盤上に立つ覚悟
別室に通された瞬間、空気が変わった。
一目で高価とわかる調度品でまとめられた部屋の中央で、レイナード公爵夫人は、絵画のように優雅に微笑んでいる。
「やっと来たのね。待っていたわ」
「改めて、お礼を申し上げます。レイナード公爵夫人様。事前に招待客リストを、」
「その話はいいわ」
柔らかな声音で遮られる。有無を言わさないその風格は、どこかシルヴィオと似ている。リナリアはわずかに息を止めた。
「それで?何に使ったのかしら?」
扇の奥から、鋭い視線が向けられる。久しぶりの、この緊張感。一言一言に神経を研ぎ澄まさなければ。
「どこまでお話しになるのかしら。隠し事の程度で、評価は変わるわよ?」
逃げ道はない。リナリアは一瞬だけ視線を横へ流す。シルヴィオは、壁際に寄り、静かにこちらを見ている彼は、何も言わない。ただ、ほんのわずかに顎を引いた。
それだけで、十分だった。リナリアは静かに息を整え、顔を上げる。
(……この方なら)
あの日、姉を惜しんで下さったただ一人の人。
「全て、お話しいたします。私は今回、姉の婚約破棄の際、証言を行った方々と接触しておりました。目的は、証言の真相の確認です」
レイナード公爵夫人の長いまつ毛に縁取られた瞳が、一瞬大きく見開かれる。
「決して、第二王子派の方々を助けるためではございません」
はっきりと続ける。一瞬の沈黙。パタン、とレイナード公爵夫人が手に持っていた扇が閉じられる音が、部屋に響いた。
「……正直ね」
「私は、悪意をもって陥れられた姉の名誉を、回復したいのです」
空気が、ぴんと張る。リナリアは声を張り上げているわけではない。それなのに、怒りがビリビリと伝わってくる。
「表舞台で、必ず責任を取らせます。そのために、証言をした者達を味方にし、あの時の証言が本当に真実であったのか、それを知る必要があります」
完全な沈黙。否定も肯定もなく、次に空気を動かしたのは、レイナード公爵夫人だった。試すようにリナリアへ問いかける。
「そのために、生き方を変えたの?」
「はい。私に自由をくれた方ですから」
「……そう」
公爵夫人は静かに目を細めた。一歩、静かにリナリアとの距離を詰める。
「あなたが、シルヴィオと共にヴァルディアの盗賊を討伐したことも知っているわ」
さらりと告げられる。なぜ知っているのか、とリナリアが聞こうと口を開きかけたところで、更に畳み掛けられる。
「わたくし、現王妃の妹なのよ。アルベリク第一王子は甥っ子よ。よく情報交換をしているわ。あなたのことも聞いているわ」
ねぇ、と更に一歩、リナリアへの距離を詰める。目の前の女性から、なぜシルヴィオと似た圧を感じるのか、やっと理解した。
「女が商会で働いて、馬に乗って駆けて、盗賊まで討伐する」
ゆっくりと、言葉が重なる。リナリアへの最後の一歩を詰めて、閉じた扇でリナリアの顎を掬い、目線を合わせる。
「……面白いわ。それが全部、姉のためなのでしょう?」
その声には、明確に興味が宿っていた。リナリアは、全て知られていることを悟り、頭を下げた。
「どうか、今のお話は、内密にしていただけませんでしょうか」
「あら、なぜ?」
「私は自分の選択を後悔していません。ですが、シルヴィオに、公爵家に、迷惑がかかってしまいます」
自分の名誉より、他人の尊厳を気にするその心根を感じ取り、レイナード公爵夫人は、ふ、と小さく笑いを溢した。
「……優しいのね」
(あの男は気にしないでしょうに)
そんな本音は、胸の内に留めたまま。一度も口を開くことなく、事の成り行きを見守る男に視線を投げる。
「いいわ。口外しないことを約束しましょう」
「ありがとうございます」
「ただし、条件があるわ。今回、あなたが接触した者たちの、証言と名前、すべて、わたくしに報告なさい。信頼のおけない人間を知る、良い機会だわ」
リナリアは条件を飲み込み、迷いなく頷く。レイナード夫人は、強い意志を秘めたリナリアの翡翠の瞳を、覗き込む。
「もう一つ。カメリア嬢の名誉回復、必ずやり遂げなさい」
それは命令であり、覚悟を決めさせる言葉。迷いは、もうない。
「承知いたしました」
その一言で、盤面に立つことを受け入れる。公爵夫人の口元が、愉快そうに歪む。
「いいわ。楽しませてちょうだいな」
その言葉は、期待か、それとも試練か。どちらにせよ。もう、引き返す道はなかった。
夜の帳が落ちた街を、静かに馬車が進んでいく。
扉が閉まった瞬間、外の喧騒が遠ざかり、密やかな静寂が二人を包み込んだ。
リナリアは背筋を伸ばしたまま、窓の外へ視線を向けている。つい先ほどまで公爵夫人と対峙していた緊張が、まだ体の奥に残っていた。
向かいに座るシルヴィオは、何も言わずその様子を見ている。
「レイナード公爵夫人は、王妃様の妹君だったんですね」
「あぁ、お前はまだ貴族の家系図をあまり知らなかったな」
先に口を開いたのはリナリアだった。声は落ち着いている。けれど、ほんの僅かに力が抜けきっていない。
「精進します…」
「今回は良かったが、理解せずに不用意に話すと、地雷を踏むこともある。勉強予定に追加しておこう」
既に地獄のように過密な日程を組まれているのに、更に追加されてしまったが、これもシルヴィオの隣に立つ為には必要なことだと飲み込む。
再び沈黙が落ちるが、それは気まずさではな、先ほどの出来事を整理するための時間だった。
やがて、リナリアの指先が、きゅ、とドレスの裾を握る。
「……全て、知っていると告げられた時、女が、そんな事をするなんてはしたないと、軽蔑されるかと思っていました」
「お前は気にかけているようだが、気にするほどのことでもない」
即答だった。リナリアはそんな筈ないと苦笑いを浮かべる。そんな事ないと言ってくれるシルヴィオと、レイナード公爵夫人が特例だ。
「……シルヴィオは、レイナード公爵夫人が全てご存知だと、知っていたんですか?」
「あぁ」
「どこまで試されていたのか、分かりません」
「全部だろうな」
あっさりと言い切られる。リナリアは一瞬目を瞬かせ、それから小さく息を吐いて、緊張を振り切るように肩の力を抜いた。
「……ですが」
そこで言葉が止まる。迷いのような沈黙。シルヴィオは急かさない。ただ静かに待つ。
「……信じたいと思ったんです。あの時、お姉様のことを、気にかけてくださったのは、あの方だけでしたから」
視線は窓の外のまま。ゆっくりと、言葉を選ぶように続ける。けれどその声には、確かな感情が乗っていた。
「だから、全てお話ししてしまいした。後悔はしておりません」
その一言に、揺らぎはない。覚悟を持って選んだ行動だったと分かる。そこでようやく、シルヴィオが口を開く。
「していたら止めている」
「……え?」
窓の景色から視線を戻し振り返る。シルヴィオはいつも通りの表情で、淡々と続ける。
「お前が迷っていたなら、あの場では話させていない。お前は自分で決めた。なら、口を出す必要はない」
そこには、明確な信頼があった。シルヴィオは当然のように言ってのけたが、リナリアの胸の奥は、じわりと熱を帯びる。
「……シルヴィオは、本当に……ずるいです」
「なぜだ」
「そうやって、何も言わずに全部見ていて、後から、全部分かっていたみたいに言うんですもの」
拗ねたような声音。つい先ほどまでの張り詰めた空気が、ゆるやかにほどけていく。シルヴィオはそれを見て、口端を緩める。
「全部分かっているからな」
「先に教えてください。そうすればもっと、心の準備が…」
即座に返す。その表情は、もう完全にいつものリナリアだった。スッとシルヴィオの手が伸びてきて、リナリアの絹のような黒髪を整える。
「聞かれれば教える」
「……それは、意味がないのでは?」
「あぁ。だから自分でよく考えるんだな」
間髪入れずに返される。リナリアは一瞬きょとんとして、それから小さく笑った。厳しくて優しい人。
馬車は静かに進み続ける。外の夜景が流れていく中、二人の間に流れる空気は、先ほどまでとは違っていた。
張り詰めたものではなく、確かに繋がったもの。そのまま、リナリアはそっと視線を落とし、小さく呟く。
「……頑張ります」
「あぁ。思う存分、やり切れ」
思わず顔を上げると、シルヴィオはいつものように静かな表情でこちらを見ていた。見守ってくれて、力を貸してくれる人がいる。こんなに心強いことはない。
リナリアは、小さく息を吐いて、今度は、穏やかに微笑んだ。




