傷ついた淑女へ
午後の陽射しが、ローデリア公爵家の談話室を柔らかく照らしていた。
読んでいた本を閉じたカメリアは、部屋にやってきて、向かいに座る妹を静かに見つめる。最近のリナリアは、驚くほど忙しそうだった。
貴族社会への復帰。第一王子派との接触。そして、第二王子派の動向調査。かつて「商人として生きる」と言っていた少女とは思えないほど、今のリナリアは社交界の中心で立ち回っている。
「王族主催のパーティーが開かれることになったの」
リナリアが意を決したように静かに切り出した。カメリアは湯気が立ち上るカップを持ち上げようとしていた指を引っ込めた。
「アルベリク殿下が、お姉様の名誉回復の場を正式に設けてくださると」
カメリアは僅かに目を伏せる。
婚約破棄の件以来、自分の名前が社交界でどう扱われているかは知っていた。レオンに公衆の面前で婚約破棄を突きつけられた侯爵令嬢。しかも、その後は謹慎処分。
第二王子派が壊滅し、表向きは静かになっていても、完全に汚名が消えたわけではない。
「そのために今、元第二王子派の令嬢たちや、レオン様とも接触しているの」
「……レオン様とも?」
「えぇ。婚約破棄の真相を洗い直そうと思って」
既にそこまで動いていたのか、とカメリアは息を呑む。リナリアは迷っているように翡翠の瞳を揺らし、姉を見つめた。
「お姉様は、そのパーティーに参加する?もちろん無理にとは言わないわ」
問い掛けられたカメリアはすぐ答えられなかった。
リナリアが「貴族に戻る」と決意した日から、まだそんなに時間は経っていない。それなのに彼女はもう、魑魅魍魎の渦巻く社交界の中を戦い抜いていた。
ヴァルディアでの一件も聞いている。アルベリク第一王子にも覚えられ、リナリアはどんどん先へ進んでいく。恐らくは、自分のために。カメリアは胸が痛くなった。
本当は、商会で働くリナリアを見るのが好きだった。王都から離れられない自分とは違い、馬に乗って各地を飛び回り、笑顔で働く妹は自由で、眩しかった。
なのに、自分が傍観を選び、諦めてしまったせいで、リナリアをこちら側へ引き摺り込んでしまった。
たとえ自分が、もういいと言ったとしても、パーティーには行きたくないと言っても、きっとリナリアは戦う。必ず、名誉を取り戻してくれる。けれど、それでは姉として情けなさすぎる。
「……お姉様?」
社交界で揺るぎなく振る舞うリナリアからは想像出来ないほど、不安そうなか細い声に、カメリアはゆっくり顔を上げた。そして静かに頷く。
「行くわ、リナリア。わたくしも、自分で戦わなければいけないわね」
「お姉様……」
「あなたが、シルヴィオ様に認められたいと、わたくしのために頑張りたいと言ってくれるなら。わたくしもそんなあなたの姉として恥ずかしくない人でいたいもの」
カメリアらしい本来の笑顔で紡がれた言葉に、リナリアが泣きそうな顔で笑った。
翌日。
カメリアは自室で、海外の文化について書かれた本を読んでいた。異国の衣装。建築。食文化。知らない景色。新しい知識を得るのは、いつだって楽しい、とページをめくっていると、突然、部屋の扉が勢いよく開いた。
「カ、カメリア様!!」
いつも冷静で仕事が出来るメイドが、カメリアの返事も待てないような青ざめた顔で駆け込んでくる。
「どうしたの?」
「あ、アルベリク第一王子殿下が、いらっしゃっております!!」
「……え?」
思わず間の抜けた声が漏れた。全く接点のない大物の突然の訪問に、頭が追い付かない。リナリアが昨日話していた内容と照らし合わせるなら、可能性は一つ。
「リナリアを訪ねてきたのでは?」
「それが、確かにカメリア様にお会いしたいと……!」
カメリアは完全に固まった。リナリアは今日はヴァルクス公爵家へ行っている。つまり、本当に自分に用があるらしい。
慌てて身支度を整え、応接室へ向かう。
応接室に入ると、そこには蜂蜜色の髪を持つ青年が座っていた。陽光を受けて輝く金髪。穏やかな碧眼。絵本から出てきたような、美しい第一王子。
「やぁ、カメリア嬢」
柔らかな笑みを向けられ、カメリアは緊張したまま礼を取る。父と母も同席していたが、二人ともどこか困惑した表情をしていた。
当然だ。第一王子が突然訪ねてくる理由など思いつかない。
「急な来訪、申し訳ないな。ちょっと、話せるかい?」
「え、えぇ。もちろんですわ」
困ったように微笑むアルベリクに促され、カメリアは庭園へ移動した。
常に季節の花が咲き誇るローデリア家自慢の庭園を並んで歩きながら、カメリアは慎重に問い掛ける。
「本日は、どのようなご用件でしょうか?」
アルベリクは少し考え込んだ後、何かを決意したようにカメリアに向かい合う。二人の間を、花の香りと共に風が吹き抜ける。
「難しい話は無しだ。単刀直入に言う。私と結婚してくれないか?」
カメリアは足を止めた。頭が真っ白になる。目の前の相手は、この国の王太子だ。冗談で口にしていい言葉ではない。
「恐れながら、そのようなご冗談は……」
「冗談ではない。君のご両親には先程話を通している。カメリア嬢の意思を尊重して決めると。あぁ、国王陛下の承認は既に得て、」
「なぜ、わたくしなんですか?ご存知の通り、わたくしは公衆の面前で婚約破棄を突きつけられた身です。いまだ謹慎処分中でもあります」
理解が追いつかない。が、既に手を回されているということは、冗談ではないと言う言葉は真実のようだ。カメリアは無礼を承知の上で、アルベリクの言葉を遮る。カメリアの手は緊張と動揺で冷たくなっていた。
「仮に、リナリアが名誉回復を成したとしても、その汚名は消えません。この国の王妃として相応しいとは思えません」
カメリアの言葉は、何も間違っていない。ただし、カメリアの正論はアルベリクにとっての正解ではない。
「君がいいんだ。完璧な淑女とまで言われた君の努力を、私は知っている」
「わたくしと殿下に、個人的な接点はございませんよね?」
「いや。君が知らないだけで、私はずっと見ていた。君が、完璧な淑女と呼ばれるまで、どれだけ努力していたか。学園でも、夜会でも、決して隙を見せず、微笑み続けていた君を」
晴れ渡った青空のような瞳が、カメリアを見つめて綻ぶ。元婚約者であるレオンにも、そんな瞳で見つめられたことはない。
カメリアは困惑する。学園は六年制だが、アルベリクとは年齢が離れている。学園で顔を合わせる機会などほとんどなく、在学期間が被っていたのも、一、二年ほどだ。その期間に個人的な接点を持ったことなどないはずだ。
「覚えていないだろうが、君がまだ幼い頃、パーティーで話したことがある。私が王太子としての重圧に押し潰されそうになって、夜会を抜け出していた時だ」
アルベリクが少し遠くを見るように目を細める。自分より歳下の少女が、瞳を輝かせて近寄って来てくれた日を思い出す。
『わたくしは、あなた様を尊敬しております。わたくしはいつもいっぱいいっぱいです。でも、殿下はもっと大変なのに、いつも笑顔で周囲を惹きつけていらっしゃいます。わたくしも、殿下を支える貴族として、恥ずかしくない人であろうと、努力する目標になります』
「……別に特別な言葉ではない。だが、あの日の私には必要な言葉だった。出来て当然の王太子ではなく、頑張っている自分を見てくれた。それが嬉しかった」
アルベリクは照れたように笑う。カメリアは唖然とした。覚えていない。あの頃はただただ必死だったから。
なのに、そんな言葉を覚えていてくれた?
「レオンの婚約者に決まったと知った時は、本当に悔しかったよ」
アルベリクが苦笑する。カメリアは、どんな言葉を紡げばいいか分からなくて、唇を噛み締める。
そしてふと、アルベリクはカメリアの動揺を落ち着かせるように、表情を和らげた。
「リナリアが、君は国外の本に夢中だと言っていてね。もしかしたら、パーティーが終われば国外へ行くつもりなのではと思った」
カメリアは目を見開いた。国外で新しい文化に触れ、静かに暮らしてみたい。そんな夢は、まだ誰にも話していなかった。
それをまさか、リナリア経由の話を聞いただけで、知られているなんて。アルベリクは拒まれてもいいように、そっとカメリアの手を取る。
「国外へ行きたいと思うほど、傷ついていたのだろう。だが、君はこの国にいていい」
優しい声だった。カメリアに、まだ癒えていない傷があることを分かった上で、その傷をこれ以上広げないための、優しい言葉。
「何も恥じることはない。リナリアがそれを証明する。そして私が、その立場を保証しよう」
カメリアの胸が揺れる。なんて、優しい人なのだろう。カメリアはこれ以上、優しい家族に迷惑を掛けたくなかった。だから誰も知らない土地へ行きたかった。
なのに、この国の王子が、この国にいていい、と言ってくれる。
涙が滲んだ。冷たかった指先に、アルベリクの温もりが伝わる。それが不思議と、落ち着いた。多分、それだけでいいのだ。
カメリアはアルベリクの手を握り返して、小さく笑って答える。
「お受けします」
「え!?」
今度はアルベリクが驚いた顔をした。カメリアは完璧な淑女ではなく、ただのカメリアとして柔らかく微笑む。
「あの日の裏切りは忘れられません。もう、結婚なんてしたくないと思っていました。殿下の言う通り、国外で、誰にも迷惑をかけず、一人で生きていこうと思っていました」
信じられない、と目を見開くアルベリクの、珍しく笑みを浮かべていない顔に、何だかカメリアは嬉しくなった。
「ですが、ここまで言ってくださる方は、きっと家族以外におりません……後悔はございませんか?」
するとアルベリクは嬉しさを堪えきれないように笑った。はは、と笑い声を上げて、晴れやかな笑顔を浮かべる。
「ない!こんな嬉しいことはない」
春風が吹き抜ける。花びらが舞う庭園の中で、カメリアは初めて、誰かに選ばれることを怖いと思わなかった。




