落とされた名誉
商会の仕事を片付け、屋敷に戻る。
屋敷の門をくぐった瞬間、ふと足が止まった。
出迎えに出てきた侍女たちは、揃って背筋を伸ばしているのに、どこか硬い。
「……おかえりなさいませ」
いつもの柔らかさがない。
表情は強張り、視線もわずかに揺れている。
廊下に足を踏み入れる。靴音がやけに響いた。
この屋敷は、こんなに広かったかしら。ふと、そんなことを思う。
この屋敷は、もっと温かかったはずだ。
誰かが笑っていて、誰かが気を配っていて、
空気そのものが、やわらかく満ちていた。
それなのに今は、息を潜めたように、静まり返っている。
屋敷の中心で、いつも控えめに笑っていた姉。
その姉を襲った悲劇が、屋敷中を包んでいるみたいだった。
「…お姉様は?」
近くにいた侍女に問いかけると、侍女は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「っ…お部屋に、いらっしゃいます」
扉の前に立つ。
生まれてから、何度も何度もこの扉の前に立ったことがあるのに、知らない部屋に来たみたいだ。
一度だけ呼吸を整えて、ノックする。
「お姉様。リナリアです。今、お時間よろしいですか?」
わずかな間があいて、静かな声が返る。
「……どうぞ」
扉を開ける。
部屋は、いつも通りだった。乱れているものは何もない。机の上も、ドレスも、髪飾りも、そして姉も。
全てが完璧に整えられている。
カメリアは、窓際に立って出迎えてくれた。
曇天で外から光は入らず、部屋は蝋燭の光だけで照らされていた。
淡い金色の髪は丁寧に編まれ、ひと筋の乱れもない。白い肌、細い首筋、整った姿勢。
昔から変わらない、完成された美しさ。
社交界で、完璧な淑女と噂されるその美貌が、その美しさが少しだけ冷たく見える。
「聞いたわ。学園で何があったか…」
「そう、もうあなたの耳にも入ったのね」
窓際にいる姉に向かって、少しずつ距離を詰める。拒否されたら、いつでも止まれるように。
微かに微笑んだカメリアは、ポツリと言葉を溢した。
「私は、何もしていないの」
淡々とした言葉。妹への弁明ではなく、ただの事実の提示。
「でも、そういうことになるのね」
納得しているわけではない。ただ、目の前で起きた出来事を、結果だけを受け入れている。
蜂蜜を溶かし込んだような瞳が、諦めの色を写して、そっと閉じられた。
カメリアとの最後の一歩分の距離を詰めて、冷えた細い指を握りしめた。
「なぜ、どうして、そんなに落ち着いているの…?」
思わず言葉が強くなる。
カメリアは少しだけ驚いたように瞬きをして、そして困ったように微笑む。
「落ち着いているように見える?」
「見えるわ」
「落ち着いているわけじゃないの。怒るほど、彼を愛していなかったの」
貴族の結婚なんて、家同士の結びつきでしかない。そこに愛が芽生えることはあるかもしれない。でも、カメリアにはそこまで婚約者を愛せなかった。
「小さい頃から婚約者だったもの。情はあったし、良いパートナーとして、彼を支えようと思っていたこともあったけけど…駄目ね」
「駄目じゃないわ」
その言葉が静かに落ちる。
まるで、全てを受け入れたかのようなカメリアの言動に、胸がざわつく。
「ふふ、本当だったら、レオン様に怒らなきゃいけなかったのにね。誤解です、って。婚約者より、その女を信じるのですかって」
「その女って、噂の男爵令嬢?」
「ええ。ピッタリと寄り添っている姿を見てたら、何だか私よりお似合いだな、って他人事みたいに思ってしまって…何も言えなかったわ」
沸々と、胸に込み上げるのは、怒りだ。
熱いのに、どこか冷静で。逃げ場なく、まっすぐに私を突き動かす。
「それで、終わりにしてあげたの?」
「終わりにした、と言うより、終わってしまった、の方が正しい気もするわ」
繋いだ手から、私の熱が、お姉様に流れ込めばいいのに。ギュッと、握りしめた手に力を込める。
「だめよ」
「え?」
「それは、お姉様に相応しい終わりじゃないわ」
「リナリア…」
誰よりも優しいお姉様。私に自由をくれたお姉様。
あなたが、こんな終わりを静かに受け入れるなんて、私が許せない。
「お姉様は、何もしていないわ。その名誉を汚されて、黙っているなんて、そんなこと、させないわ」
ずっと何でもないことのように話していたカメリアが初めて言葉を失う。
「お姉様は間違ってない。だから、そんな終わらせ方は認めない」
はっきりと言い切る。
カメリアは微笑もうとして、けれど上手く形にならない。細い肩が震えて、浅い呼吸を繰り返す。
そのとき。
コンコン、と控えめなノックの音が部屋に響いた。
二人同時に扉へと視線を向ける。
「入ってもいいかしら?」
柔らかい、母の声だった。
「どうぞ」
カメリアが静かに答える。
扉が開き、両親が揃って入ってきた。
父は少しだけ難しい顔をしているけれど、その目は穏やかで。母はいつも通り、やさしく微笑んでいる。
けれど、その奥にある心配は隠しきれていない。
「リナリアも来ていたのね」
母がほっとしたように言う。
「ええ。今、帰ってきたところです」
軽く会釈を返すと、父がゆっくりと口を開いた。
「カメリア」
短く名前を呼ぶ。
それだけで、空気が少しだけ引き締まる。
けれどその声に、責める色は一切ない。
「カメリア、今回の件は聞いている」
「はい」
「お前が何をしたかではなく、何もしていないことも、分かっているつもりだ」
一瞬、空気が止まる。
自分だけでなく、家名にも泥を塗ってしまったと、罪悪感に埋め尽くされたカメリアの瞳が、わずかに揺れた。
「……ですが、結果は」
震える唇で言いかけた言葉を、父は軽く手を上げ、やんわりと遮った。
「結果など、どうでもいい。婚約がなくなったのなら、それでいい」
「……え?」
思わず、リナリアが声を漏らす。
父は慈愛に満ちた顔で真っ直ぐにカメリアを見ていた。握りしめたカメリアの指先が少しずつ温まるのを感じる。
「無理に結婚する必要はない。お前が幸せでないのなら、その縁に意味はない」
母が、そっと言葉を重ねる。
「そうよ、カメリア。少し休みなさい。今までずっと、頑張ってきたでしょう?」
「でも、私は、家名にも泥を塗ってしまいました…!きっとすぐに、婚約破棄の書状が届きます。お父様達にまで、迷惑をかけてしまいます…」
「いいのよ。ちゃんと分かってる。あなたがどんな子か、誰よりも知っているもの」
それは、両親からの全面的な肯定だった。
カメリアの蜂蜜色の瞳から、宝石のような涙が零れ落ちる。
「無理に強くあろうとしなくていいの」
静かな沈黙が落ちる。
カメリアは、何も言えないまま立ち尽くしている。
その姿は、さっきまでの“完成された淑女”ではなくて、少しだけ、普通の女の子に戻っていた。
(……優しい。そんなお二人のおかげで、私は今まで自由に好きなことをさせてもらえた。だからこそ)
リナリアは、胸の奥で小さく息を吐いた。
だからこそ、許せない。
この人たちは、守ってくれる。
何もかも受け入れて、包み込んでくれる。
それでも、その優しさに包まれて、終わりを受け入れるわけにはいかない。
戦うことから、逃げてはいけない。
静かに、拳を握る。
「……お父様、お母様。私はこの件を調べます。商会の仕事とは関係のない、私個人の判断です」
リナリアが一歩前に出る。
父がゆっくりと視線を向ける。その目を真っ直ぐに見つめて、
「リナリア、お父様とお母様がこう言ってくださるだけで、私は大丈夫よ」
「お姉様の名誉は、汚されたままにしていいものではありません。取り戻します」
静かに、けれどはっきりと言い切る。
部屋の中に、沈黙が落ちる。
父はしばらく何も言わなかった。
その視線は厳しくもあり、どこか試すようでもあった。
やがて——小さく息を吐く。
「……好きにしなさい。ただし、無茶はするな」
「はい!」
短い言葉。
けれどそれは、無茶をするであろう娘に向けた、精一杯の心配を込めた許可だった。
母が、少しだけ困ったように笑う。
「本当に、似ているわね」
「え?」
「頑固なところ」
その言葉に、カメリアがほんの少しだけ笑った。
それは、今日初めて見る、ほんの少しだけ、温度のある、いつも通りのカメリアの笑顔だった。
「リナリア…ありがとう」
「大丈夫よ、お姉様。勝つわ」
リナリアは静かに思う。
(必ず、取り戻す)
その決意だけが、はっきりと胸の中にあった。




