現場確認
その日、リナリアは早朝から商会の机に座っていた。
いくら姉の真相を明らかにしたくても、通常業務を疎かにするわけにはいかない。シルヴィオとの約束もある。何より、自分自身がそれを許さなかった。
整えられた書類の束と、乾いたインクの匂い。
人の動きは少ないが、その分だけ一つひとつの判断が重く沈む空間だった。
窓の外では市場へ向かう荷車の音が遠く響いている。
生活の喧騒とは切り離されたこの場所で、商会の時間だけが規則正しく流れていた。
リナリアは机の一角で、一枚の依頼書に視線を落とす。
「ルーヴェイン王立学園・催事設営」
簡潔な文字の裏で、すでに複数の人間と工程が動いている案件。
アルヴェスト商会が正式に請け負い、その一部は下請けへと流されている。
指先で紙の端を押さえたまま、短く息を吐く。
(なら、次は現場ね)
物の流れは掴んだ。
あとは、それがどう使われたか。
告発の場となり、証言の多くが生まれた場所。
ルーヴェイン王立学園。
「現場を見てくるわ」
その一言に、エルンはすぐに反応した。帳簿を閉じ、必要な書類だけを抜き出していく。
「同行の手配はいたしますか」
「いらない。責任者として確認するだけで十分よ」
迷いのない返答だった。
エルンはそれ以上踏み込まず、商会印の準備へと移る。
手続きは淡々と進み、数分後には現場確認担当としての書類が整えられていた。
「……あまり目立たない方がよろしいかと」
書類を差し出しながら、エルンが低く付け加える。
リナリアはそれを受け取り、小さく頷いた。
「分かってるわ」
シルヴィオに商会の力を使うなと念を押されている以上、通常業務の中で情報を掴んでいけるように仕組む方が効率がいい。
今回の視察は、あくまで通常業務の範疇、ということに仕組んだ。
リナリアは帳場を離れた。
向かう先は、ルーヴェイン王立学園。
学園の中庭は、すでに催事の準備で形を成し始めていた。
白い石畳の上に仮設の装飾が組まれ、淡い布が柱から柱へと渡されている。花飾りはまだ配置の途中で、風に揺れるたびに色の濃淡が揺らいだ。
作業をしているのは、アルヴェスト商会が斡旋した下請けの職人たちと、設営を管理する生徒会の人間のみ。
一般の生徒の姿はまだない。
(準備段階。想定通りね)
リナリアは帳面と指示書を手に、現場の導線をなぞるように歩く。
配置、動線、進行の遅れ——どれも問題ない。あくまで仕事としての確認を崩さないまま、視線だけを広く保つ。
そのとき、中庭の奥から足音が近づいてきた。
自然と、場の空気がわずかに整う。
現れたのは、二人。
一人は青年だった。
整った身なりと姿勢。だが、それ以上に印象に残るのは、力の抜け方だった。無駄のない歩き方ではあるが、緊張感が薄い。周囲には目を配っているが、細部まで見ているわけではない。
整っているのに、鋭くない。
公爵家の人間特有の格式はある。だがそれは研ぎ澄まされたものではなく、育ちの良さがそのまま形になったような、どこか柔らかい輪郭だった。
レオン・ヴァルクス。
そしてもう一人。
その半歩後ろに、当然のように寄り添う少女。
明るい栗色の髪を緩くまとめ、歩くたびに軽く跳ねる。装いは整っているが、どこかきっちりしすぎていない。気分のまま選んだような自然さがあった。
表情はよく動く。大きな目も口も、感情がそのまま外へ出ている。
「わあ、すごい!こんなに準備進んでるのね!」
声は明るく、よく通る。
場の空気を押しつぶさず、そのまま弾ませるような軽さ。
天真爛漫。その言葉がそのまま形になったような人物だった。
リナリアは一瞬だけ、二人の並びを観察する。
この二人が、姉の婚約者、そして婚約者を略奪した女。
婚約破棄など、なかったかのようなその距離の近さ。
二人の姿を見るだけで、胸の奥がスッと冷たくなる。
やがてレオンの視線が現場全体をなぞり、その流れでリナリアへ向いた。
「今回の設営を担当している商会の者か」
「はい。アルヴェスト商会、現場責任者のリナリアと申します」
声は落ち着いているが、圧は強くない。
リナリアは丁寧に頭を下げる。あくまで業務上の立場として。
レオンも同じく礼を返した。
「ルーヴェイン王立学園、生徒会運営責任者のレオン・ヴァルクスだ。今回の設営、問題なく進められているか」
「現時点では、滞りなく」
「ならいい」
レオンはそれ以上を深く確認する様子はなく、そのまま視線を外す。そのとき。
「ねえレオン様!」
陽の光を浴びてキラキラと輝く瞳をレオンに向け、男爵令嬢は身体を寄せ、くいと彼の袖を引いた。
「このお花、もうちょっと増やした方が絶対可愛いわよ!ね、そう思わない?」
弾むような声。遠慮がない。
レオンは満更でも無さそうに微笑み、一瞬だけ装飾に目を向け、しょうがないなぁと男爵令嬢の髪を撫でる。
「設計はもう決まっているはずだよ」
「えー、でも絶対その方が可愛いわ!」
「…そうかな?」
否定しきるでもなく、考え込むでもなく、その場で流れそうになる間。結論を出す前に、他人の言葉が入り込む余白。
リナリアはそのやり取りを、静かに見ていた。
(この人は——)
決して無能ではない。だが、自分で押し切る意思が弱い。衝突を避け、流れに合わせることを選ぶ。
視線を、男爵令嬢へ移す。
彼女はそんなことを一切気にする様子もなく、楽しそうに装飾を見ているだけだった。
無防備で、素直で、感情のまま。
(この女が、あの証言を?)
香水瓶。ドレス。繰り返された同じ内容の証言。
あまりにも整いすぎた話。
だが、目の前の人物は、それを構築する側には見えない。
むしろ逆だ。
(流される側)
だからこそ、違和感が残る。
(この女が中心じゃない。なら、誰が形を揃えた?)
リナリアは静かに帳面へ視線を落とす。
情報は揃いつつある。だが、核だけが見えない。
この場で得るべきものは、もう十分だった。
二人の距離。関係。性質。
商人として多くの人を見てきたリナリアの印象は、よく当たる。
そして、どちらも決定打ではないという確信。
リナリアは軽く一礼し、自然な動作で現場の確認へと戻る。視察を続ける。少なくとも、表向きは。
中庭を抜ける風が、布を揺らした。
整えられたはずの空間の中で、どこか一箇所だけが、まだ歪んでいる。
その歪みの正体を、リナリアはまだ掴めていなかった。




