崩れゆく足元
自分を取り巻く空気が、少しずつ変わっていることを、エリシアは感じ取っていた。
それは本当に、じわじわとだった。
最初は視線。以前なら、社交界で姿を見せれば令嬢たちは競うように声を掛けてきた。ヴァルクス公爵家の婚約者の立場を奪い取り、第二王子派の貴族の勢いを後押しした。そう囁かれ、誰もが媚びるように笑っていた。
学園でもそうだった。レオンと共に歩くだけで、どの令嬢も羨ましそうにエリシアを見つめ、媚を売るのに必死だった。
だが今は違う。目が合っても、逸らされる。話しかけても、どこか壁がある。今日開いた茶会もそうだった。
広いサロンには高価な茶器と菓子が並んでいる。けれど集まった令嬢はわずか数人。しかも皆、どこか居心地悪そうに座っていた。
エリシアは扇を閉じ、静かに笑った。
「最近、皆さんお忙しいのかしら?」
その声音には棘があった。だが誰も取り繕うように笑わない。沈黙。それが、何より気に障った。
「……ミレーヌ様は?」
「体調を崩されたそうです」
「フェリシア様は?」
「急用が入ったと……」
まただ。最近はいつもそう。理由を付けて避けられる。エリシアは苛立ちを押し隠しながらティーカップを置いた。
第二王子派は、もう壊滅状態だった。強引な派閥優遇、露骨な圧力、相次ぐ失策によって、処罰を受けた貴族も少なくない。かつて第二王子派に擦り寄っていた貴族たちも次々と距離を置いている。
そして何より。ヴァルクス公爵家とローデリア家が完全に第一王子側へついた。それが致命的だった。
社交界の空気は、もう変わってしまったのだ。
エリシアは奥歯を噛み締める。こんなはずではなかった。自分は勝者になるはずだった。レオンに選ばれ、カメリアを蹴落とし、社交界の頂点に立つはずだったのに。
なのに、レオンは謹慎処分となり、会えもしない。
「まったく…少し情勢が変わった程度で、皆さん騒ぎすぎなんですよ」
誰も笑わない。重い沈黙だけが空間を支配する。エリシアの眉間に深い皺が寄る。
「何かあるなら言ったらどう!?」
「エリシア様、落ち着いてください…」
隣にいるリリーナに諌められるが、彼女も顔色が良くない。第二王子派が、盗賊を扇動してヴァルディアへの荷物を襲っていた。その処罰を、リリーナの家も受けていた。
エリシアの怒声に、肩を縮こまらせていた一人の令嬢が恐る恐る口を開いた。
「ローデリア嬢が……動いているそうです」
「ローデリア?今さら何が出来るというの?あの方は社交界から消えたでしょう?」
そう。自分が消したのだ。
あの日、皆の前で婚約破棄を突き付けさせ、醜聞を流し、完璧だった侯爵令嬢を社交界から追い落とした。もう終わった女だ。だが。
「……カメリア様ではなく、妹君のリナリア様です」
空気が変わった。エリシアの笑みが、ぴたりと止まる。
「……リナリア?」
聞き覚えのある名前だった。脳裏に、あの日の光景が蘇る。レイナード公爵夫人のパーティーで、大勢の貴族たちが見守る中、自分は笑われた。リナリア・ローデリアに。
『あなたと家族になることはございませんので』
レオンと共に、笑ってやろうと思っていた。自分が追い落としたカメリアの妹を。なのに、あの冷え切った声、逃げ場を塞ぐような視線、何も言い返せず、周囲から憐れむような目を向けられた屈辱。
「それだけではありません……」
「リナリア様は、元第二王子派の令嬢たちと頻繁にお茶会を開いていると」
「それに、以前の件で、証言を撤回したいという方々まで……」
「……は?」
エリシアの声が低く落ちた。誰も顔を上げられない。「あの日」のことだった。カメリアを追い落とした夜会。
エリシアに同調し、カメリアを嘲笑った令嬢たち。その証言が崩れれば、何が起きるか。誰だって分かる。エリシアの指先が震えた。
「……ふざけないで!!今さら撤回ですって? あの時、皆笑っていたじゃない!」
叫ぶような声に、令嬢たちがびくりと肩を震わせた。エリシアは息を乱しながら立ち上がる。
違う。おかしい。こんなはずではなかった。カメリアは終わったはずだ。自分が勝ったはずだった。なのに、どうして。
どうして皆、自分から離れていくの?
「……あの女」
ぽつりと漏れた声の、あまりの冷たさに令嬢たちがびくりと肩を揺らす。
リナリア・ローデリア。
病弱で社交界に出られなかったはずの女。なのに突然現れ、ヴァルクス公爵家のレオンより格上のシルヴィオを手に入れた婚約者。
私が、立つべきだった場所に立っている女。
「……その女のせいで、私は今こんな惨めな思いをしているの……?」
誰も答えない。だが、その沈黙こそが答えだった。以前なら、皆が「そんなことありませんわ」と慰めてくれた。エリシアを持ち上げ、機嫌を取った。
けれど今は違う。誰も助けない。誰も味方しない。第二王子派が崩れた今、エリシアに媚びを売る価値はもうないのだ。
その現実が、じわじわと胸を締め付ける。
エリシアは唇を噛んだ。認めたくない。認めたくないのに。社交界の中心にいたはずの自分が、今や静かに切り捨てられ始めていることを、嫌でも理解してしまっていた。
そしてそれは、終わりの始まりに過ぎなかった。




