あの時のリナリアが落ちていく姿が、何度も鮮明に繰り返される。
「……起きろ、リナリア」
祈りのような小さな声。ずっと握りしめていた指先が、微かに動いた。
シルヴィオの瞳が揺れる。
「……リナリア?」
長い睫毛が震える。ゆっくりと、本当にゆっくりと、翡翠の瞳が開かれた。
ぼやける視界。霞む天井。重い身体。
「……ぁ……」
掠れた声が漏れる。視線が彷徨い、やがて一人の男を映した。
「リナリア……?」
「……シル、ヴィオ?」
意識がはっきりしていないのか、シルヴィオを確認しても、リナリアはぼんやりと瞬きを繰り返す。
シルヴィオの表情が崩れた。安堵。恐怖。後悔。張り詰めていた感情が、一気に溢れ出す。彼は震える指で、そっとリナリアの頬へ触れた。
「……っ、生きて……」
最後まで言葉にならない。シルヴィオは深く俯き、そのままリナリアの手へ額を押し当てる。肩が、小さく震えていた。
泣いているのだと、リナリアはぼんやり理解する。ぼんやりと靄がかかったような頭では、状況がよく分からない。身体は重いし、あちこち痛む。でも。
「…どう、したんですか?シルヴィオ?」
あのシルヴィオが、こんなふうに取り乱すほど、何があったのか。目覚めたばかりのリナリアにはまだ分からない。
でも、大好きな人が泣いているから。リナリアは重たい腕を、ゆっくり持ち上げ、震える指先で、黒髪へ触れる。
「……シル、ヴィオ。泣かないで」
シルヴィオが、壊れそうなほど強くリナリアの手を握り締めた。




