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姉が悪役令嬢にされたので、商人の妹が嘘を暴きます  作者: ゆきだるま
第一章

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踏み越える線

その日の商会は、どこか張り詰めていた。


帳簿をめくる音も、荷を運ぶ掛け声も、いつもと変わらないはずなのに、空気だけが違う。ぴんと張った糸のように、触れればすぐに軋みそうな緊張が、空間全体に広がっている。


理由は分かっていた。昨日、私がこの件を調べると宣言したからだ。商会の仕事ではなく、あくまで私個人の判断で動くと。


それがこの場所でどういう意味を持つのか、誰も口にはしないけれど、全員が理解している。


視線を感じた。帳簿に落とした目線の端で、何人かがこちらを窺っているのが分かる。けれど、誰も声はかけてこない。止めるべきか、進ませるべきか、その判断を下せる人間は、この商会に一人しかいないからだ。


ペンを走らせる。数字を揃え、流れを整え、滞りをなくす。いつも通りの作業をこなしながら、頭の奥では別の計算が進んでいた。


エルンに調べさせた香水の仕入れ先、ドレスの工房、証言者の立場と利害関係。点はいくつか見え始めている。


「リナリア」


低く抑えた声が背中に落ちた瞬間、空気がわずかに変わった。


ペン先がほんの一瞬だけ止まる。けれどすぐに最後の一行を書き終え、静かに顔を上げた。


そこに立っていたのは、この商会の長、

シルヴィオだった。


黒髪は隙なく整えられ、仕立ての良い上着は無駄なく身体に沿っている。立ち姿に一切の揺らぎがなく、整った顔立ちは冷静で、感情の起伏を感じさせない。


「来い」


「…はい」


立ち上がると、周囲の気配がそっと遠ざかるのを感じた。


案内されたのは、奥の小さな執務室だった。重要な商談や、外に漏らせない話をするための部屋だ。扉が閉まると、外の喧騒が嘘のように消え、静寂が落ちる。


向かい合ったまま、先に口を開いたのはシルヴィオだった。


「お前の姉が、婚約破棄されたそうだな」


「ええ」


「それを、お前が調査すると話していたようだが?」


「間違いありません」


視線を逸らさずに答える。


数秒の沈黙が落ちた。その間に、値踏みされているのが分かる。どこまで本気なのか、どこまで理解しているのかを見極めるように。


「やめておけ」


返ってきたのは、あまりにも簡潔な否定だった。


「商会の仕事ではない。利益もない。むしろ損失の可能性の方が高い。貴族の問題に踏み込めば、余計な軋轢も生む。最悪、取引先を失うこともある」


淡々と並べられる言葉は、どれも正しい。商人としての判断としては、非の打ち所がないほどに。


「ここまで説明した上で、もう一度聞くが。やるのか?」


「やります」


人を目だけで射抜きそうな視線を真っ向から見つめ返して、迷いなく答えた。

シルヴィオの視線がわずかに鋭くなる。


「理由は」


「私情です」


即答した瞬間、空気がわずかに張り詰める。

シルヴィオは一度だけ息を吐き、そばの机を指先でトン、と叩いた。


「商人が、私情で動くか」


「ええ。今回は」


「ならば一つ、線を引く。商会の力は使うな」


空気が、静かに張り詰めた。

予想していなかったわけではない。

それでも、言葉として突きつけられると重みが違う。


「情報網も、人員も、資金もだ。すべて商会のものだ」


シルヴィオは淡々と続ける。


「私情で動かすことは許さない」


冷たいほどに明確な線引き。

それは上司としての判断であり、組織を守るための当然の決断だった。

リナリアは一瞬だけ視線を落とし、すぐに持ち上げる。


「……厳しいですね」


「当然だ」


間髪入れずに返る。


「ここは慈善団体じゃない」


リナリアが見習いとして商会に入った時から、シルヴィオは上司としてリナリアを見てきた。

商会で築いてきたものが、リナリアにとっての武器であると、十分に理解した上での線引きだ。


けれど。


リナリアは気づいている。


彼が使うなと言ったのは、あくまで商会の力だけだということに。個人としての行動まで、否定はしていない。


むしろ、そこにだけ、わずかな余白を残している。

信頼する冷酷な上司の、僅かな優しさを汲み取れないほど、リナリアは馬鹿ではない。


「分かりました。商会は使いません」


その答えに、シルヴィオはわずかに目を細めた。

完全に納得したわけではない。

だが、それ以上踏み込まないと決めた目だった。


「……後悔するぞ」


低く落ちる声。

警告。あるいは、確認。

リナリアは、ほんの少しだけ口元を緩めた。


「しません」


即答だった。これだけは、迷わない。シルヴィオはそれ以上何も言わなかった。

ただ一度だけ、リナリアの顔を見て、視線を逸らす。


それが、彼なりのこれ以上は止めない、という意思表示だった。


「……通常業務に支障を出すな」


最後にそれだけ告げて、背を向ける。

完全な拒絶ではない。だが、許可でもない。


扉が閉まる音が、やけに静かに響いた。


残されたリナリアは、知らず知らずのうちに止めていた息をゆっくりと吐く。

胸の奥にあるのは、苛立ちではなく、確信だった。


「十分よ」


小さく呟く。商会は使えない。けれど、それだけだ。

情報の流れを読む力も、人を見る目も、交渉の技術も、全部、自分の中にある。


机の上の帳簿に視線を落とす。並ぶ数字。流れていく金。


「金には、必ず流れがある」


その流れを辿ればいい。たとえ、一人でも。

指先で机を軽く叩く。静かな音が、決意のように響いた。



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