誤解と確認
静かな午後だった。
差し込む光は柔らかく、穏やかな空気が流れているはずなのに、言われた言葉が理解できなくて、引いたと思っていた肋骨の痛みが、急にぶり返す。
「第二王子派の件も片付いた。カメリア嬢の名誉が回復出来れば、婚約の目的は達している」
視線は書類に落ちたまま、淡々と続けられる言葉。
「利害関係で結んだものだ。無理に続ける必要はない」
その一つ一つの言葉が、遅れて胸に重く沈んでいく。
(……ああ)
理解した瞬間、心の奥が、すっと冷える。そうだ。忘れていた。最初から、これはそういうものだった。政治的な繋がり。目的のための婚約。それが終われば、
(……終わって、当然)
シルヴィオは公爵家次期当主。侯爵家の次女であるリナリアより、良い縁談は山程あるだろう。リナリアでなければいけない理由も、ない。
シルヴィオを引き止められるだけの価値が、自分にはない。ぎゅ、と手が震える。それでも、乱れそうになる呼吸を、必死に押さえ込む。
声を出そうとした瞬間、喉がひゅっと詰まる。落ち着いて話さなければ。ちゃんと、シルヴィオが鍛えてくれた通りの貴族として、そう思うのに。
「……っ」
ぽろ、と。一粒、涙が落ちた。止めようとしたのに。止まらない。どんな時だって、泣きたくなかった。盗賊に首を絞められたって。なのに、一番泣きたくない人の前で、涙を見せてしまうなんて。
こんな、感情的な姿を見せたら、余計に嫌われてしまう。
「……っ申し訳、ございません……」
見られたくなくて、慌てて俯く。けれど、視界が滲んでいく。言葉を選ぼうとしても、まとまらない。
頭の中に浮かぶのは、今まで積み重ねてきた時間ばかり。優しく名前を呼ばれたこと。守られたこと。触れられたこと。
(……もしかしたら)
ほんの少しだけ。ほんの少しだけ、同じ気持ちなのかもしれないと。そう思ってしまった自分が、恥ずかしい。
「……あの」
声が震える。自分が思ってる以上に、か細い声だった。それでも、必死に絞り出す。
「あなたにとって……もう、私は価値がないかもしれません」
一度、息を吸う。震える唇のまま、涙が頬を伝う。
「……でも、ごめんなさい、っ私は……あなたが、好きです」
ぽろ、ぽろ、と。零れ落ちる涙と一緒に、やっとの思いで、言い切った。
その瞬間。
「……はぁ」
小さく、ため息が溢れる。
「……っ」
心が、凍る。
(……あ)
拒絶された。そう思った。それ以上、何も聞けなかった。何も言えなかった。ぐっと唇を噛んで、無理やり顔を上げて、笑顔を作る。震えそうになる口元を、必死に抑えて。
「……今まで、沢山、助けて頂き……ありがとうございました」
完璧ではない。けれど、崩れてはいない。それだけを支えにして。立ち上がる。
「……失礼、いたします」
これ以上ここにいたら、全部、崩れる。見せたくないところを、全部見せてしまう。早足で、その場を離れようとした瞬間。
「待て」
「……っ」
腕を掴まれ、びく、と身体が揺れる。ぼろぼろの泣き顔を見られたくなくて、顔を逸らす。
「ごめんなさい……っ離して、ください……」
逃げなきゃ。これ以上、みっともないところを見せる前に。けれど、離れない。むしろ、しっかりと掴まれ、引き戻される。
「リナリア」
低く、名前を呼ばれる。何度も聞いた、落ち着かせるような声。嫌だ。そんな声で呼ばないで欲しい。
「誤解している」
「……っ」
逃げようとしていた動きが止まる。ゆっくりと、引き寄せられる。呆れたような、でもほんの僅かに優しさを覗かせる濃紺の瞳が、リナリアのぼろぼろの泣き顔を映す。
「俺がいつ、お前を手放すと言った」
「……え……」
思考が、止まる。涙を流したまま、茫然とシルヴィオを見上げる。シルヴィオは、少しだけ眉を寄せ、リナリアの目尻に残る涙を親指でそっと拭う。
「破棄しても構わない、と言っただけだ」
「だから、わたしっ…」
「最後まで聞け。お前が望むなら、無理に縛るつもりはない。利害はもうないからな。だから、選べ」
その言葉に、胸が大きく揺れる。利害がないのに、シルヴィオを選べと言う。その真意は。
「だが、俺が破棄したいとは、一言も言っていないだろう」
「……え……」
涙で滲んだ視界の中、シルヴィオが仕方ない、と言いたげに微笑む。そんな、優しい顔されたら、勘違いしてしまう。
「勝手に結論を出すな」
「……っ言い方、が、悪いんですっ」
「お前がいらないなら、ここまでしていない」
その言葉に。張り詰めていたものが、一気にほどける。信じられない。誰だってあんな言い方されたら、最悪を想像するに決まっているのに。
「……もう一度聞く。お前はどうしたい」
シルヴィオが、少しだけ身を屈めて、後頭部に手を当て、視線を合わせる。逃げる余地を残さない、シルヴィオらしい聞き方。
「……私は、あなたの隣に……いたいです……」
泣きながら、一番見られたくないぼろぼろ泣く姿を好きな人に晒して、けれど、真っ直ぐに、そう言い切った。
「……最初からそう言え」
呆れたように言いながら、そのまま、引き寄せられてシルヴィオの腕の中に収まる。リナリアは仕立ての良い生地に包まれた胸板に顔を寄せる。
「手放すつもりはないと言っただろう。勝手に逃げるな」
「……はい……」
広い背中に腕を回して、小さく答える。
安心したはずなのに、さっきまでの怖さが抜けきらなくて、呼吸がうまく整わない。シルヴィオはそれを一瞥して、わずかに眉を寄せる。
「……泣きすぎだ」
ぽつりと落ちた声に、リナリアの肩がびくりと揺れた。叱られる、と思ったのか、腕の中でほんの少しだけ身を強張らせる。
「ほら、息をしろ」
「…っ、はぁ…」
「浅い。もう一度」
「……す、ぅ……」
低く、落ち着いた声が続く。顎に指先がかかり、そっと上を向かされる。しゃくり上げながらも、言われるままに呼吸を整えていく。
「……本当に、手がかかる」
そう言いながら、目元に残った涙を親指で丁寧に拭っていく。乱暴さは欠片もない。むしろ、やけに優しい手つきだった。
「……すみま、せ……」
「謝るな。泣いた理由がこれなら、問題ない」
「……え……」
きょとんと真っ赤な瞳で見上げたリナリアに、シルヴィオはわずかに目を細める。
「俺が原因だろう」
「……っ」
「もう十分だ」
額に軽く触れられる。それ以上泣くな、とでも言うように。
「……落ち着いたら、顔を上げろ。その顔で外に出す気はない」
「……はい……」
小さく頷いて、もう一度だけ、ぎゅっとシルヴィオの服を掴む。胸元に額を押し付けると、一定のリズムで背中を撫でられる。
それだけで、不思議と呼吸が整っていく。さっきまでぐちゃぐちゃだった心が、ゆっくりと静まっていく。
「……もう、大丈夫です」
小さな声でそう言うと、シルヴィオは少しだけ間を置いてから手を離した。
「……顔を見せろ」
おそるおそる顔を上げると。まだ赤い目元を見て、シルヴィオがわずかに眉を寄せる。
「……酷い顔だな」
「……っひどいです……」
かすれた声で抗議すると、次の瞬間。ふ、と距離が詰まって目尻に残った涙に、キスされる。
「……っ!?」
「多少はマシになる」
「なりません……!」
驚いて固まるリナリアに、シルヴィオは平然と言う。思わず言い返す声が、さっきよりずっとしっかりしている。それを見て、シルヴィオはわずかに口元を緩めた。
「なら、もう一度するか?」
「……っし、しません!」
慌てて顔を逸らすリナリアの耳が赤くなる。その様子に、満足そうに目を細めて。
「……ようやく戻ったな。さっきまでの顔は、見ていられん」
「……っ」
「……お前は、ああいう顔をする必要はない、俺の前でもな」
その言葉に、少しだけ目を見開いて。それから、ゆっくりと頷く。
「……でも」
「なんだ」
「……シルヴィオの前だから、です。好きな人の前だから、我慢できなかったんです」
ぴたり、と空気が止まる。シルヴィオの視線が、わずかに鋭くなる。何かを言いかけて、代わりに、深く息を吐いた。




