戦支度
ローデリア侯爵家の執務室には、静かな紙を捲る音だけが響いていた。
机の上には、証言記録、招待客の一覧、令嬢同士の関係図、そして次のパーティーへ向けた資料が隙間なく並べられている。
「……証言してくださる令嬢方の選定は、ほぼ終わりました。後は、物証も選定した方々にも実際に確認していただこうとと思っています」
「あぁ」
手元の書類へ視線を落としたままリナリアが言う。向かいに座るシルヴィオが静かに頷いた。
リナリアは机の端へ置いていた小瓶を手に取る。淡い硝子の香水瓶。エリシアがカメリアに壊されたと、騒ぎ立てていた香水だった。
「市場で同じ香水を買ってきました」
硝子越しに光が揺れる。リナリアはその瓶をグッと握りしめ、冷たく笑った。
あの時、カメリアの名誉回復の為に動き出した時は、まだ店に証言をもらう事さえ出来なかった。でも、今は違う。
「一体、その証言では……お姉様は何個の香水瓶を割ったことになっているのでしょうね」
吐き捨てるような声音だった。第二王子派だった令嬢たちの証言は、もう裏が取れている。
割れる音を聞いた。カメリアが近くにいた。床に香水瓶が落ちていた。だが、実際に見た者は、驚くほど少ない。
シルヴィオは無言でリナリアの手から香水瓶を受け取ると、机の端へ静かに戻した。
「シルヴィオ?」
次の瞬間、手を引かれる。そのままソファーへ座らされ、リナリアは目を瞬かせた。
「どうしたんですか?」
見上げた先で、シルヴィオは何も答えない。ただじっと、リナリアの顔を見ていた。化粧で隠してはいるが、目の下には薄く隈が浮いている。
無理もなかった。姉を陥れた令嬢たちとの連日のお茶会。笑顔を崩さず証言を引き出し、怪しまれないように立ち回り続けた。パーティーで万が一にも失敗しないよう段取りを何度も計算し、眠れていないことくらい、シルヴィオにはすぐ分かった。
「疲れたか?」
「……情けないですね、私。もう少しなのに」
低い声が落ちる。リナリアは一瞬だけ目を逸らし、それからぎゅっと唇を噛み締めた。
シルヴィオは静かにリナリアの前へ膝をつく。自然と視線の高さが近づいた。そして何も言わず、そっと頬へ手を添える。温かな掌。リナリアはその手を両手で包み込み、甘えるように擦り寄った。
「今日は休め」
「ですが、この後は…」
「パーティーまでに倒れる気か?」
ぴしゃりと言われ、リナリアは言葉を詰まらせる。シルヴィオが心配して言ってくれてるのも理解している。
「でも、折角シルヴィオが手配してくれたものですし……」
真面目なリナリアは、それでも止まろうとしない。そんなリナリアを見て、シルヴィオは小さく息を吐いた。
「駄目だ。休め」
「あっ——」
そう言いながら、リナリアの髪を結んでいた紐へ手を伸ばす。止める間もなかった。
するり、と髪を結い上げていた紐が解かれる。丁寧に結い上げられていた黒髪が、さらりと背中へ落ちた。張り詰めていた令嬢の姿が、少しだけ柔らかく崩れる。
「……私を、甘やかさないでください」
「それが俺の役目だ」
髪を解かれただけなのに気分まで少しほぐれた気がして、困ったように目を閉じるリナリアを、シルヴィオはそのまま肩口へ引き寄せる。リナリアは抵抗することなく、静かに身体を預けた。
「……少しだけ」
「あぁ」
低い返事。数分もしないうちに、リナリアの呼吸は穏やかな寝息へ変わっていた。シルヴィオは慎重に身体を支え、起こさぬよう静かにソファーへ寝かせる。
頬にかかる髪をそっと整え、立ち上がる。柔らかな寝顔を見下ろし、机に戻る。
その時だった。執務室の扉が控えめに叩かれる。
「失礼いたします」
入ってきたのはカメリアだった。その後ろにはアルベリクの姿もある。二人は眠っているリナリアを見ると、自然と声を落とした。
「……あら、眠っているのね」
「あぁ。眠れていないようだったからな」
シルヴィオが静かに答える。カメリアはどこか痛ましそうに妹を見つめた。
「……無理をさせてしまったわね」
「大変なのはどちらも変わらずか。こちらも婚約発表に向けてやることが山積みだ」
王太子と未来の王太子妃。二人もまた、連日調整と根回しに追われていた。パーティー当日まで、決して誰にも知られることなく事を進める為、穏やかに見えて、その裏では慌ただしく動いている。
「リナリアが起きたら、また打ち合わせしよう。寝かせてやれ」
「お気遣いありがとうございます」
そう言って、二人は音を立てないよう部屋から去って行く。静かな時間が流れた。シルヴィオはリナリアの側で一人黙々と仕事を片付ける。
「……ん……」
小さな声と共に、リナリアが目を覚ました。ぼんやりした瞳が天井を見上げ、それからゆっくり身体を起こす。
「……私、寝て……」
「起きたか」
シルヴィオが目を通していた書類を置いて、リナリアの前まで歩み寄る。少しだけ疲労が取れた表情に内心安堵する。
「……すみません、私……」
「謝るな。殿下達が来てる」
「お姉様達が!?」
シルヴィオの言葉に、翡翠の瞳が完全に目が覚めたように見開かれ、慌てて立ち上がろうとするのを、肩に手を置き抑える。
「な、何故起こしてくださらなかったんですか!?」
「眠っていたからな」
「そういう問題では…!お二人も忙しいのに!」
「落ち着け。向こうも忙しい。やることがある」
大人しくなった隙に、シルヴィオは乱れた髪を整える。そのままサイドテーブルに置いてあった水を手渡され、リナリアは素直に口をつけた。シルヴィオに世話されるのが心地良くて、くすぐったい気分になり、少しだけ目を逸らす。
リナリアが落ち着いたのを確認して、シルヴィオが手を引き、そのまま執務室を出て応接間へ向かう。
「お待たせいたしまし……え?」
扉を開けると、そこには大量の布地と仕立て屋達が並んでいた。
「リナリア!」
目の前の光景に動けないリナリアに気付いたカメリアが、ぱっと顔を綻ばせる。この光景には、見覚えがあった。以前、リナリアとシルヴィオの婚約を両親に報告した日も、応接間はこんな風に布地と仕立て屋で埋め尽くされていた。
「ちょうど良かったわ。今からドレスを決めるところなの」
「……ドレス?」
困惑して部屋へ足を踏み入れても中々動けないリナリアへ、シルヴィオが当然のように言った。
「次のパーティー用だ」
「え?」
「お前は、被害者の妹として参加するんじゃない。カメリア嬢の名誉を取り戻し、ローデリア家は完全に社交界へ復帰する」
ハッとしたように、リナリアは自分を見下ろす濃紺の瞳を見つめた。シルヴィオがリナリアの腰に腕を回し、カメリアとアルベリクの前まで導く。
「そしてお前は、公爵家の婚約者として堂々と立つんだ。相応しい衣装が必要だ」
「そういうことだ。カメリアも婚約発表があるからな。戦支度ってわけだ」
胸が、熱くなる。ソファーに座り、悪戯っぽく、けれど本気なのが伝わる声色でアルベリクが笑う。その隣で、カメリアもつられるように柔らかく笑う。
「だから、あなたも相応しい姿で立たなければいけないわ。さぁ来て、私もドレスを仕立てるのは久しぶりだわ。一緒に選びましょう」
リナリアは、その言葉に背中を押されるようにカメリアの前に並べられた布地を一緒に見つめる。
次々と広げられる布地。銀糸入りの白。鮮やかな深紅。淡い藤色。夜空のような濃紺。その中で、リナリアの手が自然と止まった。
「……これ」
触れたのは柔らかな光沢が目を惹く、深い濃紺の布地だった。隣にいるシルヴィオの瞳の色と同じ色だった。仕立て屋達が一斉に目を輝かせる。
「まあ、素敵ですわ!」
「リナリア様の白い肌に映えます!」
「パールを散らしましょう!」
「ですが上品さは崩さず……!」
さらさらと目の前でドレスのスケッチが描かれていく。流れるようなドレスライン。繊細な刺繍。夜空へ星を散らしたような装飾。
そのデザインを見つめながら、リナリアは小さく息を呑んだ。ドレスに詳しくない自分でも分かる。綺麗だ。こんなにも美しいドレスを、自分が纏うのだろうか。
このドレスに相応しい自分でいられるか、不安と緊張が胸を締める。そんなリナリアの隣で、シルヴィオが静かに口を開いた。
「よく似合う」
「っ……!」
短い言葉。けれどその声は、確信に満ちていた。それだけで、このドレスを着たくなるには充分だった。リナリアはそっと濃紺の布を握り締める。
次のパーティーは、リナリアにとって戦いの場だ。けれど、シルヴィオの瞳と同じドレスを身に纏えば、きっと戦える。
「おやおや、二人の世界か?」
「殿下、邪魔してはいけません」
その言葉に、リナリアは顔を赤くして俯く。カメリアに嗜められても、アルベリクは笑みを崩さず嬉しそうだ。
「カメリアは私の色を纏ってはくれないのか?」
「わたくし、今回はドレスの色は決めているんです」
「おや、何色だ?」
カメリアは戦に立つに相応しい布を持ち、にこやかに、そしてリナリアでも見惚れてしまうほど鮮やかに微笑んだ。
戦が、始まる。




