表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
姉が悪役令嬢にされたので、商人の妹が嘘を暴きます  作者: ゆきだるま
第三章

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
51/59

翡翠の瞳が開くまで

王城の治療室前には、張り詰めた静寂が落ちていた。


深夜だというのに、廊下の燭台は一つも消えていない。


橙色の灯りが白い石壁を照らし、磨き上げられた床へ長い影を落としている。侍女たちは息を潜めるように行き交い、騎士たちもまた、鎧の擦れる音さえ抑えていた。


誰も、大きな声を出さない。出せなかった。


たった数刻前まで、あれほど華やかな祝宴だった場所とは思えないほど、空気は重く沈んでいる。


閉ざされていた扉が、静かに開いた。軋む音に、その場にいた全員が弾かれるように顔を上げる。


現れた医師は疲弊しきった顔をしていた。額には汗が滲み、白衣の袖口には薄く血が付いている。それがリナリアのものであるという現実に、カメリアは崩れ落ちそうになった。


誰もが口を開けない中、アルベリクがカメリアの肩を支えながら、目の前の医師に尋ねる。


「……どうだ」


低く抑えた声だった。だが、その一言に滲む焦燥は隠し切れていない。医師は深く頭を下げた。


「命は……取り留めました」


廊下を満たしていた緊迫した空気が、ほんの僅かに緩む。誰かが安堵の息を漏らした。カメリアは胸元を押さえ、小さく肩を震わせる。


「……よかった……」


「しかし、頭部を強く打っております。全身の打撲も深く、出血量もかなりのものでした」


医師の言葉に再び重い沈黙が訪れる。医師は目を伏せ、言いにくそうに、しかし伝えるべきことを伝える。


「……いつお目覚めになるかは、分かりません」


 ――ガンッ!!


鈍い衝撃音が、静まり返った廊下へ叩き付けられた。侍女が小さく悲鳴を呑み込む。


壁へ拳を打ち付けたのは、シルヴィオだった。白い壁に赤が滲む。握り締めた拳の隙間から、血が一筋、床へ滴り落ちた。


それでも彼は声を荒げない。濃紺の礼装は未だリナリアの血で汚れていた。乾き始めた赤黒い染みが、余計に生々しい。やがてシルヴィオはゆっくりと拳を下ろした。


「……失礼した」


低い声。いつも通り、静かで、冷静だった。だが、その場にいた誰もが理解してしまう。いつも通りに振る舞おうと、必死に自分を抑えようとしたけれど、今の一撃は、抑え切れなかったのだと。


アルベリクが静かに旧友の名を呼ぶ。


「シルヴィオ」


「問題ありません」


即答だった。だが、その声は掠れていた。無理矢理押し殺したような声だった。カメリアが真っ青な顔で震える唇を開く。


「……私の、せいですわ」


「違う」


アルベリクが即座に遮る。カメリアは涙を滲ませながら、顔を手で覆い俯く。


「ですが……っ」


「リナリア嬢は、君のため“だけ”に動いていたわけではない。分かっているだろう?」


本来ならば、今夜は勝利の夜だった。


第二王子派は壊滅した。エリシアの罪は暴かれ、カメリアの潔白は証明された。第一王子派の完全勝利。誰もが、そう終わるはずだと思っていた。


なのに。笑っている者は、一人もいない。


静まり返る廊下で、シルヴィオだけが無言のまま立っていた。そして短く一礼すると、治療室の扉へ手を掛ける。


「……少し、彼女の傍へ」


静かに扉が閉まった。

部屋の中は、薬草の匂いで満ちていた。薄暗い室内。静かに揺れる灯りが、寝台を淡く照らしている。


リナリアはそこにいた。白いシーツの上で、真っ白な顔で静かに目を閉じている。


シルヴィオの足が止まった。脳裏に、鮮明に蘇る。階段から投げ出される細い身体。石段へ叩き付けられる鈍い音。飛び散る赤。


『リナリアッ!!』


伸ばした手は、届かなかった。掴めなかった。間に合わなかった。


「……っ」


呼吸が浅くなる。一歩、踏み出そうとして、足が止まった。次の瞬間には、膝が床へ落ちていた。


ゆっくりと視線を上げる。頭には白い包帯が巻かれ、服から覗く白い腕は赤黒い痣で斑らに染まっている。


流血していたのは、頭だけではない。全身の至る所に包帯が巻かれている。綺麗だった肌が、傷だらけだった。


『ねぇ、公爵様。あなたも、大切なものを失えばいいわ』


エリシアの甘く粘つくような声が耳の奥で蘇る。


「……やめろ」


掠れた声が零れた。考えたくもない。なのに、一度浮かんだ想像は簡単には消えてくれない。


もし、このまま目を覚まさなかったら。もし、本当に失ったら。


「……っ」


シルヴィオは震える指で顔を覆う。怖かった。こんな感情を知る日が来るなど、思っていなかった。


震える指先で、リナリアの傷に触れないよう、壊れ物へ触れるように手を握る。冷たい。その温度に、胸の奥が軋んだ。


「……ずっと、隣にいた」


低い声が落ちる。懺悔のような口調だった。


「お前を一人で戦わせたことなんて、なかった」


陰謀を追っていた時も。盗賊たちと対峙した時も。泣きそうな顔で笑っていた時も、隣にいた。


なのに。


「最後の、あの瞬間だけ……守れなかった」


後悔が滲む。彼女が一人で立つ姿を、誇りに思ってしまった。もう、守られるだけの存在ではないと、安心していた。


シルヴィオは顔を伏せ、祈るようにリナリアの手を額へ押し当てた。


「……頼む。置いていくな」





リナリアが怪我をしてから一日目。


リナリアは目を覚まさない。シルヴィオは治療室から一歩も出なかった。運ばれてきた食事にもほとんど手を付けず、ただ彼女の傍に座り続ける。


時折、医師が包帯を変え、様子を見に来る。薬を塗るたび、リナリアの細い身体へ新しい包帯が巻かれていく。


その様子を、シルヴィオは一言も発さず見つめていた。



二日目。


カメリアが見舞いに訪れた。眠ったままの妹の、ボロボロの姿を見た瞬間、彼女は泣き崩れそうに顔を歪めた。


「……ごめんなさい……っ」


震える声。シルヴィオは首を横に振る。


「謝るな」


短い言葉。だが、その顔は酷く憔悴していた。目の下には濃い隈が浮かび、常に整えられていた黒髪も乱れている。完璧だった男が、見る影もない。


それでも彼は、リナリアの手を離さなかった。


   


三日目。


朝日が薄く部屋を照らしていた。静かな室内。椅子へ座ったまま、シルヴィオはリナリアの手を握っている。


疲労は限界だった。それでも眠れない。目を閉じれば、あの時のリナリアが落ちていく姿が、何度も鮮明に繰り返される。


「……起きろ、リナリア」


祈りのような小さな声。ずっと握りしめていた指先が、微かに動いた。


シルヴィオの瞳が揺れる。


「……リナリア?」


長い睫毛が震える。ゆっくりと、本当にゆっくりと、翡翠の瞳が開かれた。


ぼやける視界。霞む天井。重い身体。


「……ぁ……」


掠れた声が漏れる。視線が彷徨い、やがて一人の男を映した。


「リナリア……?」


「……シル、ヴィオ?」


意識がはっきりしていないのか、シルヴィオを確認しても、リナリアはぼんやりと瞬きを繰り返す。


シルヴィオの表情が崩れた。安堵。恐怖。後悔。張り詰めていた感情が、一気に溢れ出す。彼は震える指で、そっとリナリアの頬へ触れた。


「……っ、生きて……」


最後まで言葉にならない。シルヴィオは深く俯き、そのままリナリアの手へ額を押し当てる。肩が、小さく震えていた。


泣いているのだと、リナリアはぼんやり理解する。ぼんやりと靄がかかったような頭では、状況がよく分からない。身体は重いし、あちこち痛む。でも。


「…どう、したんですか?シルヴィオ?」


あのシルヴィオが、こんなふうに取り乱すほど、何があったのか。目覚めたばかりのリナリアにはまだ分からない。


でも、大好きな人が泣いているから。リナリアは重たい腕を、ゆっくり持ち上げ、震える指先で、黒髪へ触れる。


「……シル、ヴィオ。泣かないで」


シルヴィオが、壊れそうなほど強くリナリアの手を握り締めた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ