慣れない夜の温もり
食事を終えた二人は賑わいの残る街を抜け、宿へと戻った。
夜風に当たっても、リナリアの頬の熱は一向に引かない。むしろ宿に近付くにつれて、鼓動が早まる。
(落ち着いて……ただの同室、ただの任務……)
そう自分に言い聞かせながら、鍵を開けたシルヴィオに続き部屋へ入る。
中は簡素な造りだった。
木製の寝台が一つ、小さな机と椅子。窓際にはソファー。壁際には水差しと洗面器が置かれている。
やはり、寝台は一つだけだった。視線が無意識にそこへ吸い寄せられる。
「先に使え」
不意にかけられた声に、はっと顔を上げる。
「え?」
「風呂だ。早い方がいいだろう」
「あ……い、いえ、私はちょっと準備があるので、シルヴィオ先に…!」
とはいえ、この宿の風呂は各部屋にあるものではない。裏手に設けられた共同の浴場を、時間で区切って使う簡素なものだ。
宿の者に声をかけ、先にシルヴィオが使うことになった。部屋に一人残される。
(……落ち着いて、リナリア)
胸に手を当てる。早すぎる鼓動を、どうにか鎮めようとする。同室なんて、昔もあったことだ。あの頃は平気だったし、気にしたこともなかった。そう、何度も雑魚寝をしたことだってある。
ただ、
(今は……婚約者……)
そこに思い至った瞬間、再び顔が熱くなる。いつまでも引かない熱が、身体を支配する。
がちゃり、と扉が開いた。
「次、空いたぞ」
振り返った瞬間、おかえりなさいと言おうと開いた口が止まる。
濡れた髪。いつものように整えられていない、下ろされた前髪。簡素な夜着に包まれた逞しい身体に、視線が止まる。
「……どうした」
「い、いえっ、何でもありません!」
反射的に視線を逸らす。いつもの貴族としての服装と違いすぎる。
(無理…!!これじゃ変態は私だ…!)
「早く行け。冷める」
「は、はい!」
ほとんど逃げるように、リナリアは部屋を飛び出した。
湯に浸かっても、全く落ち着かない。湯気の中で一人、頭を抱える。冷水で顔を冷やし、深呼吸を繰り返す。
落ち着け、と心の中で何度もそう言い聞かせ、ようやく部屋へ戻る頃には、多少は平静を取り戻していた、はずだった。
扉を開ける。
「……遅い」
シルヴィオは決して座り心地が良いとは思えない木製の椅子に腰掛け、地図を眺めていた。
リナリアが部屋に足を踏み入れると、徐に立ち上がり水を差し出す。
「顔が赤い。水を飲んでおけ」
「あ、ありがとうございます」
寝台にそっと腰掛け、冷たい水を火照った身体に流し込む。なるべくシルヴィオを視界に入れないようにして、平常心を装う。
シルヴィオが寝台に座り、ベッドが軋む。
「明日も早い。寝るぞ」
「わ、私は、ソファーで」
「おい。身体を休めるのも仕事だと教えたはずだが」
分かっている。そんなことは重々承知だ。だけど、実際に言われると、心臓に悪い。
「わ、私はもう少ししたら……」
言い終える前に、ぐい、と腕を引かれる。そのまま、寝台の上へ。気付けば、すぐ隣にシルヴィオがいる。距離が、ない。
背中に回された腕。ふわりと香る、石鹸の匂い。
「む、無理です…寝れません…」
「寝ろ」
低い声が、吐息が頬をくすぐる。シルヴィオの胸板が、目の前にある。こんなにくっついていたら、早鐘を打つ鼓動の音まで聞こえてしまう。
次の瞬間、とん、とん、と。一定のリズムで、背を軽く叩かれる。まるで幼児をあやすように。
「……子供扱いしないでください」
「うるさい。黙って寝ろ」
だが、その手は止まらない。規則的で、穏やかなリズム。
やがて耳元に届く、シルヴィオの心音。落ち着いた、ぶれのない鼓動。
さっきまで乱れていた呼吸が、不思議と整っていく。さっきまでの高鳴りが、嘘のように静まっていく。
(……安心、する……)
心が落ち着けば、身体は疲労を自覚し、瞼が、重くなる。抗えず、そのまま眠りに落ちた。
朝。
ふと、目が覚める。視界いっぱいに広がるのは、見慣れた整った顔立ち。間近にある、静かな寝顔。
「——っ!?」
一瞬で意識が覚醒する。悲鳴を上げなかっただけでも褒めてほしいくらいだ。
「うるさい」
「まだ何も言ってません…!」
頭上から降ってきた声。身体に回される腕から逃れようと身を捩る。シルヴィオは既に目を開けていた。
「朝か」
何事もなかったかのように、シルヴィオはリナリアを抱き締めていた腕を解放して起き上がる。
(寝起き、良すぎません……!?)
混乱するリナリアをよそに、淡々と身支度を始める。
宿の主人が用意した朝ごはんは、パンとベーコン、スープ、フルーツと、熱々の珈琲。先程までの動揺はどこへやら、食欲が湧き上がる。
「うん、フルーツも新鮮で美味しいですね。スープも鶏肉の出汁が効いてて美味しいです」
「悪くないな」
しっかり全て平らげて、朝の支度を整える。
宿を出て、再び馬を走らせる。
昨日と同様、途中で休みを挟みながら、商人や市民から情報を集める。
やがて日が傾き始める頃。次の宿場町が見えてくる。
「ここだな?」
「はい。宿の前に馬車があります。既に着いているかと」
エルンとの合流地点に指定した宿には、既に馬車が止まっていた。その馬車には何の紋章も刻まれていない。
「お連れ様がお待ちです」
案内された宿へ入り、部屋の扉を開ける。
「お待ちしておりました」
「エルン!久しぶりね!」
久しぶりに見る部下の顔に、リナリアは嬉しそうに駆け寄る。エルンは、リナリアとシルヴィオが貴族として復帰した今も、商会に留まり、リナリアに商会の情報を渡してくれる貴重な存在だ。
駆け寄るリナリアと、後ろから静かに扉を閉め入ってくるシルヴィオに向けて、エルンは軽く頭を下げた。
「予定通りのご到着で何よりです」
「エルンもお疲れさま。急な依頼だったのに、間に合わせてくれてありがとう」
リナリアに話を聞いてすぐ、エルンは馬車を走らせた。馬車ではどうしても馬の機動力には敵わないため、先に出発する必要があった。
「状況は概ね把握しております。この地での情報収集も終えております。ご報告にしますか?それとも、食事に?」
「食事をしながらにしましょう。シルヴィオ、大丈夫ですか?」
「構わない」
「では、リナリア様とシルヴィオ様が身支度を整えている間に、私は食事の準備を」
外套を脱ぎ、二日間の移動で汚れた服を着替え、三人はテーブルに資料を並べ、向かい合う。
「エルン、最近の商会の荷物で、盗賊に襲われた物は?」
「リナリア様からの報告通り、ヴァルディアに運んだ鉄、火薬の荷物が何度か襲われております」
「そう…。盗賊の被害に遭った物たちから、何か話は聞いている?」
「普段から荷物を運んでいる者達です。違和感はあったようで、かなり統率が取れており、今までとは違う、と。他の商人たちからも同様の情報が届いています」
シルヴィオの目が鋭くなる。今までの情報と照らし合わせても、盗賊に金を握らせて、指令を出してい者がいる可能性が高い。
襲われた場所が示された地図を見下ろす。ヴァルディアは貿易が盛んな街で、道も広く、警備も硬い。商隊それぞれも護衛を着けている為、盗賊被害はある程度抑えられていた。はずだった。
「実物を見るのが早いか。エルン、明日の商隊には合流できるな?」
「はい。手配出来ております。ヴァルディアへ行きの商隊は、昼頃この街に到着する予定です」
ヴァルディア行きの荷物は、予め品物は指定してある。そして、商隊の馬車にはアルヴェスト商会の紋章が入っている。王都から運ばれてくる荷物だ。必ず情報が盗賊に届いているはずだ。
「予定通り合流する。実際の盗賊達を見る良い機会だ」
「かしこまりました」
「商隊の連中は?」
「問題なく」
明日の動きが細かく打ち合わせされる。
テーブルに用意された食事がすっかり冷め切り、夜も更けた頃、ようやく準備が整う。
食事にしようと、エルンが資料をまとめて片付けていた時、ふいに手を止め、リナリアとシルヴィオを見つめる。
「エルン?」
「シルヴィオ様、リナリア様、お伝えするのが遅くなってしまいましたが、ご婚約おめでとうございます」
「っ!!…あ、ありがとう」
「あぁ」
にこやかに、そして祝福を込めて伝えられた言葉に、リナリアは一瞬動揺して資料を強く握る。慌てて皺を伸ばし、シルヴィオを見つめるが、いつも通りの冷静な返答だった。
この人が動揺する姿を拝める日は来るのだろうか。
「では、失礼します」
「えぇ。お休みなさい」
食事を終え、エルンが退出した後、リナリアは今日は先にお風呂に入り、先手を打つことにした。先に寝台に入って、寝てしまえばいいのでは、と考えたのだ。
(これなら、抱き締められて寝ることもないはず…!)
決して嫌なわけではない自分の本心も理解している。でも、明日は大事な一日になる。少しでも身体と心を休めなければいけない。
ガチャ、と扉が開いて、シルヴィオがお風呂から戻ってくる。
慌てて目を閉じて、寝たふりをする。
「……寝たか」
シルヴィオが寝る支度を整えている気配を背後に感じながら、リナリアは必死に早く寝なければと意識する。
部屋の灯りが落とされ、遂にシルヴィオが寝台に入るまで、寝ることはできなかったが、このまま目を瞑っていれば寝れる、とほっと胸を撫で下ろす。
シーツの擦れる音と共に、シルヴィオの腕が後ろから腰に回される。
「っ…!?」
腕が触れているところが、ジンジンと熱を帯びる。お風呂上がりの、熱い身体が、リナリアの背中にピッタリとくっつく。小さく息が触れる距離で、声が落ちる。
「おやすみはどうした?」
「き、気付いていたんですか!?」
「あぁ」
後ろから掛けられた声に、堪らず声を上げる。気付いていたなら声をかけてくれればいいのに、と思うが、今はそれさえ口に出来ない。
「おやすみ、なさい」
「おやすみ」
背後から回された腕は緩むことなく、シルヴィオはそのまま眠りにつく。リナリアもまた、この温もりに安堵してしまう自分に内心悶えながら、眠りについた。




